2024年4月8日月曜日

筆ペンは邪道か

  先週極めて不愉快な目に遭いました。寺町二条の筆屋さんで「筆ペンのいいのありませんか」とたずねると「ウチは筆ペン、置いてません」と剣もホロロ、蛇蝎を見るが如き眼差しを浴びせられました。「呉竹の上級品をここが扱っているとネットで見たんですが」「呉竹、うちにはありません」。見かねたのかアルバイトの若い人が「入口のところにちょっとだけ置いてます。一軒隣の××さんならもっとあるかも知れませんよ」と申し訳なさそうに口添えしてくれました。隣の筆屋さんへ行くと女性の店員さんが親切に対応してくれて、呉竹ではなかったけれどソコソコ希望に沿った筆ペンを買うことができました。

 そして、書道も毛筆も廃(すて)れかけているのはあのおっさんのようなプライドばかりが高くて書道(毛筆文化)を普及させようと本気で考えていない輩がいるからだと心底思いました。

 

 去年筆ペンで百人一首を書くようになって、一年経って今年の正月から漢字も始めて書道にはまっています。毎日二枚ですがつづけているとたまに納得のいく字が書けることがあり、この時のよろこびはこれまで経験したことのないこころよさなのです。多分この習慣はこの先何年もつづくであろうと思います。

 

 これまで何回か書道に挑戦しました。筆も硯もそこそこのものを調えていますが長くて一ヶ月続いたことがありません。考えてみるととにかく面倒なのです。道具を出して墨汁(墨をすることは早くにしなくなっています)を用意して、書いて、筆を洗って乾かして。これがじゃまくさいのです。これを解決してくれたのが「筆ペン」です。筆箱から取り出してキャップを取ればそれでOK、書いたらキャップを被せれば終了、この手軽さは無敵です。大衆品ではじめてしばらくするともうちょっとマシなものが欲しくなり、今回はさらに高級品を試したくなったのです。弘法は筆を選ばず、といいますが素人は腕と内容が向上するにしたがってそれに合った筆が欲しくなるのです。何年もホコリを被っていた「本物の筆」もこの1年半ほどの間に何度か手にしました。ウデが上がるとそうなるのです、手にしてやっぱり「ちがうなぁ」とその良さを認識するのですが毎日になるとやっぱり筆ペンの手軽さに勝てません。

 

 そもそも筆を手にしようと思ったのは『くずし字で「百人一首」を楽しむ』(中野三敏著角川学芸出版)で「くずし字」を読めるようになろうとしたのがキッカケです。これまで何度も挑戦してどうしても習熟できなかった「くずし字」にもう一度取り組んでみようと思ったのです。これまでの失敗を反省してただ読むだけでなく「書いて」覚えようとボールペンで書いてみるとこれが中々効果的なのです。そこでどうせなら筆で書いてみようと手近にあった金封の表書き用で試すとこれが思った以上にお手本の雰囲気に馴染むので筆で書くことにしました。百首を一周すると筆をもっと良いのにしようと同じ呉竹でも上質のに取り替えるとますます「くずし字」らしくなり「覚え」の方も上々です。そうこうするうちに上のような経緯(いきさつ)に至ったのです。

 

 「くずし字」で平仮名になれると当然の流れとして「漢字」をやってみたくなりました。仮名のお手本を「百人一首」にしたのが続けることのできた原因でしたから漢字のお手本選びは慎重でした。本屋さんでいろいろ試し読みしましたがこれはという本には出会いませんでした。そこで古書店へ行ってみました。「三体千字文」を手に取って、これがいいと直感しましたが結構高いのです。そこでネット古書店で手に入れたのが『三体千字文』(飯田秋光書高橋書店昭和40年発行1,570円で購入)です。「千字文」というのは南朝・梁(502年~549年)の武帝が部下に字を習得させるために周興嗣に命じて作らせたお手本です、「三体」とは楷・行・草の三書体です。飯田さんの書体が好みに合っていて最高のお手本です。(意味は『岩波文庫・千字文(小川環樹他注解)』で学びます)

 

 何度も挑戦して挫折を繰り返してきた「書」になぜハマったのでしょうか。

 まずは「筆ペン」の手軽さです。筆箱から出せば即書ける手軽さは私のように面倒くさがり屋には必須の条件です。スタートは筆ペンでよいのです、手が上がれば結局「ほん物の筆」に行きつきます、当然の流れです。文机、硯、筆、墨、毛氈、紙と揃える大層さと大義さ、これが「書」を怯(ひる)ませるのです。最終目的は「書」に親しむことにあるのですから入口は入り易いほうがいいのです。

 次が「書体」です。お習字はまず「楷書」から、これが難関なのです。楷書は完成形で他人(ひと)が誰でも読める端正な書体として公文書などに採用されたものです。入口は実際に昔の人が実用したもの――多分行書と草書の間の「エエ加減」なものからスタートした方が書き易い、経験からそう思います。くずし字で百人一首を、漢字は行草楷の三体で書くから馴染みやすく入れたように思います。

 三つめは「お手本」です。百人一首を楽しみながら平仮名を書くという入口が良かったと思います。いい大人ですから「いろは」では意欲ゼロになって当然です。漢字も「千字文」は漢文で意味内容がありますから興味をもって三体を書きますから「くずし方」、筆の運びが学べて楷書への道が開きます。

 最後に「書斎」です。机に向かって姿勢を正して「書」に向かう、この切り替えは大事です。娘が使っていた部屋が空いて念願の書斎に仕立てて、これが「書」にもいい効果を生みました。

 

 パソコンとスマホの時代になって、これは止めようのない時代の流れです。当然のように「書く」ことが減ってきます。しかし「書く」という作業と「学び」には人類の長い歴史のなかで強い結びつきがあります。このままでは「頭脳の劣化」が起こるのではないか、そんな危惧を抱いています。

 「書」はただ書くという作業以上に「遊び」として高級です。どうしても残したい「文化」です。日本文化の重要なピースです。そこへの導入という大きな目的のためなら「筆ペン」を邪道視しないで誰もが「書」に興味を持つ入り口として、「書道」の構成要素として組み込むことは有効なのではないでしょうか。書道に携わる方々、書の用具を扱う業者の方々、一考の余地ありと思いますがいかがでしょうか。

 

 「書」が生活の一部になりました。毎日の楽しいスタートです。

 

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