この齢になると伴侶(つれあい)を亡くした友人も少なくありません。彼らが今どうしているのか、妻の死をどう受け入れたのか気にかかります。というのも今年の異常な暑さに、この先何年生きていけるか不安になったからです。そんな折、若い(1987年生まれ)哲学者――岩内章太郎さんの書いた『星になっても』(講談社)という本を読んで、死や死の受容の仕方について教えられることが多かったのでそれについて書いてみようと思います。本は七十才の誕生日に亡くなった父君の死をエッセーにしたものです。
死は心臓や脳の活動停止だけを意味するのではなく、これまでの親密な関係を徐々に失い社会の表舞台から姿を消していく過程として経験されるものです。
閉ざされた人は、死を排除する社会の力学に従って隔離されたまま死ななければならない。この、死に向かってますますひとりぼっちになっていき、死以前の段階で〈私〉の存在の意味が消えかかるという、死と孤独の耐えがたい結びつきは現代社会に特有の現象である。
愛する人を失うことは、自己と世界の結び目そのものを失うことである。それはつまりフィギュレーション(自己を取り巻く形態)の全体が変わることを意味する。(略)だから、愛する人を失うとき、〈私〉は〈私〉自身を失うに等しい。
※ 死全般についての彼の解釈です。関係性の喪失に力点が置かれています。なぜか?
死にゆく者の孤独は神話や宗教が共有されないからこそ生じる現代ならではの課題なのだ。
神話は死に形を与えたのである。(略)理解不能な出来事としての死に脅かされる時代は終わり、人間は死をわがものにしたかにも見えた。
死の意味を他者と共有することができなくなり、死の不安を一人で引き受けなければならない、という新しい問題が現れたのである。
※ この分析は新鮮です。科学万能になって、また昨今の墓じまいの風潮はますます死が自分だけのこと、自分とその家族――身内だけの出来事に閉じ込めてしまう、他者との共有が物理的にもできなくなってきています。
健康に生きることのみを第一義とする社会は、老いと死を周縁化する。
私は以前、死という当り前の事実を「必然」の意味で考えていた。しかし現在は、それを人間の「自然」だと感じている。(略)必然と自然。似ているが、その語感はちょっと違う。(略)前者には、死への抵抗の気分がどことなく伴うのに対して、後者にはそれがなく、生と死を一つのものとみなす気持ちがないだろうか。死は自然の事実にすぎない。それは、論理的なものというより動物的なものだ。
※ 父の死を経験することで、それをどう受け入れるかに悩んだ彼の結論です。頭で考えてるうちは必然として納得していたけれども、受け入れ拒否を論理で抑え込もうとしていたけれど、実際に経験するととても論理の及ぶものではなく、自然の事実として動物的に受け入れるしかないということに若い哲学者は気づいたのです。
ここまでなら普通の哲学書の書き振りですがこの本の一番の魅力は お母さんと作者の、夫であり父の死の受容に関する会話のリアリティにあります。
自分の気持ちの中でお父さんに対して自立していると思ってた。経済的なこと以外は。あー、だけど違ったんだな、と。この日常という人間との関係性って、これほど深いものなんだな、ということを実感したよね。
私には日常(仕事と家族)がある。それが生活のリズムをつくりだしていく。私の思いとは無関係でつくられるこのリズムはもちろん一概によいものだとは言えない。が、日常とともにあるかなしみと、日常を持たないかなしみでは、そこに生じる情動の質がまったく異なる。日常を持たないかなしみは、静かで深い。出口がない。母は「日常」を失って、父がいない家に閉じ込められた。私はそれに気づけなかった。(略)正直辛い時間だったが、それは日常という背景に支えられていた。ところが母の日常は父である。母にとって父がいなくなる、ということは日常がなくなるということを意味した。母の喪失を支える背景は存在しない。母にとって父の不在は、日常のない生活を続けるということだったのである。
一人で生きていくぞ、っていう、そういうものと、現実は一人で生きていけないかもしれないという葛藤が、かなしみに拍車をかけているのかな。(略)子どもたちは結婚しているんだから、自分の人生を考えていかなければならない。でも、それにはあまりあるんだな。すぐに解答がないわけだ。自分の中で。(略)そして、母の現在のほとんどを父の不在が占めている。このことの意味を私はうまくつかめない。私の現在には、家族がいるからである。(略)母は「こうやって生きていけばいいんだな」という感覚を取り戻そうとしている。(略)自分に人生をどうしたいのか、という問いに、切実さがでている。まだ、父の死を総括したくないのだ。
※ 日常という繰り返しの中で私たちは生きています。そしてそれは人間関係でありそれを通じた仕事――ルーティンの繰り返しです。人間関係がなくなるということが喪失なのです。もし妻が私より早く亡くなったとして、その空虚さに耐えられるでしょうか。悲しみは当然ですが日常性の欠落という頼りなさのもたらす不安はそう容易く解消できないにちがいありません。
最近時々「名前のない不安」を感じることがありました。そのうちのいくらかがこの本を読んで理解できました。書評で紹介されていなければこの若い哲学者のエッセーに出会うことはなかったでしょう。信頼できる書評(子)の存在は良き読書生活に必須の伴走者です。