2022年4月25日月曜日

ちむどんどん

  NHKの朝ドラ「ちむどんどん」がはじまりました。沖縄料理に夢を賭ける女性を主人公にしたドラマで題名になっている沖縄方言の「ちむどんどん」は「胸がわくわくする気持ち」を表している言葉だそうです。

 第4回に比嘉家で飼われていた豚のアババが食事に供される場面があり心打たれました。自分たちが愛情込めて飼育していたアババが知らないうちに「つぶされて(殺されて)」いたことにショックを受ける主人公たちに幼いころの自分が重なったのです。終戦直後は厳しい食糧不足でしたからタンパク質不足を補うために多くの家庭で家畜を飼っていました。我が家にはブルマウス種の鶏と兎がいました。鶏は産卵主体の白色レグホーンが主流で肉鶏のブルマウスは町内ではうちだけだったように思います。レグホーンが全身白色でスマートなのに比べてブルマウスは黒灰色に白い斑点のある羽色とムックリと寸詰まりの体形に愛嬌があって可愛くて仕方ありませんでした。ある晩の食卓に鳥料理がのりました。にく料理は珍しかったので喜んで食べましたが肉はちょっと硬かったのであまりおいしくなかったのを覚えています。翌朝鶏小屋へ行くとブルマウスがいません。どうなったのか大人たちに聞いてもはっきりしません。時間が迫っていたのでソコソコにして学校へ行きましたが鶏のことが気にかかって満足に先生の話は耳に届きませんでした。走って帰って庭中を探し回りましたが見つかりません。どこいったんやと泣いているとイナダのおばちゃんが来て「あんたに滋養つけさそうと思うておとうちゃんが昨日つぶさはったんよ」と教えてくれたのです。病弱でガリガリに痩せていた私は食糧事情の悪い中でもできる限りいいものを与えられていましたが肉だけはめったに手に入れることができなかったのです。事情が分かっても納得がいかず父を恨みました。肉が硬かったことが妙に心を刺しました。

 ウサギにはこんな思い出があります。ウサギは出産のとき暗闇にしてやらねばなりません。親兎が安心して出産するために他の獣の目を避けるためです。おとなたちにそう教えられていたのですがどうしても赤ちゃん兎が見たくて被ってあった布カバーを持ち上げて中を覗き込んでしまったのです。すると親兎があかちゃん兎をガブリと噛んで殺したのです。一瞬のことでした。あまりのことに度肝を抜かれた私は大声をあげて泣き喚きました。このショックはその後もしばらく消えず私を苦しめました。

 食物に関してはこんな思い出もあります。戦争中はどこの家でも庭や空き地で野菜を植えて僅かな収穫で飢えをしのいでいました。我が家は鉄工所でしたのでやや広い空き地があって芋を栽培しました。ところが鉄の削り屑や錆び粉が混じっているので地味が痩せていて生育が悪く「水いも」しかできないのです。食糧難でしたから勿論食べましたがやせて水っぽいお芋さんはとてもまずいものでした。今のホクホクした甘味たっぷりのとはまったく別のものです。今でも私が芋嫌いなのはその思い出を引きずっているからです。

 

 小学校4、5年ころ――1950年代はじめ我が家に「電気洗濯機」がきました。東芝の攪拌式で手回しの絞り機付きでした。新しもの好きの父が母のために買ってあげたのです。祖父と父と職人さんの内3、4人が住み込みでいましたから家族分も合わせると洗濯物は相当量あり洗濯板でゴシゴシやっている母を可哀そうに思ったのでしょう。もちろん地域で初めてでしたから近所の方たちが見学に来てしばらくは母も誇らしかったにちがいありません。ところがこれが嫁姑の諍いのもとになるのです。発売したばかりの商品で相当高額だったのでしょう、会社の経理をやっていた叔母から購入価格が祖母の耳に入りあまりの高価さに「贅沢過ぎる」と父を叱っただけでは収まらず母に嫌味タラタラで八つ当たりしたのです。母も「私はねだっていません」と意地を張ったものですから我が家はしばらく険悪な空気の日がつづきました。

 趣味人で道具に凝る方だった父は戦前から写真道楽で暗室までもっていましたし大型の舶来の電蓄を備えてクラシックのアルバム――CDどころかLPレコードもない時代ですから30分40分の交響曲は4枚組のアルバムになるのです――で洋楽を楽しんでいました。この電蓄は終戦直後から始まった町内会の盆踊りで大音量を響かせ活躍したものです。

 

 鉄工所の戦後すぐのヒット商品は「ナンバ粉のパン焼き器」です。米も小麦粉もないころでしたがナンバ――南蛮黍粉は割りと手易く手に入りダンゴなどにして食用にしていましたがパサパサしてあまりおいしいものではありませんでした。そこでパンにして食べるとこれがソコソコいけると分かってアルミ製のパン焼き器を考案したのです。アルミ鍋の真ん中に口広の徳利状の水入れがあってここから水蒸気を吐き出してパン状にするものですがこれが売れたのです。電熱器も売れました。粗いセラミックの発電盤にニクロム線を巻いて発電する原始的なものでしたが機能的には十分でした。

 

 昭和25、6年ころから本業の「力織機」に経営資源を注力して西陣織の復興発展に少なからぬ貢献をしました。歯車を「鉄製」にしたこと、ジャガード(紋様をパンチカードで自動入力する機械)を織機に組み合わせた斬新性が日本初ということで「市村式力織機」は一世を風靡するのです。お陰で家業は隆盛を極め力織機では日本で三本の指に入るほどの成長を遂げたのです。

 ところが1971年「日米繊維問題の政府間協定の了解覚書」が仮調印されます。これは「貿易摩擦」――高度成長を遂げた日本経済が脅威となってアメリカ経済を圧迫するようになります――の繊維産業に関する解決案となる覚書です。最初にやり玉にあがった摩擦が繊維製品で、もめにもめた末にわが国の「自主規制」という形で決着を見たのです。その際規制によって生ずる余剰生産力分の繊維機械(織機など)を「買い上げる」ことになり、それに相当する約2千億円分の機械が「打ち壊し」されることになるのです。

 競争力の衰えたアメリカの繊維産業を護るために何故日本の繊維機械が破壊されなければならないのか。テレビに映し出される破壊の様子は無残そのものでした。

 

 今ウクライナの人たちは「プーチンの殺戮と破壊の暴虐」を受けています。まったく『理不尽』です。しかし国家というものは時に理不尽な『暴力』を振るう存在であることを知るべきで、それは『外』だけでなく『内』に向かうこともあるのです。中国の民族弾圧は内に向いたものですし、日米繊維交渉の「繊維機械打ち壊し」も形を変えた国家による『暴力』以外の何物でもありません。

 

 『ちむどんどん』は今後どんな展開をするのでしょうか。「本土復帰50年」は今でも「ちむどんどん」なのでしょうか。

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