バスの車窓から見える街路樹のイチョウは9月半ばを過ぎても36、37度という異常高温のつづくなかにもかかわらずもう3分ほど黄葉づいています。イチョウはスゴイなぁと思います。現生する樹木の中でもっとも古い、約1億5千万年の歴史をもっていますから――ほかの植物がみな化石になったなか唯一生き残った強烈な生命力をもつ樹ですからこんな異常高温などものともしないのでしょう。バスを降りて昼下がりの住宅街を歩くとほんの十日前まで日陰がまったくなかったのに家の影が伸びて太陽を遮ってくれてわずかな風のそよぎにも涼しさが感じられます。太陽が真上から少し斜めに下りてきているのでしょう。自然は少々の異変などに関係なく悠久のいとなみをくり返しているのです。
それにくらべて人間はたった50年で節操もなく変わり果てています、清貧、孤高、卑怯者などの言葉が死語になったように。もっとも聞かなくなったのは「清貧」でしょう、たまたま今週終章を迎えるNHK朝ドラ『虎に翼』の終戦直後のシーンで餓死した裁判官が話題にのぼりその死にざまを「清貧」と呼んでいたので思いだした人もあるかもしれません。清貧という生き方は完全に姿を消しています。こんな世相ですから生活に困窮している人は少なくとも2千万人(相対的貧困率15.7%)は下りませんが彼らは好んでそんな状況にいるわけではありません。「労働力の流動化」の美名のもとに「非正規雇用」という「働き方」を《圧しつけられた》人たちです(真ただ中の自民党総裁選で「解雇規制の緩和」を行なって労働力の流動化を促進しようと提案している候補者がいます)。一方「清貧の人」は自分の生き方を貫くために「貧しさ」を選んだのですから根本的に異なります。「孤高」はもっぱら新聞の「訃報」の中で逆境にもかかわらず自説を貫き通した人を尊称する場合に用いられていることが多いように感じます。それに比べて「卑怯者」は今でも使われる機会が残っている方ですがマスコミで「彼は卑怯者だ!」と断罪した人がいました、梅沢冨美男さんです。話題の斎藤元彦知事を「卑怯者!」と称したのです。あまたの識者・コメンターターが歯切れの悪いコメントを繰り返す中で久々にスカッとしたのですが「卑怯者」は彼ではなく片山前副知事に当てはまる表現ではないでしょうか。斎藤知事はもっと悪辣な、人間的に厳しく非難されるべき表現を当てるべきだと思うのです。森友学園問題の佐川財務局長――彼も齋藤さんと同じくその所業によって人を殺していますから――にも当てはまるような言葉を探したのですが『卑劣』以外に思い当たりませんでした。
「卑怯者」には臆病というニュアンスがありますから、まさかここまで自分の悪事が明らさまになるとは思っていなかった片山さんは考えられる限りの権力をかさにきた威圧的でネチネチ、どぎつい詮索・捜査を行なって知事――上役への忠誠心を示し忖度したのです。ですから形勢我に利あらずとみるや尻に帆かけて逃げ出したのですがもっとも似合わない「泣き」まで演じたのですからみっともなさも極まりました。もともとが小心翼々の小役人で保身に関しては臆病ですからまさに「卑怯者」は片山さんに献ずべきなのです。
前任の井戸知事は5期20年の長期政権でしたから県庁の隅々までその威光は行き渡っていました。長期政権の悪弊は権力構造に歪みをもたらします。そんな中で人事畑を振り出しに企画県民部管理局長、西播磨県民局長、産業労働部長、公益企業管理者などを歴任した片山さんは井戸体制の中をもっとも上手に泳ぎ亘った「役人」の典型です。当然知事の庇護のもと隠然たる権力を保持したでしょうしそれを快く思わない職員も多かったにちがいありませ。事務方トップに上り詰める直前で定年退職せざるを得なかった彼は心残りであったことでしょう。しかし井戸さんと同時に片山さんも県庁から去ったことで井戸体制に批判的であった人や処遇に恵まれなかった職員はヤレヤレと思ったにちがいありません。
ところが信用保証協会の理事長に収まっていた彼が斎藤体制になるや副知事に返り咲いたのです。改革を期待した職員が失望したのは想像に難くありません。独断専行のキャリア官僚上がりの知事と県庁に張りめぐらされた旧体制の権力構造を熟知した「副知事願望」の極めて強い「役人根性」丸出しの「寝業師」がタッグを組んだのですから最悪の権力体制です。心ある職員は絶望感におそわれたにちがいありません。当然の結果として組織に忠実な「イエスマン」が要職を占めることになります。元県民局長と同時に「捜査」を受けた職員にスマホの「スピーカー」を強要した人事課員はそれが「盗聴」に値する「違法」な行為であることは熟知していたはずです。それにもかかわらず違法行為を断行したのは県庁職員としての倫理観を放棄して「忖度職員」に堕落してしまっていたのです。
長々と兵庫県知事問題を述べましたが、これが今の「“勝ち組”至上主義」を象徴していると思うからです。能力を評価されて組織に生き残る、そして上り詰める。そのためには自分を放棄するのも仕方がない、そんな「価値基準」を信じる人が世間を牛耳っているように感じてなりません。しかしその評価・承認はそのときの「組織にとって」「上役にとって」都合のいい基準に過ぎません。井戸さんに認められる基準と斎藤さんのそれは異なっていることもあるでしょうし10年20年のスパンで見れば組織の評価基準も変化して当然で社会という広い範疇で考えれば30年も経てば価値基準は大きく転換してしまいます。上述の「清貧、孤高、卑怯者」は私たちの子どもの頃までは重要な「倫理」だったのです。それが今や『死語』に成り果てているのです。
トランプ現象に見られるように虐げられた層、恵まれない層の人たちは自分を放棄しても「庇護」してくれる「カリスマ」に『支配』されることを受け入れて『隷従』してしまい勝ちです。それは自分の内なる「価値基準」を持っていないからです。「自立」していないからです。井戸体制の、齋藤体制の「評価基準」よりも「内部通報者保護制度」という「社会の法――制度」の方が上位の価値基準であり尊重すべきであることは通常の神経であれば、公務員になるほどの知識・識見のある人なら分かっているはずです。それが通用しなかったところに「“勝ち組”至上主義」が跋扈している「精神状況」を見るのです。小泉政権から安倍政権とつづいた「新自由主義」の潮流です。
立憲民主党と自由民主党の代表・総裁の選挙が行なわれています。両党の新しいトップのもとで「脱新自由主義」が実現できるのでしょうか。
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