2024年4月15日月曜日

長生きは自己流

  最近やたらと百才本や長生き本が出回っています。いわく『無敵100歳』『102歳、一人暮らし』『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』『91歳、ヨサヘロ快走中』『90歳の幸福論』等々。これらの本がどうして売れるのか不思議でなりません。テレビに82、3才のご同輩が出てくると「えっ、これが82才?俺ってこんなの!」と驚かされますが、ことほど左様に人間80才も超えれば外見も身体能力も人それぞれで個人差があって当然。佐藤愛子さんがどんな健康法で長寿を得られようとそれが私に当てはまるとは限りません。同様に私にもあなたにも自分なりの健康法や鍛錬のメソッドがあるはずです。

 とはいえ私も以前一度だけ同種の本を読んだことがあります。外国の知名な女性の高齢になってからの「人的ネットワーク」を活用した仕事や趣味の広げ方、大体そんな本だったように覚えていますが有名人の彼女と私ではネットワークの広さも知名度、社会的地位も比較になりません。悠々たる老後の設計を開陳していましたが到底私の及ぶところではなく「そうですか、あなたはご立派ですね」といささかのやっかみと羨望を抱いて読み捨てました。せめてもの救いは図書館の本だったので金銭的浪費をせずに済んだことでした(そもそもこんなミミッチイ根性ですから勝負になりませんが)。

 

 最近になって「長生きはそれだけで立派」と思うようになりました。多くの場合「一病息災」の人が多いのですが、それでありながら健康寿命を維持して80才90才95才と生き永らえることは本当に凄いと思います。朝目覚めたときどこも悪いところがないということはめったにないはずです、それを長年付き合ってきた自分の身体のメンテナンス法でなだめて修復して、昨日と同じように振舞う。それを繰り返し繰り返して、絶えず健康維持法メンテナンス法を上書きして明日もまた同じような明日を生きる。そして90才95才100才と齢を重ねる、本当に尊敬します。どうして他人の生きざまを気にする必要があるのでしょうか。「長生きは自己流」しかありません。

 

 などと言っておきながら自分のことを吹聴するのは憚られるのですが最近気づいた「晩年の発見」を書いて見ようと思います。

 まず最初は先週書いた「筆ペン習字」のことです。何度も挫折した書を「80才の手習い」で何とか手の内に入れられたのは「筆ペン」のお陰です。挑戦しようと意欲が湧いたのは筆ペンの「手軽さ」でした。書は毛筆でするものという固定観念でいたらこうはならなかったにちがいありません。新しい技術を受け入れたから開けたのです。同様なことはパソコン(PC)やスマホにもいえます。60才を過ぎてPCに挑戦したお陰で今こうして「コラム」の連載もありますし読書も上々のペースで進めています。スマホで言葉や語句の意味を手軽に検索できることでどれほど読書の質が向上したことか。また引用文献をスマホで図書館に予約して読書がつながって問題意識を深化させることができた、こんな経験の積み重ねが読書を継続できた大きな原因になっています。新しい技術といえば「Line」もそうです。孫の成長がLineで送られてくる娘からの写真や動画で毎日のように身近に感じられています。

 老いても挑戦をつづける。気持ちの若さ、これが大事です。

 

 次は「日本酒」です。今年の正月伏見の親戚から「金札(宮)さんのお下がり」と月桂冠の一升瓶を頂きました。冬の晩酌はウィスキーか焼酎のお湯割りが定番で日本酒は正月やお祝いのときに呑む程度で、それも720ml壜をチビリチビリとやります。しかし一升瓶は開けたら早く吞み切らないと気が抜けますから毎日1合をお湯割りと共に呑みました。そして日本酒を呑んだときの睡眠の質が良いことに気づいたのです。深く眠れたり寝覚めた後の二度寝の寝つきがよかったり。ネットで調べてみると、ライオンと筑波大の裏出良博教授との共同研究で「清酒酵母」に“睡眠の質を高める”効果があることを発見したという情報がありました。

 80才で初孫を授かって彼の成長と私の老いの相反を考えると、老いを制御しなければならない必要性に迫られ、睡眠と排泄を最重要テーマにしました。睡眠の質は節酒が効果的(飲酒時の睡眠が浅い経験から)と判断して週2~3回休肝日にするのを今年の目標にしていたのですがそこへ日本酒の「睡眠の質向上効果」を発見したのです。勿論「不呑の日」はつづけていますが呑む時も僅かでも日本酒を加えることで良い睡眠が得られているように感じています。

 たまたま晩年に初孫を得るという僥倖に恵まれた結果ですが、老いと真正面から向き合おうという意欲を持てたことはのちのち感謝することになるでしょう。

 

 最後は「先祖祀り」についてです。先日友人4人と会って当然のことのように「健康長寿」が話題になり、私たちだけが夫婦とも健康なことの原因は何かと問われました。みな経済的に恵まれていますから健康配慮におさおさ怠りはなく、にもかかわらずあっちを切ったこっちを開いたしているのです。そこで私が訊ねたのが「先祖祀り」です。3人とも仏壇はありますが毎日お水を換えるくらいで、ひとりは手を合わす程度のお参りをしていましたが声を出して念仏を唱える者はいません。ましてや般若経を唱えてはいませんし「先祖と話をする(内心で)」ことなど思いもよらないのです。

 お水を換えて仏壇の前に座り昨日生きさせていただいたことを感謝し出来事を伝え悩みを告白する、念仏と般若経を唱えて、最後にご本尊、曼荼羅、明王、ご先祖を念じて無想境に入る、一瞬――1秒ほどトランス状態に落ちて「如来様」が現れる。その1秒は完全な無意識状態に没入します、精神の空白時間です。目を開くとスーッと原状復帰しますが体中の力が抜けていたことが実感します。

 医療は肉体的なものです、それも「内臓関係」に限定されていて眼科や皮膚科、歯科は不具合なときだけで定期検診をしている人はめったにいません。まして精神的なケアは皆無なのでは。「先祖祀り」は私たちの親世代、祖父母世代は生活の一部でした。先祖は意識の中に「現存在」としてあったのではないでしょうか。それが精神的余裕を与えてくれていたかも知れません。健康は肉体的であると同時に精神的な側面との合併状態です。現在は肉体的側面に偏っているのではないでしょうか。

 

 いろいろ書きましたが「長生きは自己流」が一番です。それでこぞ納得の一生です。

 

 

 

 

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