2025年11月13日木曜日

AIとカン

  菊花賞は惜しかった。カンを信じるべきでした。

 本命と対抗は人気通りで仕方ないとして穴馬を探って、結果⑫ゲルチュタールと⑭エキサイトバイオにたどりつきました。まず目についたのはエキサイトでした。夏レース直前のラジオNIKEI賞(GⅢ、1800m)を勝って能力に目途をつけた調教師は夏を全休して菊花賞にそなえた、そんな陣営の姿勢から菊花賞に賭ける強い意志を感じました。もう1頭がゲルチュタールです。ダービートライアルの青葉賞を3着した底力と初出走以来2000mから2400mの長距離路線を選んできたステップに加えて近年菊花賞で良績を上げている日本海ステークス(2200m)を勝ち上がってきた戦績はいかにも菊花賞向きと判断したのです。さてどっちを選ぶか?

 ゲルチュタールでした。菊花賞は3000mです、どの馬も未経験の過酷なレース。初出走から長距離路線を歩んできたデータは陣営の並々ならぬ菊花賞への執念を感じます。一方のエキサイトも2000mの中距離路線を選んできましたが勝ったGⅢが1800mというのがひっかかりました。そして最後は騎手です。坂井瑠星と荻野極、この差は大きい。

 結果はご存じの通り1、2着は本命対抗のエネルジコとエリキングで3着がエキサイトバイオ、ゲルは4着でした。何故ゲルチュタールを選んだかといえばカンよりデータに重きを置いてしまった、そして最後の最後に13番人気よりも5番人気の安全性へ走ってしまったのです。

 

 2年前にケイバを止めようと思いました。でも競馬は好きなのでレースを見るのですがあまり面白くない、勿論検討はしますがどこか緊迫感がないのです。そこで思い出したのが虫明亜呂無氏です。60年ほど前、第一次競馬ブームのころ――シンザンが戦後初の三冠馬になって競馬人気が盛り上がった当時の競馬評論家で「文学系」競馬評論の先駆けでした。競馬評論家なのに「馬券は複勝200円券1枚」しか買わないという変わった人でした。当時の私は、そんなもん馬券とは言わん、と嘯いていたのですが、今度馬券はGⅠだけ、それも「複勝500円」と決めてレースを見てみると買わない場合より格段に面白いのです。私もやっと虫明氏のレベルに達したかと少々悦に入ったものでした。

 

 もともと馬券は下手な方です。それがコロナ以降パソコン購入に変更して猶更当たらなくなってしまいました。現場の喧騒と鉄火場めいたヒリヒリした緊張感のなかでのヒラメキの決断とヌクヌクとした日常生活のユルイ環境での馬券では決定的な乖離があるのでしょうか。出馬表も電子版はだめで競馬新聞(またはスポーツ新聞)、それも横書きではなく縦書きでないとシックリこないのです。でんま(出馬)表を下の欄(直近のレース)から上に舐めるように見上げているうちにヒラメキが来る、それが「カン」なのです。同じようにこうした作業を繰り返しても馬券を買う買わないでは「没入感」がまったく異なるのです。

 データだけでなくお金を賭けるという緊張感の中で繰り返し繰り返し馬券を買って、スッて痛い目にあって、反省して、勉強して知識を深めて、ようやく身に着いたのが「カン」というものです。

 お金を賭けて馬券を買って、こうした作業を繰り返して「カン」ができ上がる、この過程をAIはプログラム化できるでしょうか。競馬の「カン」とは知識やデータを飛躍した「ヒラメキ」のことだと思います。

 AIは「カン」をプログラム化できない、そう考えます。

 

 生成AIがブームです。この流れを止めることはできないでしょう。あっという間にあらゆる分野でAIは活用されるにちがいありません。それほどAIは有効で便利です。生産性は飛躍的に向上して少子高齢化による「労働力の不足」は相当部分解決されるにちがいありません。ただその時の社会のかたち――人間とAIの役割分担の予想図が明らかになっていませんし、だから社会的合意も醸成されていません。にもかかわらず膨大な投資が行われ社会は一方向へ傾斜を強めています。

 極めて危うい状況です。

 

 特に危惧しているのが「教育」です。

 これまでの教育は――特に日本の教育は極言すれば「AI的人間」をつくることを目指してきたのではないでしょうか。広く知識を吸収して適応力の高い、配置された場所で要求される能力を速習して定められた機能を遂行できる人材の養成を国家は教育に求め管理してきました。明治維新以来高度成長期までこの教育モデルは成功してきました。しかし新自由主義のグローバル経済社会になって破綻しました(不登校児童35万人、全小中学生の約4%というデータはその一端を表しています)。独創性と批判精神の欠如がこの教育制度の欠陥です。しかも今要求されている能力はこのふたつです。

 生れたときから高度なIT環境の中で育つこれからの子どもたちはAIを簡単に使いコナすでしょう。しかしAIのもたらす結果を批判的に受け入れる能力は身につけているでしょうか。AIの答以上の創造力を発揮することはできるでしょうか。結果、AIに使われる「奴隷」に成り下がらないと自信をもって言えるでしょうか。

 電子教科書さえまだ根づいていないわが国の教育環境。偏差値でランク付けされた学校制度に公私の社会組織(企業も役所も)がベースを置いている日本社会。教育を根本的に改革しないと本当にAIに支配される社会になってしまのではないか。そんな恐れを抱いています。

 

 天皇賞3着したジャスティンパレスも実力馬が宝塚記念3着で復調気配を見せて4ヶ月半休養、そして好走のパターンです。次のGⅠエリザベス女王杯もこのパターンがあるかも知れません。

 やっぱり競馬は楽しいですね。

 

 

2025年10月20日月曜日

明治の知識人から

  しかれども他国を論ずる眼もて支那を観るは誤れり。支那は当座の目的を遂げんがためには、過去の恩義を埋没し去りて微塵も良心の苦痛を感ぜざるのみならず、恩義の主たる日本を不利の地位に陥れんがために、一時あらゆる手段を用うることをも已まざりしもののごとし。これその一方には頑固に日本の施政に反対して日本をして知らず識らず強硬の手段を取らしめ、また同時に他方には盛んに営口等に在住する欧米商人を煽動して、日本の専権に関する真偽の報道を世界に伝播せしめたる所以なり。

 これは朝河寛一の『日本の禍機(1909年刊)』にある言葉です。見事に中国の本質を捉えた一文に感じますが日本人だからでしょうか。彼は日本人初のイェエール大学(アメリカ)の教授になった歴史学者で終生彼の地で過ごしました。アメリカから世界的視野で日本の政治動向を注視し非戦を主張しました。

 

 回顧すれば1899年以前、英国が二原則の形成に力を尽くしたるの功は大なり、この年に米国がその一原則の重要なるを列国をしてますます意識せしめたる功もまた少なからず、1900年列国が我慢を抑えて一時相共に二原則を護りたる功もまた没すべからず、しかれどもこれらは皆その後の露国が驚くべき大胆なる偽善貪欲を抑うる力なかりき

 アヘン戦争によって国力の疲弊した中国を欧米列国が簒奪の限りを尽くし利害関係が錯綜して収集困難に陥ったのを「清国主権」「機会均等」の二大原則で安定を図ろうとした経緯を述べたもので、にもかかわらず抜け駆けをして満州を侵略したロシアの暴挙を指弾したのです。日露戦争は利害関係の深い日本が二大原則順守を迫ってロシアと交渉を重ねたのですが決裂した結果勃発しました。国際的には正義は日本にあり、しかも「後進国日本」が無敵を誇るバルチック艦隊を擁するロシアを破ったのですから全世界が喝采するとともに日本を「一等国」として認識しました。

 ところが戦勝国日本の民衆はロシアの賠償金拒否など犠牲に見合う給付を得られなかったことに不満を抱き「日比谷騒動」など全国で暴発行動を示しました。それに乗じた陸軍が満州を浸潤したのです。これによって国際社会は一挙に日本批判に転じます。

 

 日本が国際的に窮地に陥ったのは、原理原則として、対清二大原則を世界に向かって扶植しておきながら、その実南満州における利権を、対ロ対清において、自ら作為し獲取したるの内外の相矛盾するところを遂行せんとするところにあり。

 されば日本が南満州における経済的首位に立たんとするは、決して遠国の少数者が植民地の富源を独占せんとすることがごときの類と同日に語るべきにはあらず。実に彼我の蒼生の発達の相頼り運命の相継がるところなるがゆえに、我は前には非常の犠牲をもってこれを清国のために保存したり。今は力を極めて共同の成長を促し、兼ねて遍く列国をも利せんとことを志すにいたれるなり。

 

 こうした状況下で当の中国人はどんな考えを持っていたのでしょうか。

 米国は常に支那の友邦にして、機あるごとに無私の態度を示したるがゆえに両国間の交情変わるざるべきは最も必要のことなり。米国は元来東洋諸国に対して厚意を有し、未だ一度もこれを侵略せんとしたることなし。もし近い将来において、支那の主権および領土を危うくするがごとき事情起こることあらば、余は米国が支那の権を確保せんがために力を尽くさんことを望みかつ信ずるなり。勿論これすべての友邦のなさんことを望むところなれども米国に信頼するの情最も深きものあり。(袁世凱のことば)

 我が日本が支那と同じ東洋にあり、これと人種および文字相通じ、文明の縁故深く、かつ将来の利害極めて親密なるべき自然の地位に立ち、過去の宣言および事業を継ぎて、最も誠実に支那の主権を擁護し、もっとも熱心に支那における機会均等を確保するの首動者なり。これによりて米国とかつ競争しかつ協同し、もって相共に東洋の進歩・幸福を助成せんことにあり。是豈地理及び歴史の自然の配置にあらずや。日本もし正路を踏みて誤らずば清国に関する日米衝突の一の理由だになく半ばの機会だになかるべし(以下略)。

 

 日本は正路を踏み外し、かくして日中の隔絶は修復不能の段階に転げ落ち開戦の止むなくに至るのです。

 朝河寛一は在米という特殊な環境にあった人ですが明治知識人の一典型でもあります。そんな彼の存在は現在ほとんど知る人がありませんが今度『日本の禍機』を読んで(戦前の文語体に少々手こずりましたが)この書は戦前の日本を知る必読の一書だと認識しました。

 

 翻って現在の日米関係を鑑みるにトランプ関税は論外としても、核抑止力を紛争解決の手段として振りかざす勢力の跋扈する現状において「唯一の被爆国」を常套句とする政治家蓮はアメリカ追従ではなく核保有国以外を集約して現在の緊張関係を緩和する運動の中心的存在として明確な方向性を打ち出すべき時期にあるのではないでしょうか。現状は余りに情けない日米関係です。

 最後に一つの事実を分かり易く述べている池上彰さんの文章を掲げてこの文を閉じたいと思います。

 

 2015年秋の叙勲に旭日大綬章を受ける人物に「リチャード・リー・アーミテージ」の名前がありました。(略)安倍政権の安保関連法の改正を前に、その内容について、早くから提言をしていた人物です。(略)彼らの提言によって、安倍政権が集団的自衛権の容認に動いたことは明白だ(略)/「ドナルド・ラムズフェルド」の名前もありました。ブッシュ(息子)政権時代の国防長官です。イラク攻撃を中心になって推進し、イラクの大混乱を招いた責任者の一人。ラムズフェルド長官は、イラク攻撃の計画立案にあたって(略)戦後の治安維持ができなくなり、本人まで更迭されてしまいました。その人物に勲章を与える!これが日本なのですね。/そういえば、太平洋戦争中、東京大空襲で一晩に10万人の一般市民を殺害する結果になる計画を立てたアメリカ空軍のカーチス・ルメイは戦後、航空自衛隊の育成に尽力したという理由で、1964年、やはり旭日大綬章を授与されています。/日米関係とは、こういうものなのだ、ということを改めて思い知らされます。(『日本は本当に戦争する国になるのか?』より)

 

 

 

 

2025年9月9日火曜日

星になっても

  この齢になると伴侶(つれあい)を亡くした友人も少なくありません。彼らが今どうしているのか、妻の死をどう受け入れたのか気にかかります。というのも今年の異常な暑さに、この先何年生きていけるか不安になったからです。そんな折、若い(1987年生まれ)哲学者――岩内章太郎さんの書いた『星になっても』(講談社)という本を読んで、死や死の受容の仕方について教えられることが多かったのでそれについて書いてみようと思います。本は七十才の誕生日に亡くなった父君の死をエッセーにしたものです。

 

 死は心臓や脳の活動停止だけを意味するのではなく、これまでの親密な関係を徐々に失い社会の表舞台から姿を消していく過程として経験されるものです。

 閉ざされた人は、死を排除する社会の力学に従って隔離されたまま死ななければならない。この、死に向かってますますひとりぼっちになっていき、死以前の段階で〈私〉の存在の意味が消えかかるという、死と孤独の耐えがたい結びつきは現代社会に特有の現象である。

 愛する人を失うことは、自己と世界の結び目そのものを失うことである。それはつまりフィギュレーション(自己を取り巻く形態)の全体が変わることを意味する。(略)だから、愛する人を失うとき、〈私〉は〈私〉自身を失うに等しい。

 ※ 死全般についての彼の解釈です。関係性の喪失に力点が置かれています。なぜか?

 

 死にゆく者の孤独は神話や宗教が共有されないからこそ生じる現代ならではの課題なのだ。

 神話は死に形を与えたのである。(略)理解不能な出来事としての死に脅かされる時代は終わり、人間は死をわがものにしたかにも見えた。

 死の意味を他者と共有することができなくなり、死の不安を一人で引き受けなければならない、という新しい問題が現れたのである。

 ※ この分析は新鮮です。科学万能になって、また昨今の墓じまいの風潮はますます死が自分だけのこと、自分とその家族――身内だけの出来事に閉じ込めてしまう、他者との共有が物理的にもできなくなってきています。

 

 健康に生きることのみを第一義とする社会は、老いと死を周縁化する。

 私は以前、死という当り前の事実を「必然」の意味で考えていた。しかし現在は、それを人間の「自然」だと感じている。(略)必然と自然。似ているが、その語感はちょっと違う。(略)前者には、死への抵抗の気分がどことなく伴うのに対して、後者にはそれがなく、生と死を一つのものとみなす気持ちがないだろうか。死は自然の事実にすぎない。それは、論理的なものというより動物的なものだ。

 ※ 父の死を経験することで、それをどう受け入れるかに悩んだ彼の結論です。頭で考えてるうちは必然として納得していたけれども、受け入れ拒否を論理で抑え込もうとしていたけれど、実際に経験するととても論理の及ぶものではなく、自然の事実として動物的に受け入れるしかないということに若い哲学者は気づいたのです。

 

 ここまでなら普通の哲学書の書き振りですがこの本の一番の魅力は お母さんと作者の、夫であり父の死の受容に関する会話のリアリティにあります。

 自分の気持ちの中でお父さんに対して自立していると思ってた。経済的なこと以外は。あー、だけど違ったんだな、と。この日常という人間との関係性って、これほど深いものなんだな、ということを実感したよね。

 私には日常(仕事と家族)がある。それが生活のリズムをつくりだしていく。私の思いとは無関係でつくられるこのリズムはもちろん一概によいものだとは言えない。が、日常とともにあるかなしみと、日常を持たないかなしみでは、そこに生じる情動の質がまったく異なる。日常を持たないかなしみは、静かで深い。出口がない。母は「日常」を失って、父がいない家に閉じ込められた。私はそれに気づけなかった。(略)正直辛い時間だったが、それは日常という背景に支えられていた。ところが母の日常は父である。母にとって父がいなくなる、ということは日常がなくなるということを意味した。母の喪失を支える背景は存在しない。母にとって父の不在は、日常のない生活を続けるということだったのである。

 一人で生きていくぞ、っていう、そういうものと、現実は一人で生きていけないかもしれないという葛藤が、かなしみに拍車をかけているのかな。(略)子どもたちは結婚しているんだから、自分の人生を考えていかなければならない。でも、それにはあまりあるんだな。すぐに解答がないわけだ。自分の中で。(略)そして、母の現在のほとんどを父の不在が占めている。このことの意味を私はうまくつかめない。私の現在には、家族がいるからである。(略)母は「こうやって生きていけばいいんだな」という感覚を取り戻そうとしている。(略)自分に人生をどうしたいのか、という問いに、切実さがでている。まだ、父の死を総括したくないのだ。

 ※ 日常という繰り返しの中で私たちは生きています。そしてそれは人間関係でありそれを通じた仕事――ルーティンの繰り返しです。人間関係がなくなるということが喪失なのです。もし妻が私より早く亡くなったとして、その空虚さに耐えられるでしょうか。悲しみは当然ですが日常性の欠落という頼りなさのもたらす不安はそう容易く解消できないにちがいありません。

 

 最近時々「名前のない不安」を感じることがありました。そのうちのいくらかがこの本を読んで理解できました。書評で紹介されていなければこの若い哲学者のエッセーに出会うことはなかったでしょう。信頼できる書評(子)の存在は良き読書生活に必須の伴走者です。

 

 

 

 

2025年8月22日金曜日

管見妄語(25.8)

  千玄室さんがお亡くなりになりました。齢102才、大往生です。師の「after you お先にどうぞ」こそ今世界が最も欲している言葉でしょう。合掌。

 

 若輩恐るべし、という言葉があります。若者の才能や可能性を尊重し畏敬する態度が年長者には求められるという意味です。先の参議院議員選挙はまさに「若輩恐るべし」でした。安倍一強のもと傲慢不遜に国会を軽視ししたい放題に政治を自分たちの方向に捻じ曲げた「負の遺産」が円安と物価高を引き起こし若者や弱者を非正規雇用、低賃金にあえぐ「格差拡大」と「分断」状況に陥らせました。あまつさえ「裏金」というポケットマネーの脱税集金までした綱紀紊乱は長年の岩盤支持層にも「自民党離れ」に走らせ、国民民主党と参政党を大躍進させ自民党は無惨にも衆参両院において少数与党に成り果て「55年体制」の崩壊という歴史的転換を政界に惹起しました。このほとんどが若輩の「既成政党ノー!」という意思表示の結果といっても過言ではないでしょう。

 

 では何故若者をこれほどまでに怒らせたのでしょうか。自民党税制調査会宮沢会長の「税は理屈の世界」発言ではなかったでしょうか。106万円の壁問題と消費税減税を否定する論拠としての発言ですが、何を勝手なことを言っているんだ、今まで好き放題やってきたじゃないかと若者は思ったはずです。ガソリンの暫定税率なんて「暫定」といいながら半世紀もつづけているじゃないか。消費税は社会保障の重要な財源だから絶対に減税はできないと言い張っているけど、その社会保障が私たちの時代に存続しているの?年金は貰えるの?社会保険料は年々高くなって手取りは減る一方なのに私たちの時代に残っていないかもしれない社会保障制度のために負担を押し付けられるのはもうごめんだ!

 もうひとつ、食料費の税率8%は絶対に正しいの?よその国では3%とか5%の低いところもあるしそもそも食料品は無税というところもあるじゃないか。物価高に賃金増が追いつかない今、大企業でさえ5%アップするのがせいぜいという時代に8%をゼロにしてくれれば中小企業に勤めている人にも公平に恩恵は及ぶじゃないか。消費税は逆進性があるから金持ち優遇だと「理屈」をいうけど8%の重みは低所得ほど堪えるんだよ!若者の不満はこんなところではないでしょうか。

 

 今年も8月15日に「終戦特番」が放送されました。300万人有余の戦死者が出た先の大戦ですが外地で亡くなった方の半分以上は飢餓と病気で亡くなったことは明白な事実です。武器ではなく「兵站(食料や物資の補給・整備)」の失敗が多くの兵士の死を招いたのです。

 こんな明確な歴史の証言があるにもかかわらず相変わらず我が国の軍備は「兵器偏重」です。食料自給率は35%という脆弱な体制であるにもかかわらず、そして「令和の米騒動」が露呈させたのは主食の米さえ自給できない危うさです。米も十分に確保できず戦時となって貿易相手に輸出を拒否されたらわが国はたちまちに戦闘能力喪失です。さらに言えば学力の格差もあります、軍を支える人材の劣化は戦闘能力に重大な影響を与えます。

 GDPの2%の軍事費を財源の手当てもないのにアメリカの言うままに予算化して兵器購入をアメリカに約束する。いくらアメリカの「核の傘」に守られていると安心していても肝心要のわが国の戦闘能力がこんなに脆弱では「抑止力」の効果も危ういものです。

 

 アメリカは長いあいだ「民主主義と法治国家」のモデル国として世界の尊敬を集めてきました。しかし今のアメリカはその名に値する国でしょうか。トランプ氏は大統領令を頻発して自分好みの政策を強引に推し進めています。しかしすべてが良い政策とは限りません。そんなとき「賢人」が傍らにいて彼に諫言してくれてこそアメリカという国が正常に機能するのです。ところが今のアメリカは、トランプ氏を批判するような言動を行えば彼の逆鱗に触れて「クビ」になることを恐れて誰ひとり彼に「ノー」と言えないというのです。これが正常な国の形とはとても言えません。議会も党の制約も無視して「唯我独尊」の政策を続ければアメリカは世界から軽蔑され見離されることでしょう。

 その最たる「愚策」が「トランプ関税」です。トランプ氏は国の経済と一企業の経済を混同しています。ましてやアメリカは「基軸通貨国」です。トランプ氏は二重の誤りを冒して「トランプ関税」という愚策を行なって世界中を「大不況」に陥らせアメリカ国民に未曾有のインフレの惨禍を見舞わせようとしているのです。

 企業であればひとり勝ちでも、それによって競合他社が倒産しようが犯罪さえ犯していなければ誰にも文句を言われる筋合いはありません。しかし国の経済にそれは通用しません。世界経済の全体を考慮して経済の運営を行うのが、特に大国の責任です。トランプ氏は国の経済を企業のディールと同じに考えてアメリカ経済を運営しています。これが彼の誤りのひとつです。

 もうひとつは基軸通貨国ということを全く理解していません。彼は長年の貿易赤字を怒っていますが見当外れもはなはだしいと言わざるを得ません。乱暴なことを言えば、アメリカは赤字が出ればドルを刷ればいいのです。アメリカはその権利を持っていますし誰も文句は言いません。勿論野放図にバンバンドルを増刷すれば他国の信認が得られなくなりますから規制体制をとっています。そのひとつがいわゆる「債務上限制度(デッドシーリング)」です。国の債務に上限を設定して政府の野放図な赤字政策に規制を設けているのです。上限を引き上げるには議会の承認を得る必要があります。

 何故トランプ氏はそんなに資金が必要なのでしょうか。ひとつは「減税」です。支持者にお金をばらまきたいのです。FRBのパウエルさんはそれでなくてもインフレですからトランプ氏の要求にもかかわらず金利の引き下げに抵抗していますが減税で消費が増えればさらに物価は上昇することでしょう。もうひとつは「軍事予算」の増大です。トランプ氏は今年1兆ドルの予算を要求しています。前年より1000億ドルのアップです。2023年時点でアメリカの軍事予算は世界の軍事予算の40%を占めていましたからさらに比率は増大して圧倒的な軍事力を誇ることになるでしょう。トランプ氏は戦争反対論者を装っていますがどうなのでしょうか。

 

 アメリカは基軸通貨国の特権で世界から豊富な商品を輸入して国民の消費生活を潤沢にしてきました。しかし今のままのトランプ政策が継続されるなら世界の国々のアメリカに対する信認は低下して「ドル基軸通貨」体制は破綻するかも知れません。そうなったとき、アメリカ国民の豊かな消費生活は終わりを告げることになるでしょう。

 一時の豊富な関税財政と引き換えに「基軸通貨国としての特権」を手放すかもしれない愚かなトランプ氏に鈴をつける人がいつになったら現れるのでしょうか。

 

 

 

2025年7月17日木曜日

少子化問題もう一つの視点(続)

  先のコラムで、少子化問題は経済の問題よりもむしろ道徳や倫理の問題――社会的側面の方が強く影響しているのではないかということを述べました。その指標として「婚外子比率」を取り上げ欧米先進国が40~60%の高率を示しているのに比してわが国はわずか2.4%に過ぎないことを明らかにしました。実数を見るとフランス41万人、イギリスは32万人ドイツ74万人、アメリカに至っては149万人の多きを示しており、もしわが国の婚外子比率が25%になれば20万人40%になれば30万人になり今の出生数に加えれば約90万から100万の新生児が生まれる可能性があることを示しました。

 

 では出産にかかわる偏見や結婚観を伝統的で日本的なものを払拭して当事者の自由裁量を最大限に認めた「包摂的」な考えに改めたら出生数は本当に増えるのでしょうか。

 実はわが国では毎年10万(人)以上の生命が祝福されることなく葬り去られているという事実があるのです。「人工妊娠中絶届出件数」がそれです。日常的な言葉(刑法でもそうですが)でいえば「堕胎」の数字です。これが2023年では12万6734件(前年より4009件増)にも上っているという事実を「少子化論」ではまったく論外にしているのはどうしてでしょうか。

 「人工妊娠中蕝実施率(女子人口千人に対する比率)」は5.3。年齢階級別にみると「20~24歳」が10.8と最も高く次いで「25~29歳」8.9。「20歳未満」では「19歳」8.4、次いで「18歳」5.0になっています。

 2023年の出生数は72万7277人ですから中絶率は17.4%になります。これは驚くべき数字ではないでしょうか。

 

 最近泉佐野市が「赤ちゃんポスト」を設置する方針を明らかにしました。これは本来なら祝福されるはずの赤ちゃんが大人の事情で葬られるのを何とか防ごうという試みの一つです。しかしこれは最終段階での施策です、その前の段階で、さらに前の段階で子どもを生みやすくする方策はないものでしょうか。

 

 今問題になっている「選択的夫婦別姓制度」が実施されたら、好きあった同士が同居して(別に別居でもいいのですが)共同生活を営み子どもができたら女性が届け出をする。新生児に対する公的サービス(扶助)はこれまでの婚姻制度上のものとまったく同等のものが付与されます。女性がこれまでと同じ姓を名乗るので仕事上もその他の公共サービスにもなんの変化もありません。

 これに対して周りの偏見も誹謗中傷もない社会的状況が成立するのであればこれまでと比較にならない柔軟性に富んだ「子どもを持つ」社会が現出するのではないでしょうか。

 

 これはひとつの仮定ですが「選択的夫婦別姓制度」ひとつが成立するだけで「子どもを持つ」状況は格段に改良されるでしょう。とにかく今社会が強制している結婚、出産にかかわるおとなたちの「古い価値観、倫理・道徳観」を排除して、若い人たちが「子どもを持ちたい」と思えるものに転換する。それが少子化問題解決の「入口」です。それを社会が容認する、そこからがスタートです。経済的支援も待機児童解消もまずは子どもが生まれてくれなくては話にならないのです。

 

 これまでの「少子化対策」はまず法的に「結婚」することが前提でしかも夫婦同姓が強制されてきました。「婚外子」も「人工妊娠中絶届出件数」も正面から論じられることはありませんでした。ひたすら「経済的側面」からの支援で問題解決を果たそうとしてきたのです。結果「効果」はほとんどありませんでした。

 それなら「視点」を変えるべきです。今まで「見落としていた」視点、「見ようとしなかった」視点で問題を再検討するのです。婚外子は欧米先進国の実状が、人工妊娠中絶件数は実際にわが国で発生している「出生できたかもしれない」子どもの数です。これを対策に生かさない法はありません。おとなたちが自分たちの「固定観念」、古い、伝統的と偽わられた「価値観、道徳観」の強制を改めればよいのです。

 

 少子化問題は「若い人たちの価値観」にもとづいた政策を中心に据えるべきです。古い価値観の老いた「有識者」や成功体験にしがみついた「大企業の社長や元高級官僚」、使い古された理論や通説で政治家と官僚が作った政策では決して解決しないことはこれまでの少子化対策の歴史が物語っています。

 

2025年6月18日水曜日

少子化問題もう一つの視点

  わが国の出生数が2024年始めて70万人を割り込んで68万6061人(前年より約4万人減)、合計特殊出生率は全国平均1.15で過去最低になりました。国の想定よりはるかに早く80万人割れからわずか2年で70万人を割ったことは少子化の深刻さが放置できないレベルに達していることを示しています。岸田総理の異次元の少子化対策――「加速化プラン」はなにを加速化しようとしたのでしょうか。

 

 これまでの少子化対策は「子どもを生み育てやすい環境づくり」にまとめられます。そして待機児童の解消、放課後子ども総合プラン、多様な保育サービスの充実、、希望の教育を受けることを妨げる制約の克服といった子育て支援策が打ち出されました。それは若者の雇用安定・待遇改善、働き方改革の推進、非正規雇用の待遇改善といった働き方支援のかたちで充実が図られ経済的な支援としては児童手当の充実、育休・時短勤務の推進、出産費用の補助、高等教育費用・奨学金の拡充が行なわれました。

 にもかかわらず少子化に歯止めはかからなかった、のです。

 何故かと考えると少子化は「晩婚化、未婚化、晩産化、無産化」といった社会的な風潮の結果であるにもかかわらず国は見当違いの支援や方策を繰り返してきたからとはいえないでしょうか。

 

 そこで視点を変えて一つの指標に注目してみようと思います。「婚外子比率」です。婚外子とは結婚していないカップルの間に生まれた子のことで非嫡出子ともいいます。(戸籍上は母親の戸籍に入ります。父親の認知は戸籍とは別問題です)

 世界の主な国別「婚外子比率」次のようになっています。

 フランス61.0%スウエーデン54.5%イギリス48.2%アメリカ40.0%イタリア35.4%ドイツ33.3%。これを出生総数から実数を換算するとフランス41万人スウエーデン32万人イギリス32万人アメリカ149万人イタリア14.5万人ドイツ74万人になります(婚外子率はイギリスは2017年、その他は2019年のもです。出生数は2021年のものを使用しました)。

 これに対してわが国は2.4%(2020年)婚外子数19,600人です。この圧倒的な差はどうでしょうか。もしこの比率が25%になれば約20万人、40%なら約30万人になりこれを70万人に加えれば約90万人から100万人になります。少子化は一挙に解決です。ちなみに韓国は2%から4.7%がここ4、5年の傾向で中国はデータがありません。

 

 この数字をどう考えるか、です。わが国では「戸籍」に登録する結婚を前提としてその後の出産・子育て・教育への支援を行なうことで少子化を脱しようとしてきました。当然のことながら経済的・社会的権利や補償・補助も結婚届を出す出さないで大きな差が生じる体制になっています(戸籍制度があるのはわが国以外では韓国と台湾だけですがこれもわが国の植民地化や統治の影響です)。ところが世界の先進国は「事実婚」が趨勢となっており半数を超える国や4割を超える国がほとんどです。

 ということは「出産」に至る道が多様化しているということです。婚姻届を出して「家」を継承し「同一の家(氏)」を家族連帯の基礎とすることを「出産」への唯一の選択肢(僅かな事実婚はあるものの)としている現在のわが国の社会的状況では少子化対策にいくら予算をつぎ込んでも「少子化」を止めることはできないということを意味しているのではないでしょうか。「選択的夫婦別姓」でさえも保守層の一部の頑強な反対で実現できないでいる今のわが国では少子化は加速化こそすれ歯止めなどできるはずもないのです。

 

 生殖に至る性行為は個人的かつ生理的(動物的)衝動にもかかわらず現在わが国で行われている「少子化論」は社会的・経済的側面が主でありかつ偏った伝統的道徳観との整合性が論じられています。「事実婚」は今のわが国では社会的承認以前に止まっていますし経済的地位もあやふやで伝統的道徳観に固執する一部の保守層からは非難さえ受けているのが実情です。欧米先進国では最低でも4、50万人、ドイツでは70万人アメリカに至っては150万人近くを占めている「婚外子」を排除するわが国の「少子化政策」が、その費用対効果において膨大なる「ムダ」を流しつづけているのは至極当然の結果なのです。

 「少子化問題」の本質は極めて「道徳的・倫理的」であり「個人的な幸せ」の問題なのです。事実婚を受け入れる「道徳的(倫理的)」土壌を醸成しどんな「幸せ」を結ばれる「ふたり」に約束できるかという問題として論じられるべきなのです。

 

 上に述べましたが韓国も我が国同様婚外子率が極めて低いのですが中国はつい最近まで「一人っ子政策」を厳格に実施していましたから婚外子の多いはずもありません。さらにこの三国はジェンダーギャップ指数が先進国中最低ランクという共通点もあります。韓国は94位中国106位、わが国は何と118位です(2024年)。そしてあえて付け加えるなら一時代前までこの三国は儒教思想が非常に強く残っていた側面もあります。

 こうしたことを前提にわが国の社会経済状況を考えてみると、離婚割合(離婚数/婚姻数)が3組に1組以上(18万3千組/47万4千組―2023年)と非常に多い上にシングルマザーの収入(年)が約306万円と子どものある非離婚家庭(745万円)の半分にも満たない低所得にあえいでいる現状があります。

 

 こうしたわが国の状況をまとめてみるとこんな風に言えるのではないでしょうか。

 結婚をしないカップルが子どもを持とうとした場合男性はそうでもないのに、女性に対してはふしだらだとかだらしがないといった蔑視の非難が強く、子どもが欲しいという願望が強くあえて子をもうけても離婚の可能性は決して低くなくシングルマザーの年収は300万円少々と低所得を覚悟しなければならないのです。

 これでは女性が婚外子を持とうという決断をためらうのは当然ではないでしょうか。

 

 もし子どもが「社会の宝」だというのなら、そのカップルが婚姻届けを出しているいないで祝福されないカップルの子どもという烙印を押されるような差別はあり得ないのではないでしょうか。婚外子の誕生を社会がこぞって祝福するような寛容で包摂的社会を実現することが多子社会を実現するもっとも可能性の高い道なのです。

 選択的夫婦別姓はそのような社会を実現するための最初の一歩に過ぎないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年5月26日月曜日

渡来人のことなど

  古事記の〈中つ巻〉「応神天皇」の段に別に章を設けて「渡来人」についての記述があります。概要を記すと次のようになっています。

 新羅から渡り来たった人びとを使って武内宿禰が百済池を造った。亦百済王に「賢しき人」を貢上(たてまつ)れと命じて和邇吉師(わにきし)という人が論語と千字文をわが国にもたらした。又秦造(はだのみやっこ)、漢直(あやのあたひ)の祖(おや)、仁番(にほ)亦の名、須須許理(すすこり)が渡来した。この須須許理は醸造の業をわが国に伝えた人である。

 秦氏などの渡来人は土木業にすぐれた技を伝えその後のわが国の国家建設に絶大な影響力を及ぼしましたし論語と千字文を伝えたことで「文字」をもつことのできたわが国は「野蛮」から「文明」の段階に成長できる礎を築くことができたのです。

 西郷信綱の『古事記注釈』によると、秦氏とは百済の百二十県の人びとを率いて帰化した氏族で、秦始皇帝三世孫・孝武王の出自であるとあります。もちろんこれを額面通りに信じることはできませんが、秦氏の多くが渡来人でありながら伴造に任じられるに至った経緯を神格化したものと解釈すべきでしょう。また漢直についても十七県を率いて渡来したとあるのは秦氏と同じ論理でしょう。

 この渡来人の章で特に目を惹く記述があります。「平安初期に作られた『新撰姓氏録』には、京畿に住する有力千八百八十余氏の出自を(略)かかげているが、うち中国系を称するもの、朝鮮半島系を称するものそれぞれ百六十余氏、併せて三百三十氏に及んでいることをいっておく」

 

 京都を中心とした畿内の1880氏の内の330ですから単純に言って17.5パーセントを渡来系が占めていたというのですからこれは驚きです。京都の右京区は秦氏の根拠地で太秦(うずまさ)という地名が今もありますし、近くの蚕ノ社は秦氏のもうひとつの主業養蚕と職(はたおり)の主神で、また松尾大社稲荷神社を奉じ殖産と致富にたけた大族であったことは周知のところですがそれにしても渡来系の人たちが二割近い人口を占めていたという事実は無視できません。当然同じ地域に住しているのですから異種族間の婚姻も多く成立したでしょうから何世代も累ねるうちに完全な混血種に変貌し今日に至ったとみるのが正常な見方でしょう。

 私たちのちょっと上の世代――昭和ひとけた生れ以上の人(戦前の教育を受けた世代)には学歴に関係なく桓武天皇の母后――高野新笠(たかののにいがさ)が渡来人二世であったことは常識になっています、少なくとも京都では。

 

 又「仲哀天皇」の段には「神功皇后の新羅征討」の章があります。これが後に「神功皇后の三韓征伐」となって日本不敗神話の嚆矢となり、蒙古襲来、日清・日露と不敗を誇る我が日本は神国であるから聖戦「大東亜戦争」は負けるはずがないのだとして第二次世界大戦へ突入していった、そうした戦前の国民思想の源流となったとしたら『古事記』は不幸な読まれ方をしたものです。曲がりなりにも戦前世代に属する私も長い間「不敗神話」を信じていました、周りの大人からのまた聞きの知識としてですが、それが二十年ほど前「白村江(はくすきのえ)の戦い」を知って呆然としました。天智2年(663年)新羅に滅亡された百済からの要請にこたえて救援軍を送った日本・百済連合軍と唐・新羅軍が白村江(現在の錦江河口付近)で戦闘、わが国連合軍が完敗した戦争です。学校の歴史でも習わなかったし歴史小説にも白村江の戦いは出てこなかったのでまったく知識をもっていませんでした。60才を過ぎて日本史の専門書を読んでこの「百済の役」を知ったのです。考えてみれば秀吉の朝鮮出兵も結果的に軍を引かざるを得なかったのですから敗戦に他なりません。出世譚太閤記として神格化されてきましたから「敗戦」ということばの使用を憚られたのでしょうか。

 

 永らくわが国では「不敗神話」と共に「万世一系の単一民族」という神話が罷り通ってきました。それがベースになって今の「ヘイト」につながっています。しかし上に述べた渡来人の記録を真摯に受け止めれば「日本民族」は大和民族と中国系と朝鮮半島系の渡来人との混血と見るのが正当な考え方でしょう。文字や仏教の伝来という日本文化の基礎も渡来人によるものですから保守の一部の層の中国や韓国(朝鮮半島人)を敵視する考え方が馬鹿馬鹿しくなってきませんか。明治維新政府が作った歴史――特に戦前政府の戦争貫徹のための「皇国歴史」から脱却し東アジア史のなかの日本歴史という視点を子どもたちには教えてやりたいものです。

 

 古事記を読んでいてつくづく思うのは「権力者は歴史をつくる」ということです。自己の権力の正当化のために都合よく歴史をつくるのです。ひとつ例を挙げれば古事記における「出雲」の扱いです。実際は勢力均衡して永い「権力闘争」があって正邪の関係が成立したのですが古事記では完全なる従属関係で出雲は描かれています。

 

 ここで持ち出すのも憚られるのですが最近の自民党西田昌司参議院議員のひめゆりの塔をめぐる「沖縄発言」と「歴史の書き換え」を一緒くたに論ずることはできません、まったく次元の異なる問題です。彼の発言は単なる勉強不足、無学・蒙昧の極み以外の何ものもありません。彼は京都選出の議員ですが沖縄戦の最激戦地であった「嘉数(かかず)の戦い」の主力部隊、第62師団石部(いしぶ)隊の多くが京都出身者で編成されていたことを知っているでしょうか。その嘉数台公園にある「京都の塔」に2563柱の霊が合祀されておりその碑文にはこう記されています。

 高台附近は主戦場の一部としてその戦闘は最も激烈をきわめた。(略)この悲しみの地にそれらの人びとの御冥福を祈るため京都府民によって「京都の塔」が建立されるにいたった。/再び戦争の悲しみが繰りかえされることのないようまた併せて沖縄と京都とを結ぶ文化と友好の絆がますますかためられるようこの塔に切なる願いをよせるものである。

 もし彼が京都の歴史を学ぶなかから政治に志すに至っていたとしたら沖縄に行ったらしい30年前であったとしても京都の塔を訪れていたはずですが彼はそうはしていなかったようです。

 

 そんな彼ですから北陸新幹線延伸計画で「京都縦断ルート」という「千年の愚行(京都仏教界)」を与党の「整備委員会」委員長として推進しようとしたのです。

 京都盆地の地下には約211億トンという琵琶湖に匹敵する豊富な水量の水瓶(京都水盆)があります。この水のお陰で京都の産業と文化は栄えてきました。西陣織や京友禅、伏見のお酒も京豆腐、京湯葉と数え上げればキリがないほどそのめぐみは豊かです。またこうした地下水による「均衡」が京都盆地の安定につながっているかもしれません。工事は「大深度地下(地表から40米以下)」を貫く工法が予定されています。当然地下水への影響は無いとは言えないでしょうし万が一「濁り」がでるようなことがあれば産業への悪影響は免れませんし発生する大量の「残土」はどうするのでしょうか。地下水の移動が起れば地盤は均衡を保ったままでいられるのでしょうか。

 不安満載のこんな計画を詳細な調査も行なわず市・府民への説明不十分なまま何故断行しようとするのでしょうか。彼は京都の人なのでしょうか。郷土愛――京都を愛しているでしょうか。