2024年9月30日月曜日

読書離れ

  元旦に大地震に見舞われた能登半島にまた記録的な豪雨が襲い被災者が暮らす仮設住宅が床上浸水の被害にあいました。しかもこの仮設住宅は洪水リスクの高い想定区域に建設されていたのです。当初から指摘されていた立地のリスクが現実になったことになり行政の責任は明らかです。史上まれにみる惨状を経験した被災者が追い打ちをかけるようにまた被災する――高齢者も多い被災者の今後が気遣われます。それにしても石川県馳知事の県政運営はあまりに杜撰かつ無計画すぎます。少なからぬ部分は人災ですから責任を明確にして謝罪すべきです。

 

 本を月に1冊も読まない人の割合が6割を超えたという発表がありました。文化庁の「2023年度国語に関する世論調査」によるもので2008年以降の調査で最も多く5割を超えたのもはじめてです。

 一方で出版社の業績悪化も著しく2023年度には36.2%が赤字となり過去20年間で最悪の状況に直面しているという報道もあります。全国で書店が減少しつづけている現状もあり読書を取り巻く環境は極めて厳しいものがあります。

 

 80才を超えてそれでも健康に過ごしているご同輩も結構多く彼らがどんな晩年を送っているか興味があるのですがどうも「老後を持て余している」感が強いのです。私の周りは大卒が多く知識産業(職種)に勤務していた割合も多かったのですが――60才前後から70才頃(嘱託も退いて仕事から離れる時期)にかけてリタイア後の話をすると多くが「晴耕雨読」を口にしていましたが最近は「目が衰えた」「根気が続かん」とほとんど読書から遠ざかっているようです。先の調査で0冊の割合を年代別に見ると20代71.1%、30代73.5%、40代80.2%50代85.1%60代91.5%になっていますから統計的にも高齢者の読書が低調なのが分かります。

 

 読書離れの理由はインターネット・スマホに時間がとられるやSNSがあげられますが――直接的な原因としてはそれが正しいのでしょうが、意外と忘れられているのが大学の「教養学部の廃止」ではないでしょうか。1991年に大学設置基準の大綱化あって卒業に必要な一般教育の単位数の規定がなくなるとともに多くの大学で教養学部が廃止され2023年4月現在国公立大学では東京医科歯科大学に唯一教養部が残っています。大綱化の詳細は省きますが学習と卒業の安易化――入るのは苦労するが卒業は誰でもできるというこれまでの弊害が一層強まっているように感じます。

 高校までの受験勉強一色から解放されて好きな勉強ができる――目新しい学問分野や全国から参集したレベルの高い同期と先輩の読書量の多さに圧倒されて少々恐れをなしながらもそれ以上に学習意欲に駆られて猛烈に読書に打ち込んだ「教養学部時代」がその後の人生の修養・修練の期間であったように覚えています。そこでの先輩同期後輩たち、そして教授との交わりは今でも人生の貴重な糧となって今日に至っています。この時期に読んだ本はその後の人生の基礎図書になっていることが多く、私もE・H・フロム『自由からの逃走』、ジョン・K・ガルブレイス『豊かな社会』は終生の愛読書になりました。社会や国民のニーズに即応した大学の弾力化・柔軟化の美名のもとに行われた「改革」ですが当時の経済界の要求として改革そのものの要因であった「即戦力化」は未だに実現できていません。経済界の求める人材像も時代とともに変化し今では「課題設定・解決能力」「論理的思考力」「創造力」になっていますがこうした能力は、幅広い読書と深い専門性、そして熱い友人関係を通じて醸成される能力で、「教養学部」で練磨されていたように覚えていますし「リベラルアーツ」は欧米の大学の重要な修得学問になっています(ハーバードをはじめとした名門校はリベラルアーツを起源としている大学です)。

 平易化された大学で1年から専門分野ばかりの狭い領域を学習する今の制度では幅広い読書を修練する機会は限られています。

 

 出版社の業績悪化も読書の衰退に影響を与えています。出版科学研究所のデータによると返品率(金額ベース・2019年)は書籍が35.7%、雑誌42.9%になっていますがこれにはベストセラー、ロングセラーも含めた数字ですからこれを除外した書籍の返品率は5割を超えているのが実状です。出版した半分が売れないようでは製造業としては破綻しているといっても過言ではありません。極言すれば「粗製乱造」で毎日毎月氾濫する新刊書をどう選べばいいのか、結局平積みの人気書を選ぶしかなく系統立てた深い読書にはほど遠い環境に置かれた現状は、読書はSNSやテーマパークなど多様なエンターテーメントと競合する立場に追いやられていて、その割に要求される知識技能は多く、面倒くさい選択肢になりますから自然、遠ざけられてしまうのではないでしょうか。

 

 読書はなぜ必要なのでしょう。これまでも多くの人たちが読書をしてきましたし、今活躍している政治家や官僚、企業経営者の多くは人並み以上の読書量と勉強ができた人たちですが、政治は停滞していますし官僚は文書改竄を平気で行ったり忖度を憚ることもなく、企業経営者は多額の報酬を得ながらイノベーションを起こせずに世界で唯一、ゼロ成長を甘受しています。第二次世界大戦という貴重な代償を払って手に入れた「平和」でありながら80年経った今、ウクライナでもガザでも戦争がつづき北朝鮮は原爆の製造を止めようとしません。プーチンもゼレンスキーも金正恩も賢くて豊富な読書をしてきたはずなのに。

 

 ショーペンハウアーが『読書について(光文社古典新訳文庫)』こんなことを書いています。「読書することは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。(略)思想体系がないと、何事に関しても公正な関心を寄せることができず、そのために本を読んでも、なにも身につかない。なにひとつ記憶にとどめておけないのだ。」

 本を読んで多くの知識を手に入れても、「何かのために」役立つものだけをバラバラな知識として「暗記」していたのでは、「公正な関心」にもとづく「思想体系」はできません。最高学府を出た政治家や官僚が「不正」な判断をする原因はここにあるのでしょう。

 

 PC・スマホが普及してAIが進化すれば、過剰な情報が「AI検索」によって一方的に「自分の考え」であるかのように提示されることも容易に現実化するにちがいありません。その結果「望まない方向」に無意識に導かれることになる可能性は大いにあります。そうならないように「情報」を「批判的」に収集するために「正しい」読書は有効なのです。

 「愚鈍と不作法はたちどころに広まる」。ショーペンハウアーのことばです。

 

 

 

 

 

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