2025年12月24日水曜日

書くということ

  昨年の3月から手書きの日記をはじめました。パソコンやスマホの電子文字の打ち込みばかりで済ますようになったのに危機感を抱いたからです。80の手習い、を4年近くつづけてみて書くことの快感を知ったことも影響していますが、書くことと人間の知能に重要なつながりがあるように考えたからです。

 人間が文字を発明して約五千年、人類の知識は飛躍的に増大しました。人類の文明の驚異的な進歩は文字の恩恵と言っても過言ではないでしょう。勿論「記録」という機能は文字のもつ一面ですが「書く」という作業が、新しい概念やヒラメキ、発見・発明を促した側面を忘れてはならないと思います。「ペンが勝手に走る」という表現を作家はよく使いますがこれは「書く」という行為(作業)の持っている「機能」をよく表していると思うのです。「書く」という作業は記録とともに創造という機能にも重要なな作用を及ぼしているのです。

 もうひとつ「歩く」という動作・運動も創造と深く結びついていると言います。ノーベル賞を受賞した多くの研究者が歩いている途中で発明のヒントを得たとか作家が想像もしていなかった「表現」がヒラメイたということをよく言います。

 「書く」と「歩く」は思索や創造のための知識や情報の「整理とヒラメキ」に深く関わっているのです。

 

 もしそうなら「書く」ことを放棄した人類は大いなる危機に瀕していることになります。

 

 話を日記に戻すと今「メモ型日記」が流行っているそうです。スマホのメモ機能を使ったものと紙のもの両方がはやっているのですがなぜ今日記なのでしょうか。SNS全盛となってLINEなどで人と人のつながりが何重にも張りめぐされてそこからの脱出が困難になり、すべてを曝け出すことが当たり前になって、本来人に見せるものでなかったはずの日記まで自己表現として公開することに抵抗がなくなり「承認欲求」が満たされることでむしろ積極的に「見せびらかす」のが当然のようになっています。その結果本当の「自分だけの自分」を残しておきたいという欲求が芽ばえてきたのではないでしょうか。それを満たすメディアとして日記が再評価され小さな流行となっているのではないでしょうか。

 

 なんとも錯綜した状況ですがこのまま放置しておいていいのでしょうか。

 最近「WEIRD(ウィアードゥ/ウィアドゥ)」という語が注目されています。「西洋の、教育水準の高い、工業化された、裕福な、民主主義の」の頭文字をとった造語なのですがWEIRD社会は決して人間全体の代表ではなく、むしろ変わり者であることへの注意喚起とされています。根本的な問題提起は時間の流れ、つまり過去から現在、現在から未来へと一直線につながる時間という概念も、もしかしたらWEIRD社会のローカルな考え方ととらえた方がいいのかも知れません。

 

 同じような考え方として「ポストヨーロッパ」があります。

 近代のテクノロジーの拡張は西洋的な思考様式の拡大に他ならない。その暴力性が世界に均一の思考様式――西洋の哲学に支配される「哲学の終焉(ハイデガー)」をもたらした。「テクノ=ロゴス中心主義」が世界を席巻し、テクノロジーと西洋哲学による世界の統一的支配をグローバル思考とよび人間中心主義的な単一世界の志向を是として邁進してきた結果今、あらゆる矛盾が蓄積して世界は大転換点に至っている。

 ではどうすればよいのでしょうか。西洋と異なるテクノロジーの探究を通じてテクノロジーの多様性を可視化する、そのためにはアジア思想をテクノロジーの見地から再考ないし再構築することが必須だというのはユク・ホイです。世界には多数の思考様式がありそれを探求することで世界のグローバルな均質化を退ける。局所性と多様性を同時に追求して行き過ぎた資本主義や消費主義、新自由主義を乗り越える。ただし「アイデンティティポリティクス(性別、人種、宗教、性的指向などを基に社会問題や政策を考え解決を図ろうとする政治的な動き)」や「差異の中和」「ナショナリズムの回帰」に陥る危険性を避けローカルかつ世界に開かれた「惑星的思考」を構築しなければならない。「特定の価値を絶対化しない」ことが現在の混乱の反省を生かす絶対の条件である、とユク・ホイは訴えています。

 

 生成AIが席巻しています。社会的合意もないまま暴走しています。このままでは人間が蹂躙される可能性も小さくありません。生成AIはある意味で産業革命以来つづいてきた西洋思考――「テクノ=ロゴス中心主義」の窮極の到達点かもしれません。もう一方の結晶である資本主義、民主主義の西洋型は矛盾が飽和点に達しています。人間社会のシステムが破綻に瀕している中にテクノロジーの究極形を投入することの危険性ははかり知れません。未熟な社会に破壊力絶大な技術がおとなしく納まるとはとても思えないのです。

 

 西洋型を東洋思想で、あるいはスラブ系のイスラム系の――西洋型からすればローカルな思考で修正することが現在の混沌を解消する必須の工程だと世界は動き始めている、それが「WEIRD」批判であり「ポストヨーロッパ」という動向なのではないでしょうか。

 

 しかし「書く」も現状改革の有力な方法になる可能性を秘めています。「歩く」は健康と思索には必須です。どちらも現代テクノロジーが見過ごしてきたものですが再評価されるべき時期に来ているのではないでしょうか。

この稿は毎日新聞書評(2025.12.13)――渡邊十絲子「無数の言語、無数の世界」、中島岳志「ポストヨーロッパ」を参考にしています

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年12月8日月曜日

天才とAI

  ETV特集「藤井聡太と羽生善治 対談 一手先の世界(2025.11.29放送)」はAIを語るうえで非常に示唆に富む放送でした。さすが天才と感じ入った次第です。

 

 AIは知識の整理と体系化に利用します、という藤井さんの言葉はAIに対する最も望ましい在り方を示した含蓄のあるものと感じました。

 マスコミ等で報道される多くはAIの言葉(解答)をそのまま受け入れて仕事に利用したり論文にしたりという形がほとんどです。解答を導き出すための勉強――本を読んだり情報を収集したりという過程を省略して結果だけをAIに求めるという姿勢が目立ちます。いわば「AIに教えられる」――依存しているパターンです。これに対して識者は警鐘を鳴らすのですがあまり効果は無いようで大学教授は論文の独自色を見分けるのに苦労しているといいます。痛ましいのは生きる苦悩をAIに相談して「自殺」を選ぶしかなかったというケースです。

 独創性を要求される棋士――それも天才と呼ばれる藤井さんの積み上げてきた万余の棋譜や知識を整理。体系化して実力のレベルアップに結びつけるという受け入れ方は「理想的」なAI利用の方法ではないかと教えられました。

 AIを無批判に受け入れる弊害として、羽生さんのいう「将棋が早くなった」という傾向が相当するかも知れません(藤井さんはそうした変化はないという意見ですが)。人間は時間をかけて理解するけれど、その間(ま)を飛ばして進めるから将棋が早くなるのではと羽生さんは言います。早回しで映画を観ても分からないから面白みが理解できないのと同じだというのが羽生さんの見方です。AIの答えを鵜吞みせずにそれを吟味して過程を理解することが必要だというのです。言い換えればAIを無批判に受け入れるのは面白くないし危険だということになるかも知れません。

 

 羽生さんの「ユラギ」と「どこで止めればいいか」問題も本質的な視点です。AIが答を出すのに時間がかかって揺らいでいるように見える時は「AIも分からないことがあるのかなぁ」と感じているといいます。このユラギの一種としてAIの出す最善手の変わることが上げられます。藤井さんが時々意表を突いた差し手をするときその手がAI評価の3位4位ということがあります。しかし後でプログラマーが「推定最善手確率」を操作して解析を繰り返すと最終的に藤井さんの手が最善手1位になるのです。一般の人が仕事や学習で答えを求める場合は最初に出てきた最善手1位を採用して終わってしまうにちがいありません。批判的にAIを受け入れることをしない利用者は最終的な最善手を知らないままに次手、3位の方策で事を進めて問題解決できないことは十分想像できます。しかし「この手は最善手ではない」と判断してもAIに「更に解析を進めろ」という指令を出せるようなプログラムは用意されているのでしょうか。それを使いこなせるようなスキルを一般利用者は獲得出来るのでしょうか。このあたりがAIにひそむ大きな「危険性」のひとつです。

 さらに大きな問題は「どこで止めればいいか」問題です。AI同士の将棋は先手優位と言われていますが名人の二人は「引き分け」ではないかといいます。将棋には時間制限がありますがAIにはそれが分かりませんから限りなく勝負しつづけるというのです。それは「円周率」の答えに限りがないのと同じだと羽生さんは言います。このことはAIにすべてをまかせると「無間地獄」に陥る危険性をはらんでいることを予想させます。窮極は戦争でしょう。AIが状況に応じて次の作戦を出し続けて互いに相手が「全滅」するまで戦争がつづくとしたら恐ろしいことです。

 

 AI将棋が成長するのを実際にふたりは体験しているようです。同じような局面に対したとき前回より旨い手を指すことがあるというのです。これは一般的にもあり得ることでディープラーニングやデータマイニングなどの手法がシステムに内蔵されていますからAIは成長するように作られているのです。

 

 どんな将棋を指したいですかという質問に藤井さんが「面白い将棋を指したい」と答えていたのに共感しました。AIは記憶している膨大な棋譜を用いて最善手を答えるシステムです。将棋としてはそれが正解なのでしょうがそれでは生身の人間が指している面白味がありません。人間同士で会話して――データには現れない感情とか雰囲気とかを感じながらAIを超えた将棋を指す、それが面白いと藤井さんはいうのです。それは組織内の問題解決においても同様だと思います。論理的には最善の解決策をAIは提案してくれるにちがいありません。しかしそれを受け入れるのは人間ですからどんな感情的な反応が出てくるかはAIはまだ対応できないにちがいありません。そこを埋めるのが人間の仕事です。仕事に面白さを求める姿勢がAIを人間社会に生かす重要なポイントになるのではないでしょうか。

 

 藤井さんの研究仲間である永瀬九段が「角換わり以外は木刀なんです」という発言をしたとき、羽生さんも藤井さんも苦笑いしていたのが印象的でした。永瀬さんは将棋の真髄は「真剣勝負」だということを言いたかったのでしょうが、そしてそれは「角換わり」がもっともふさわしい手なのでしょうが、いつもいつも角換わりで指せるわけではないのですからそれを「角換わり以外は木刀です」とズバリ言っちゃうのは反則だよ永瀬さん、とふたりはいいたかったにちがいありません。

 

 羽生さん藤井さんは天才です。AIに対しても我々レベルとは比較にならない高みで体験していると思います。それだけに我々の知りえないAIの側面を把握してきたであろうことがしのばれて多くのことを学ぶことができましたが、なにより天才二人の対談の面白さは稀有な体験でした。

 

 

 

2025年11月13日木曜日

AIとカン

  菊花賞は惜しかった。カンを信じるべきでした。

 本命と対抗は人気通りで仕方ないとして穴馬を探って、結果⑫ゲルチュタールと⑭エキサイトバイオにたどりつきました。まず目についたのはエキサイトでした。夏レース直前のラジオNIKEI賞(GⅢ、1800m)を勝って能力に目途をつけた調教師は夏を全休して菊花賞にそなえた、そんな陣営の姿勢から菊花賞に賭ける強い意志を感じました。もう1頭がゲルチュタールです。ダービートライアルの青葉賞を3着した底力と初出走以来2000mから2400mの長距離路線を選んできたステップに加えて近年菊花賞で良績を上げている日本海ステークス(2200m)を勝ち上がってきた戦績はいかにも菊花賞向きと判断したのです。さてどっちを選ぶか?

 ゲルチュタールでした。菊花賞は3000mです、どの馬も未経験の過酷なレース。初出走から長距離路線を歩んできたデータは陣営の並々ならぬ菊花賞への執念を感じます。一方のエキサイトも2000mの中距離路線を選んできましたが勝ったGⅢが1800mというのがひっかかりました。そして最後は騎手です。坂井瑠星と荻野極、この差は大きい。

 結果はご存じの通り1、2着は本命対抗のエネルジコとエリキングで3着がエキサイトバイオ、ゲルは4着でした。何故ゲルチュタールを選んだかといえばカンよりデータに重きを置いてしまった、そして最後の最後に13番人気よりも5番人気の安全性へ走ってしまったのです。

 

 2年前にケイバを止めようと思いました。でも競馬は好きなのでレースを見るのですがあまり面白くない、勿論検討はしますがどこか緊迫感がないのです。そこで思い出したのが虫明亜呂無氏です。60年ほど前、第一次競馬ブームのころ――シンザンが戦後初の三冠馬になって競馬人気が盛り上がった当時の競馬評論家で「文学系」競馬評論の先駆けでした。競馬評論家なのに「馬券は複勝200円券1枚」しか買わないという変わった人でした。当時の私は、そんなもん馬券とは言わん、と嘯いていたのですが、今度馬券はGⅠだけ、それも「複勝500円」と決めてレースを見てみると買わない場合より格段に面白いのです。私もやっと虫明氏のレベルに達したかと少々悦に入ったものでした。

 

 もともと馬券は下手な方です。それがコロナ以降パソコン購入に変更して猶更当たらなくなってしまいました。現場の喧騒と鉄火場めいたヒリヒリした緊張感のなかでのヒラメキの決断とヌクヌクとした日常生活のユルイ環境での馬券では決定的な乖離があるのでしょうか。出馬表も電子版はだめで競馬新聞(またはスポーツ新聞)、それも横書きではなく縦書きでないとシックリこないのです。でんま(出馬)表を下の欄(直近のレース)から上に舐めるように見上げているうちにヒラメキが来る、それが「カン」なのです。同じようにこうした作業を繰り返しても馬券を買う買わないでは「没入感」がまったく異なるのです。

 データだけでなくお金を賭けるという緊張感の中で繰り返し繰り返し馬券を買って、スッて痛い目にあって、反省して、勉強して知識を深めて、ようやく身に着いたのが「カン」というものです。

 お金を賭けて馬券を買って、こうした作業を繰り返して「カン」ができ上がる、この過程をAIはプログラム化できるでしょうか。競馬の「カン」とは知識やデータを飛躍した「ヒラメキ」のことだと思います。

 AIは「カン」をプログラム化できない、そう考えます。

 

 生成AIがブームです。この流れを止めることはできないでしょう。あっという間にあらゆる分野でAIは活用されるにちがいありません。それほどAIは有効で便利です。生産性は飛躍的に向上して少子高齢化による「労働力の不足」は相当部分解決されるにちがいありません。ただその時の社会のかたち――人間とAIの役割分担の予想図が明らかになっていませんし、だから社会的合意も醸成されていません。にもかかわらず膨大な投資が行われ社会は一方向へ傾斜を強めています。

 極めて危うい状況です。

 

 特に危惧しているのが「教育」です。

 これまでの教育は――特に日本の教育は極言すれば「AI的人間」をつくることを目指してきたのではないでしょうか。広く知識を吸収して適応力の高い、配置された場所で要求される能力を速習して定められた機能を遂行できる人材の養成を国家は教育に求め管理してきました。明治維新以来高度成長期までこの教育モデルは成功してきました。しかし新自由主義のグローバル経済社会になって破綻しました(不登校児童35万人、全小中学生の約4%というデータはその一端を表しています)。独創性と批判精神の欠如がこの教育制度の欠陥です。しかも今要求されている能力はこのふたつです。

 生れたときから高度なIT環境の中で育つこれからの子どもたちはAIを簡単に使いコナすでしょう。しかしAIのもたらす結果を批判的に受け入れる能力は身につけているでしょうか。AIの答以上の創造力を発揮することはできるでしょうか。結果、AIに使われる「奴隷」に成り下がらないと自信をもって言えるでしょうか。

 電子教科書さえまだ根づいていないわが国の教育環境。偏差値でランク付けされた学校制度に公私の社会組織(企業も役所も)がベースを置いている日本社会。教育を根本的に改革しないと本当にAIに支配される社会になってしまのではないか。そんな恐れを抱いています。

 

 天皇賞3着したジャスティンパレスも実力馬が宝塚記念3着で復調気配を見せて4ヶ月半休養、そして好走のパターンです。次のGⅠエリザベス女王杯もこのパターンがあるかも知れません。

 やっぱり競馬は楽しいですね。

 

 

2025年10月20日月曜日

明治の知識人から

  しかれども他国を論ずる眼もて支那を観るは誤れり。支那は当座の目的を遂げんがためには、過去の恩義を埋没し去りて微塵も良心の苦痛を感ぜざるのみならず、恩義の主たる日本を不利の地位に陥れんがために、一時あらゆる手段を用うることをも已まざりしもののごとし。これその一方には頑固に日本の施政に反対して日本をして知らず識らず強硬の手段を取らしめ、また同時に他方には盛んに営口等に在住する欧米商人を煽動して、日本の専権に関する真偽の報道を世界に伝播せしめたる所以なり。

 これは朝河寛一の『日本の禍機(1909年刊)』にある言葉です。見事に中国の本質を捉えた一文に感じますが日本人だからでしょうか。彼は日本人初のイェエール大学(アメリカ)の教授になった歴史学者で終生彼の地で過ごしました。アメリカから世界的視野で日本の政治動向を注視し非戦を主張しました。

 

 回顧すれば1899年以前、英国が二原則の形成に力を尽くしたるの功は大なり、この年に米国がその一原則の重要なるを列国をしてますます意識せしめたる功もまた少なからず、1900年列国が我慢を抑えて一時相共に二原則を護りたる功もまた没すべからず、しかれどもこれらは皆その後の露国が驚くべき大胆なる偽善貪欲を抑うる力なかりき

 アヘン戦争によって国力の疲弊した中国を欧米列国が簒奪の限りを尽くし利害関係が錯綜して収集困難に陥ったのを「清国主権」「機会均等」の二大原則で安定を図ろうとした経緯を述べたもので、にもかかわらず抜け駆けをして満州を侵略したロシアの暴挙を指弾したのです。日露戦争は利害関係の深い日本が二大原則順守を迫ってロシアと交渉を重ねたのですが決裂した結果勃発しました。国際的には正義は日本にあり、しかも「後進国日本」が無敵を誇るバルチック艦隊を擁するロシアを破ったのですから全世界が喝采するとともに日本を「一等国」として認識しました。

 ところが戦勝国日本の民衆はロシアの賠償金拒否など犠牲に見合う給付を得られなかったことに不満を抱き「日比谷騒動」など全国で暴発行動を示しました。それに乗じた陸軍が満州を浸潤したのです。これによって国際社会は一挙に日本批判に転じます。

 

 日本が国際的に窮地に陥ったのは、原理原則として、対清二大原則を世界に向かって扶植しておきながら、その実南満州における利権を、対ロ対清において、自ら作為し獲取したるの内外の相矛盾するところを遂行せんとするところにあり。

 されば日本が南満州における経済的首位に立たんとするは、決して遠国の少数者が植民地の富源を独占せんとすることがごときの類と同日に語るべきにはあらず。実に彼我の蒼生の発達の相頼り運命の相継がるところなるがゆえに、我は前には非常の犠牲をもってこれを清国のために保存したり。今は力を極めて共同の成長を促し、兼ねて遍く列国をも利せんとことを志すにいたれるなり。

 

 こうした状況下で当の中国人はどんな考えを持っていたのでしょうか。

 米国は常に支那の友邦にして、機あるごとに無私の態度を示したるがゆえに両国間の交情変わるざるべきは最も必要のことなり。米国は元来東洋諸国に対して厚意を有し、未だ一度もこれを侵略せんとしたることなし。もし近い将来において、支那の主権および領土を危うくするがごとき事情起こることあらば、余は米国が支那の権を確保せんがために力を尽くさんことを望みかつ信ずるなり。勿論これすべての友邦のなさんことを望むところなれども米国に信頼するの情最も深きものあり。(袁世凱のことば)

 我が日本が支那と同じ東洋にあり、これと人種および文字相通じ、文明の縁故深く、かつ将来の利害極めて親密なるべき自然の地位に立ち、過去の宣言および事業を継ぎて、最も誠実に支那の主権を擁護し、もっとも熱心に支那における機会均等を確保するの首動者なり。これによりて米国とかつ競争しかつ協同し、もって相共に東洋の進歩・幸福を助成せんことにあり。是豈地理及び歴史の自然の配置にあらずや。日本もし正路を踏みて誤らずば清国に関する日米衝突の一の理由だになく半ばの機会だになかるべし(以下略)。

 

 日本は正路を踏み外し、かくして日中の隔絶は修復不能の段階に転げ落ち開戦の止むなくに至るのです。

 朝河寛一は在米という特殊な環境にあった人ですが明治知識人の一典型でもあります。そんな彼の存在は現在ほとんど知る人がありませんが今度『日本の禍機』を読んで(戦前の文語体に少々手こずりましたが)この書は戦前の日本を知る必読の一書だと認識しました。

 

 翻って現在の日米関係を鑑みるにトランプ関税は論外としても、核抑止力を紛争解決の手段として振りかざす勢力の跋扈する現状において「唯一の被爆国」を常套句とする政治家蓮はアメリカ追従ではなく核保有国以外を集約して現在の緊張関係を緩和する運動の中心的存在として明確な方向性を打ち出すべき時期にあるのではないでしょうか。現状は余りに情けない日米関係です。

 最後に一つの事実を分かり易く述べている池上彰さんの文章を掲げてこの文を閉じたいと思います。

 

 2015年秋の叙勲に旭日大綬章を受ける人物に「リチャード・リー・アーミテージ」の名前がありました。(略)安倍政権の安保関連法の改正を前に、その内容について、早くから提言をしていた人物です。(略)彼らの提言によって、安倍政権が集団的自衛権の容認に動いたことは明白だ(略)/「ドナルド・ラムズフェルド」の名前もありました。ブッシュ(息子)政権時代の国防長官です。イラク攻撃を中心になって推進し、イラクの大混乱を招いた責任者の一人。ラムズフェルド長官は、イラク攻撃の計画立案にあたって(略)戦後の治安維持ができなくなり、本人まで更迭されてしまいました。その人物に勲章を与える!これが日本なのですね。/そういえば、太平洋戦争中、東京大空襲で一晩に10万人の一般市民を殺害する結果になる計画を立てたアメリカ空軍のカーチス・ルメイは戦後、航空自衛隊の育成に尽力したという理由で、1964年、やはり旭日大綬章を授与されています。/日米関係とは、こういうものなのだ、ということを改めて思い知らされます。(『日本は本当に戦争する国になるのか?』より)

 

 

 

 

2025年9月9日火曜日

星になっても

  この齢になると伴侶(つれあい)を亡くした友人も少なくありません。彼らが今どうしているのか、妻の死をどう受け入れたのか気にかかります。というのも今年の異常な暑さに、この先何年生きていけるか不安になったからです。そんな折、若い(1987年生まれ)哲学者――岩内章太郎さんの書いた『星になっても』(講談社)という本を読んで、死や死の受容の仕方について教えられることが多かったのでそれについて書いてみようと思います。本は七十才の誕生日に亡くなった父君の死をエッセーにしたものです。

 

 死は心臓や脳の活動停止だけを意味するのではなく、これまでの親密な関係を徐々に失い社会の表舞台から姿を消していく過程として経験されるものです。

 閉ざされた人は、死を排除する社会の力学に従って隔離されたまま死ななければならない。この、死に向かってますますひとりぼっちになっていき、死以前の段階で〈私〉の存在の意味が消えかかるという、死と孤独の耐えがたい結びつきは現代社会に特有の現象である。

 愛する人を失うことは、自己と世界の結び目そのものを失うことである。それはつまりフィギュレーション(自己を取り巻く形態)の全体が変わることを意味する。(略)だから、愛する人を失うとき、〈私〉は〈私〉自身を失うに等しい。

 ※ 死全般についての彼の解釈です。関係性の喪失に力点が置かれています。なぜか?

 

 死にゆく者の孤独は神話や宗教が共有されないからこそ生じる現代ならではの課題なのだ。

 神話は死に形を与えたのである。(略)理解不能な出来事としての死に脅かされる時代は終わり、人間は死をわがものにしたかにも見えた。

 死の意味を他者と共有することができなくなり、死の不安を一人で引き受けなければならない、という新しい問題が現れたのである。

 ※ この分析は新鮮です。科学万能になって、また昨今の墓じまいの風潮はますます死が自分だけのこと、自分とその家族――身内だけの出来事に閉じ込めてしまう、他者との共有が物理的にもできなくなってきています。

 

 健康に生きることのみを第一義とする社会は、老いと死を周縁化する。

 私は以前、死という当り前の事実を「必然」の意味で考えていた。しかし現在は、それを人間の「自然」だと感じている。(略)必然と自然。似ているが、その語感はちょっと違う。(略)前者には、死への抵抗の気分がどことなく伴うのに対して、後者にはそれがなく、生と死を一つのものとみなす気持ちがないだろうか。死は自然の事実にすぎない。それは、論理的なものというより動物的なものだ。

 ※ 父の死を経験することで、それをどう受け入れるかに悩んだ彼の結論です。頭で考えてるうちは必然として納得していたけれども、受け入れ拒否を論理で抑え込もうとしていたけれど、実際に経験するととても論理の及ぶものではなく、自然の事実として動物的に受け入れるしかないということに若い哲学者は気づいたのです。

 

 ここまでなら普通の哲学書の書き振りですがこの本の一番の魅力は お母さんと作者の、夫であり父の死の受容に関する会話のリアリティにあります。

 自分の気持ちの中でお父さんに対して自立していると思ってた。経済的なこと以外は。あー、だけど違ったんだな、と。この日常という人間との関係性って、これほど深いものなんだな、ということを実感したよね。

 私には日常(仕事と家族)がある。それが生活のリズムをつくりだしていく。私の思いとは無関係でつくられるこのリズムはもちろん一概によいものだとは言えない。が、日常とともにあるかなしみと、日常を持たないかなしみでは、そこに生じる情動の質がまったく異なる。日常を持たないかなしみは、静かで深い。出口がない。母は「日常」を失って、父がいない家に閉じ込められた。私はそれに気づけなかった。(略)正直辛い時間だったが、それは日常という背景に支えられていた。ところが母の日常は父である。母にとって父がいなくなる、ということは日常がなくなるということを意味した。母の喪失を支える背景は存在しない。母にとって父の不在は、日常のない生活を続けるということだったのである。

 一人で生きていくぞ、っていう、そういうものと、現実は一人で生きていけないかもしれないという葛藤が、かなしみに拍車をかけているのかな。(略)子どもたちは結婚しているんだから、自分の人生を考えていかなければならない。でも、それにはあまりあるんだな。すぐに解答がないわけだ。自分の中で。(略)そして、母の現在のほとんどを父の不在が占めている。このことの意味を私はうまくつかめない。私の現在には、家族がいるからである。(略)母は「こうやって生きていけばいいんだな」という感覚を取り戻そうとしている。(略)自分に人生をどうしたいのか、という問いに、切実さがでている。まだ、父の死を総括したくないのだ。

 ※ 日常という繰り返しの中で私たちは生きています。そしてそれは人間関係でありそれを通じた仕事――ルーティンの繰り返しです。人間関係がなくなるということが喪失なのです。もし妻が私より早く亡くなったとして、その空虚さに耐えられるでしょうか。悲しみは当然ですが日常性の欠落という頼りなさのもたらす不安はそう容易く解消できないにちがいありません。

 

 最近時々「名前のない不安」を感じることがありました。そのうちのいくらかがこの本を読んで理解できました。書評で紹介されていなければこの若い哲学者のエッセーに出会うことはなかったでしょう。信頼できる書評(子)の存在は良き読書生活に必須の伴走者です。

 

 

 

 

2025年8月22日金曜日

管見妄語(25.8)

  千玄室さんがお亡くなりになりました。齢102才、大往生です。師の「after you お先にどうぞ」こそ今世界が最も欲している言葉でしょう。合掌。

 

 若輩恐るべし、という言葉があります。若者の才能や可能性を尊重し畏敬する態度が年長者には求められるという意味です。先の参議院議員選挙はまさに「若輩恐るべし」でした。安倍一強のもと傲慢不遜に国会を軽視ししたい放題に政治を自分たちの方向に捻じ曲げた「負の遺産」が円安と物価高を引き起こし若者や弱者を非正規雇用、低賃金にあえぐ「格差拡大」と「分断」状況に陥らせました。あまつさえ「裏金」というポケットマネーの脱税集金までした綱紀紊乱は長年の岩盤支持層にも「自民党離れ」に走らせ、国民民主党と参政党を大躍進させ自民党は無惨にも衆参両院において少数与党に成り果て「55年体制」の崩壊という歴史的転換を政界に惹起しました。このほとんどが若輩の「既成政党ノー!」という意思表示の結果といっても過言ではないでしょう。

 

 では何故若者をこれほどまでに怒らせたのでしょうか。自民党税制調査会宮沢会長の「税は理屈の世界」発言ではなかったでしょうか。106万円の壁問題と消費税減税を否定する論拠としての発言ですが、何を勝手なことを言っているんだ、今まで好き放題やってきたじゃないかと若者は思ったはずです。ガソリンの暫定税率なんて「暫定」といいながら半世紀もつづけているじゃないか。消費税は社会保障の重要な財源だから絶対に減税はできないと言い張っているけど、その社会保障が私たちの時代に存続しているの?年金は貰えるの?社会保険料は年々高くなって手取りは減る一方なのに私たちの時代に残っていないかもしれない社会保障制度のために負担を押し付けられるのはもうごめんだ!

 もうひとつ、食料費の税率8%は絶対に正しいの?よその国では3%とか5%の低いところもあるしそもそも食料品は無税というところもあるじゃないか。物価高に賃金増が追いつかない今、大企業でさえ5%アップするのがせいぜいという時代に8%をゼロにしてくれれば中小企業に勤めている人にも公平に恩恵は及ぶじゃないか。消費税は逆進性があるから金持ち優遇だと「理屈」をいうけど8%の重みは低所得ほど堪えるんだよ!若者の不満はこんなところではないでしょうか。

 

 今年も8月15日に「終戦特番」が放送されました。300万人有余の戦死者が出た先の大戦ですが外地で亡くなった方の半分以上は飢餓と病気で亡くなったことは明白な事実です。武器ではなく「兵站(食料や物資の補給・整備)」の失敗が多くの兵士の死を招いたのです。

 こんな明確な歴史の証言があるにもかかわらず相変わらず我が国の軍備は「兵器偏重」です。食料自給率は35%という脆弱な体制であるにもかかわらず、そして「令和の米騒動」が露呈させたのは主食の米さえ自給できない危うさです。米も十分に確保できず戦時となって貿易相手に輸出を拒否されたらわが国はたちまちに戦闘能力喪失です。さらに言えば学力の格差もあります、軍を支える人材の劣化は戦闘能力に重大な影響を与えます。

 GDPの2%の軍事費を財源の手当てもないのにアメリカの言うままに予算化して兵器購入をアメリカに約束する。いくらアメリカの「核の傘」に守られていると安心していても肝心要のわが国の戦闘能力がこんなに脆弱では「抑止力」の効果も危ういものです。

 

 アメリカは長いあいだ「民主主義と法治国家」のモデル国として世界の尊敬を集めてきました。しかし今のアメリカはその名に値する国でしょうか。トランプ氏は大統領令を頻発して自分好みの政策を強引に推し進めています。しかしすべてが良い政策とは限りません。そんなとき「賢人」が傍らにいて彼に諫言してくれてこそアメリカという国が正常に機能するのです。ところが今のアメリカは、トランプ氏を批判するような言動を行えば彼の逆鱗に触れて「クビ」になることを恐れて誰ひとり彼に「ノー」と言えないというのです。これが正常な国の形とはとても言えません。議会も党の制約も無視して「唯我独尊」の政策を続ければアメリカは世界から軽蔑され見離されることでしょう。

 その最たる「愚策」が「トランプ関税」です。トランプ氏は国の経済と一企業の経済を混同しています。ましてやアメリカは「基軸通貨国」です。トランプ氏は二重の誤りを冒して「トランプ関税」という愚策を行なって世界中を「大不況」に陥らせアメリカ国民に未曾有のインフレの惨禍を見舞わせようとしているのです。

 企業であればひとり勝ちでも、それによって競合他社が倒産しようが犯罪さえ犯していなければ誰にも文句を言われる筋合いはありません。しかし国の経済にそれは通用しません。世界経済の全体を考慮して経済の運営を行うのが、特に大国の責任です。トランプ氏は国の経済を企業のディールと同じに考えてアメリカ経済を運営しています。これが彼の誤りのひとつです。

 もうひとつは基軸通貨国ということを全く理解していません。彼は長年の貿易赤字を怒っていますが見当外れもはなはだしいと言わざるを得ません。乱暴なことを言えば、アメリカは赤字が出ればドルを刷ればいいのです。アメリカはその権利を持っていますし誰も文句は言いません。勿論野放図にバンバンドルを増刷すれば他国の信認が得られなくなりますから規制体制をとっています。そのひとつがいわゆる「債務上限制度(デッドシーリング)」です。国の債務に上限を設定して政府の野放図な赤字政策に規制を設けているのです。上限を引き上げるには議会の承認を得る必要があります。

 何故トランプ氏はそんなに資金が必要なのでしょうか。ひとつは「減税」です。支持者にお金をばらまきたいのです。FRBのパウエルさんはそれでなくてもインフレですからトランプ氏の要求にもかかわらず金利の引き下げに抵抗していますが減税で消費が増えればさらに物価は上昇することでしょう。もうひとつは「軍事予算」の増大です。トランプ氏は今年1兆ドルの予算を要求しています。前年より1000億ドルのアップです。2023年時点でアメリカの軍事予算は世界の軍事予算の40%を占めていましたからさらに比率は増大して圧倒的な軍事力を誇ることになるでしょう。トランプ氏は戦争反対論者を装っていますがどうなのでしょうか。

 

 アメリカは基軸通貨国の特権で世界から豊富な商品を輸入して国民の消費生活を潤沢にしてきました。しかし今のままのトランプ政策が継続されるなら世界の国々のアメリカに対する信認は低下して「ドル基軸通貨」体制は破綻するかも知れません。そうなったとき、アメリカ国民の豊かな消費生活は終わりを告げることになるでしょう。

 一時の豊富な関税財政と引き換えに「基軸通貨国としての特権」を手放すかもしれない愚かなトランプ氏に鈴をつける人がいつになったら現れるのでしょうか。

 

 

 

2025年7月17日木曜日

少子化問題もう一つの視点(続)

  先のコラムで、少子化問題は経済の問題よりもむしろ道徳や倫理の問題――社会的側面の方が強く影響しているのではないかということを述べました。その指標として「婚外子比率」を取り上げ欧米先進国が40~60%の高率を示しているのに比してわが国はわずか2.4%に過ぎないことを明らかにしました。実数を見るとフランス41万人、イギリスは32万人ドイツ74万人、アメリカに至っては149万人の多きを示しており、もしわが国の婚外子比率が25%になれば20万人40%になれば30万人になり今の出生数に加えれば約90万から100万の新生児が生まれる可能性があることを示しました。

 

 では出産にかかわる偏見や結婚観を伝統的で日本的なものを払拭して当事者の自由裁量を最大限に認めた「包摂的」な考えに改めたら出生数は本当に増えるのでしょうか。

 実はわが国では毎年10万(人)以上の生命が祝福されることなく葬り去られているという事実があるのです。「人工妊娠中絶届出件数」がそれです。日常的な言葉(刑法でもそうですが)でいえば「堕胎」の数字です。これが2023年では12万6734件(前年より4009件増)にも上っているという事実を「少子化論」ではまったく論外にしているのはどうしてでしょうか。

 「人工妊娠中蕝実施率(女子人口千人に対する比率)」は5.3。年齢階級別にみると「20~24歳」が10.8と最も高く次いで「25~29歳」8.9。「20歳未満」では「19歳」8.4、次いで「18歳」5.0になっています。

 2023年の出生数は72万7277人ですから中絶率は17.4%になります。これは驚くべき数字ではないでしょうか。

 

 最近泉佐野市が「赤ちゃんポスト」を設置する方針を明らかにしました。これは本来なら祝福されるはずの赤ちゃんが大人の事情で葬られるのを何とか防ごうという試みの一つです。しかしこれは最終段階での施策です、その前の段階で、さらに前の段階で子どもを生みやすくする方策はないものでしょうか。

 

 今問題になっている「選択的夫婦別姓制度」が実施されたら、好きあった同士が同居して(別に別居でもいいのですが)共同生活を営み子どもができたら女性が届け出をする。新生児に対する公的サービス(扶助)はこれまでの婚姻制度上のものとまったく同等のものが付与されます。女性がこれまでと同じ姓を名乗るので仕事上もその他の公共サービスにもなんの変化もありません。

 これに対して周りの偏見も誹謗中傷もない社会的状況が成立するのであればこれまでと比較にならない柔軟性に富んだ「子どもを持つ」社会が現出するのではないでしょうか。

 

 これはひとつの仮定ですが「選択的夫婦別姓制度」ひとつが成立するだけで「子どもを持つ」状況は格段に改良されるでしょう。とにかく今社会が強制している結婚、出産にかかわるおとなたちの「古い価値観、倫理・道徳観」を排除して、若い人たちが「子どもを持ちたい」と思えるものに転換する。それが少子化問題解決の「入口」です。それを社会が容認する、そこからがスタートです。経済的支援も待機児童解消もまずは子どもが生まれてくれなくては話にならないのです。

 

 これまでの「少子化対策」はまず法的に「結婚」することが前提でしかも夫婦同姓が強制されてきました。「婚外子」も「人工妊娠中絶届出件数」も正面から論じられることはありませんでした。ひたすら「経済的側面」からの支援で問題解決を果たそうとしてきたのです。結果「効果」はほとんどありませんでした。

 それなら「視点」を変えるべきです。今まで「見落としていた」視点、「見ようとしなかった」視点で問題を再検討するのです。婚外子は欧米先進国の実状が、人工妊娠中絶件数は実際にわが国で発生している「出生できたかもしれない」子どもの数です。これを対策に生かさない法はありません。おとなたちが自分たちの「固定観念」、古い、伝統的と偽わられた「価値観、道徳観」の強制を改めればよいのです。

 

 少子化問題は「若い人たちの価値観」にもとづいた政策を中心に据えるべきです。古い価値観の老いた「有識者」や成功体験にしがみついた「大企業の社長や元高級官僚」、使い古された理論や通説で政治家と官僚が作った政策では決して解決しないことはこれまでの少子化対策の歴史が物語っています。