2024年4月29日月曜日

舟を編む

  今年1~3月期のドラマで一番は何と言っても「舟を編む」でしょう。三浦しをん原作の同名の小説をドラマ化したもので、副題に「私、辞書つくります」とあるように辞書編纂に携わる人たちのドラマです。嗚咽こそ洩らしませんでしたが毎回涙ぐむシーンがひとつかふたつはあり妻が一緒に見るのを避けるようになったほど感動的なドラマでした。言葉をこれほど大事にしている人がいることに心ふるわされ、紙というものがこれほど奥深いものだということに驚き、ことばに愛しさを抱く人たちの姿に涙が込み上げる毎回でした。そこで今日は今年これまでに読んだ小説から心打たれた言葉を集めてみました。

 

 国際紛争解決の手段としての戦争放棄を宣命する日本が、安全に日本の主権を任せ得るが如き国際機構の確立こそ世界平和への道であり国際連合がかかる目的を達成せんことを願う(以下略)。

 松本清張の『砂の審廷』にあるマッカーサーの日本国憲法の戦争放棄条項に関して述べた言葉です。この小説は「東京裁判」を大川周明(戦前の右翼思想を北一輝とともに先導した思想家)を主人公にして描いたもので詳細な資料分析にもとづいて東京裁判の不条理性を克明に描いています。

 戦後80年経って「平和憲法」などほとんど顧みられなくなり、混沌たる世界情勢の中自由陣営の一員として武力行使を当然視、戦力増強に邁進する現今の政治情勢に肌寒さを感じる老書生としては、このマッカーサーのことばの重さに胸を抉られました。今日の世界情勢をあらしめた責任をあげつらうことは避けますが、占領連合が敗戦国日本に「戦争放棄」を国是ならしめた責任者としてマッカーサーが、日本の主権を暴力から超越させるためには戦勝国を含めた世界が無力な日本を保護するための国際共同体機構を樹立する必要があると認識し、それを国際連合の完成に付託することを祈念したのです。それが今や戦勝国ビッグ5の「拒否権」によって機能不全に陥っている惨状です。あまつさえ武力による「現状変更」を厚顔無恥にも行なう大国と圧倒的非対称な戦力で現状変更する国に武力援助する大国が世界支配する現状は、80年経っても戦後戦勝国体制の存在を許してきた世界の怠慢です。

 

 次は弱冠38才の新星、逢坂冬馬の『歌われなかった海賊へ』です。構想力文章力とも抜群の作者が反ナチ活動する若者の奔放な姿を描いた本作は上質のエンターテイメント小説に仕上がっています。作中、ユダヤ人収容所で行なわれる残虐行為の行為者について

 「笑っていないと残酷になれない、互いに笑うことによって自分たちがしていることは、嘘なのだ、と考えているようだ」

 「彼は狂信者故に戦死に価値を見いだしていたのではない。戦死に価値を見いだすより他にないから、狂信者となったのだ」

 ナチという狂信はユダヤ人虐殺を繰り返し行ないましたが行為を麻痺させるための儀式として互いに笑い合うしかなかったのでしょう。二つ目の言葉は現在にも通用する論理です。

 逢坂冬馬は女性作家全盛の現在久し振りに現れた若手男性作家のホープとして注目していきたい作家です。

 

 夫婦は、愛情の愛は花と同じで、いずれは枯れちゃうかもしれない。でも、情の根っこが残ってるうちはだいじょうぶ。根っこに別の花を咲かせれば、友情にも人情にもなるわけ。(略)でもね、夫婦なんだから一つにならなきゃ、なんでも同じにしなくちゃ……なんてことを考えだすと、同情になるから。同情は共倒れの第一歩、絶対にだめっ。(略)夫婦っていうのは、愛情に始まって、友情になって、人情になって……で、最後に行き着くところが……(略)根性!

 現代の家族を描いて絶妙な重松清の最新作『カモナマイハウス』からの一文です。齢を取って、50年以上連れ添ってきた老夫婦の関係をどう表現すればいいのか。「空気のような存在」とはよく言われる言葉ですが我が夫婦はそんな関係にはまだ至っていません。そんなつもりはなかったのですが「完全な関白亭主」と妻も子どもも言いますが「賢いのかアホか分からん」とも揶揄します。勢力関係が逆転――といったら妻から反論があるでしょうから平衡関係になって、それとともに妻を理解できるようになって……。最も驚いたことは「おしゃれ」が彼女にとってどんなに重要事項であるかということです。何か事があると「なに着て行こう」がまず彼女の関心事となるのです。そんなことが重なって「カットまだ行かへんのか」などというようになりました。幸い初孫にも恵まれて80才でも妻は全開です。ということで我が夫婦はいまだ人情以前なようです。

 

 昔、ある高僧のもとに、元日に年始にやってきた男が、記念に一筆、何か縁起の良いことを書いて下さい、と頼んだ。快く僧は承知して筆をとると、サラサラと書きつけたそうだ。「親死に、子死に、孫死ぬ」。読んだ男はカンカンに怒って、「正月早々何でそんなことを書くんですか」と抗議すると、僧は静かに微笑して、「いや、こんないいことはないではないか。親が死んでから子が死ぬ。子が死んでから孫が死ぬでええので、これが逆になったら大変なことだ」と言ったので、その男もなるほどと納得して、その書を大切に持ち帰ったという話である。(金田一春彦『ことばの歳時記』より)

 80才を超えて親の死んだ年齢も過ぎ、やっと責任を果たしたような気持ちになっています。自身の健康に盤石の自信はありませんがそれよりも子や孫の恙無いことを願うようになって、高僧の言葉にしみじみと納得がいきます。

 

 最後は俵 万智さんの『アボカドの種』から一首。

 ちょうどいい死に時なんてないだろう「もう」と思うか「まだ」と思うか

 

 

 

 

 

 

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