2024年9月16日月曜日

キミが主人公だ

  この頃おじいちゃんおじいちゃんやね、ぽつりと妻が言いました。おばあちゃん一辺倒だった孫に変化が表れたのは「シール剥がし」以来です。二才になった頃からテレビが解禁されてアンパンマンにハマった孫はシール貼りに熱中しました。そのうち貼って終わりではなく「貼って剥がして貼る」という面白さを求めるようになりました。しかし紙に貼ったシールを剥がすのは至難の業です。お父さんもお母さんもできなかったのでおじいちゃんおばあちゃんに頼ったのですがおばあちゃんは早々にお手上げです。おじいちゃんはがんばりました。爪を立てて引っ搔いてひっかいて、なんとか一枚剥がれました。半分薄紙がくっついていますが「やったぁー!」と喜んで貼って「もっと」とせがみます。おじいちゃんが特別な存在になった一瞬でした。

 私の健康法の中心は「快適な排便」です、そのためにウチでは放屁を許してもらっています。さすがに婿さんの前や娘の家では慎んでいたのですが習慣ですからつい孫の前でプーしてしまったのです。怪訝な顔で私を見つめます、「おじいちゃん」妻の叱責に「ゴメンナサイ」。何度かそんなことがあって、今プーしたのだれ?という妻の声に「おじいちゃん!」間髪を入れず答えるようになりました。大人でプーするのはおじいちゃんだけ。仲間意識が彼の中で生れたかもしれません。

 

 孫は可愛いといいます、想像以上でした。溺愛という言葉が実感できました。しかし80才にして初めて授かった孫は可愛いだけでなく、驚きであり健気であり畏敬の念さえ覚えます。ヒトというものはこんなに生きようとするものなのか、生命(いのち)はここまで必死に成長するものなのかを教えてくれます。

 娘夫婦の子育ては慎重ですが賢明だと思います。なかでも1歳児保育を選択したのは大正解でした。もちろん娘の職場復帰という必要に迫られた事情はあったのですがめったに主張しない婿さんの強い意向で園にあずけることにしました。既成概念として、3歳までは親が育てた方がよい、育てるべきだという刷り込みがありますし、心情的にも頑是ない幼子を親から引き離して他人にあずけることに不憫さを感じるのですが、こうした考えが幼児の成長にとってまったく根拠のない誤ったものであることをこの1年半の通圓生活が証明してくれています。

 月齢がクラスでもっとも高い(早い?)こともあって成長速度が一番でリーダー的な存在となって、自立心が強く自分で考えて行動する傾向があり個性的でありながら小さい子が好きで面倒見がよい一面をもつようになりました(詳細な連絡帳があり園での行動がよく分かります。先生の努力は並みなみならないものがあります)。考えてみれば当然のことで保育士さんは幼児教育の専門家で素人の普通の親(ましてジジ、ババ)より知識と経験が豊富なのですから子どもの成長に良い結果をもたらしてくれて何の不思議もありません。どうして誤った既成概念がはびこったのでしょうか、そしてその誤った考えで国の幼児教育の施策が決まっているのでしょうか。さし迫った問題として娘の「時短勤務」が来年の3歳の誕生日で打ち切りになってしまうのです。3歳の後先で養育事情になんの変化もありません。少し先には「小1の壁」も控えています。このままでは娘は来年今の職場から時短勤務可能な近所の地元の企業(お店)に転職しなければなりません。キャリアロスと待遇悪化を強いられます。子育て支援、子どもまんなか子ども家庭庁とか掛け声は口当たりのいいことを打ち出していますが実状はこの体たらくです。

 

 どこの親もジジ、ババも幼児の成長を目の当たりにしていると「この子は賢い、天才かも?」と思うものですがそれがどうして成長に従って「十で神童十五で才子、二十過ぎれば只の人」になるのでしょうか(以下の引用は『承認をひらく(暉峻淑子著)』からです)。

 生れたときから評価され、標準到達度をテストされ、他者と比べられる社会/“勝ち組”至上主義という承認基準を持つ社会は、別の意味で生きにくい社会なのではないかと思います。一方では激しい競争社会で査定されつづけ、他方では自由の名のもとに個人はバラバラにされ、依るべきものを持っていません(引用

 ちょっと前まで「いい学校に入っていい会社に就職して」というのが親の願いでした。まだその影響は少なくありませんがこうした価値観は「よその子との比較」であり「世間一般の(他人から与えられた)価値基準」であることに変りありません。

 子どもは大人から見守られ、信頼され、ありのままを承認されていると感じると、自己肯定感を持ち、将来への希望を持つようになります。どの子も自分の能力を発揮して、認められたい、という潜在的な承認欲求を持っているのです(引用)。

 親や大人から管理されるだけでなく、仲間との自由な遊びの時間と空間を合わせ持つことによって、子どもは自分の人生の主人であることの楽しさと喜びを経験します。それが大人になったときの自立の喜びの原体験になっているのです(引用)。

 子ども時代の仲間との自由な遊びを通して、子どもは自発的な能力を育てる。管理から解放された自由な遊びは創造性を育て、個性を育てる。家の中だけでは子どもの精神は育たない……精神が育つためには自由を与えなければならない。自分が自分の主人になったことのないものの精神は自立することがありません(引用)。

 両親や祖父母などの庇護のもと経済的にも豊かに育てられることは一見子どもにとって恵まれているように感じますがそうではないのです。「私は自分の人生の主人公である」という実感を持ったことのある人と優秀なキャリアがありながら不祥事を起こしてしまう人の分かれ目はこんなところにあるのかも知れません。

 

 ああしろこうしろと命令され、褒められたり叱られたりすることを判断の基準にしてしまうと、大人になっても自分で判断する力が育っていませんから、真の意味で自立した人間にはなれません。外側の基準に合わせるだけの人間になります(引用)。

 褒めるということと、人格を持った一人の個性を承認するということは次元が違うことを覚りました。私の経験の中でも、なんとなく感じていた「褒めること」への違和感がはっきりしたのです(引用)。

 「褒めて育てる」が普通になっていますが実は非常に難しいことに気づいている親は多いはずです。やみくもに褒めても自由放任では自己中心のわがまま勝手なイヤな子に育ってしまいます。肝要なところは「人格を持った一人の個性を承認する」ことです。これが難しい、親自身が経験していないこともありますから。

 

 価値観を自分自身で持つこと、そのために「それぞれの子どもが自分の価値に目覚めること(引用)」を目標とする教育がわが国で行われる日が一日も早くくることを願って止みません。

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿