2025年3月3日月曜日

AIとSDGs

  トランプ大統領の野蛮で暴力的な言動やイーロン・マスク氏の軽薄で浮かれポンチな振る舞いを見ていると超大国アメリカの断末魔の叫びを聞いているような思いに駆られます。第二次世界大戦が終わって世界が破壊と疲弊にあえいでいる中で唯一無傷のアメリカがそのアドバンテージを謙虚に受け止める恭謙さもなく圧倒的な経済力と軍事力を振りかざして世界を睥睨しました。あまつさえ「世界の警察」を気取り発展途上・復興途上の国家・民族の軋轢に容喙しながら結局中途半端な責任放棄の挙句混沌を世界に撒き散らして現在に至っているのです。世界標準と乖離した豊かさを浪費する「アメリカンスタンダード」は製造業のグローバル競争において完敗を招き「ラストベルト」という格差と分断をもたらしました。それを挽回すべく金融と情報という「新産業」を産みだしたのですが裾野の狭さは製造業ほどの雇用創出につながらず、そこに包摂されなかった層との間に「富の偏在」による「格差と分断」に拍車をかける結果に陥り、とうとう「トランプとマスク」という最悪の「政治状況」を現出してしまったのです。

 アメリカの混沌につけ込んだイスラエルはハマスの愚挙をこれ幸いと「確信犯的」なジェノサイドと復興不能な壊滅的な破壊を行いガザからパレスチナを強制的に退却させようとしました。世界的な批判にもかかわらずアメリカが野放図なイスラエル支援を継続したのは、自らが招いた混沌の中東にあって「唯一の橋頭堡」イスラエルを失えば中東をきっかけとしたグローバルサウス勃興が抑制不能におちいりその結果「世界の強国のひとつ」に成り下がってしまうかもしれない「恐怖」にかられたからです。それはプーチンのウクライナ侵略に対しても同じ構図で、ある意味でアメリカを見限ったヨーロッパをこれ以上「反アメリカ」に傾斜しないようにロシアを対抗勢力として配備することでヨーロッパに睨みを利かせる効果を図る意図が見え見えです。それは対中国戦略としても有効で、今やアメリカの10%にも満たないGDP世界11位の老大国ロシアを「核兵器大国」としてユーラシアに残しておくことで「米中ロによる世界均衡」を保持しようという危険な賭けにトランプ・アメリカは踏み出そうとしているのです。

 

 戦争・紛争・内乱はウクライナとガザだけでなくスーダン、シリア、イエメンでも長期化しておりハイチ、レバノン、コンゴ民主共和国の人道危機は深刻化しています。ミャンマーの軍事独裁政権によるアウンサンスー・チー氏の幽閉も4年になろうとしていますが解決の見通しはたっていません。こうした現状を鑑みると「平和」を享受している国は世界のほんの一部に限られていて、何らかの不安定要素を帯びた国々を含めて世界は未だに「戦争と飢餓」の人類の宿痾から解放されていないのです。経済・社会の発展段階に注目すれば農業・漁業を主産業とする段階に止まっている国から製造業を主とする産業資本主義の段階を超え金融・情報産業に進展した「ポスト産業資本主義」の国まで「多層」な国々が併存しているのが現在の世界状況です。にもかかわらず「AIを装備した新自由主義的資本主義」の「グロ-バル化」を「自由放任」にまかせて野放図に放置しておけば発展段階の遅れた弱小国はひとたまりもなくその暴力に飲み込まれてしまうにちがいありません。折りしもトランプ大統領はガザを富裕層のリゾート地化したSNSを自ら黄金像とともにアップしましたが現在のトランプ・アメリカを放置しておけばそれは決して絵空事ではないのです。

 

 そもそもSDGsはそうした現状に危機意識をもった世界の知性の警告であったはずです。従来のままの「生産」「消費」を繰り返していたらその影響は地球規模の環境の悪化や貧困の深刻化、生態系の破壊などの形で現れることになります。それでは人類の持続可能性が危ういので、「持続可能な開発目標」を共有して人類の調和ある発展を期そうと定められたのです。その17のゴールをここで発表する煩は避けますが「貧困」と「飢餓」からの脱却はそのゴールの最上位に位置づけられています。にもかかわらず2015年に定められたこのゴールは10年経ってむしろ遠ざかってしまっているのではないでしょうか。G20に象徴される先進大国はその経済力と軍事力を暴力的に行使して国家間の「格差」を拡大する方向に暴走しています。環境破壊はむしろ悪化していますし「難民」は「包摂」から「排除」に追いやられつつあります。

 

 トランプ大統領のアメリカの危うさはSNSのプラットフォームとAIを独占しているところにあります。先進国の人口減は製造業(農業を含めて)や政府機関(地方公共団体を含む)の業務のAI化ロボット化を必然化します。「効率化」は極大化され「生産性」はそれ以前と比較できないほど向上するにちがいありません。そうした先進国が「ニューフロンティア」を求めて発展途上の市場に土足で踏み込めば弱小国は「従属」せざるを得ないでしょう。しかしアメリカは「基軸通貨国」としての『責任』を完全に『忘却』して『放棄』して暴力的に「世界支配」しようとしているのです。少なくとも「トランプの4年」は既定の事実として暴走することでしょう。

 

 AIに対してヨーロッパは自制的に取り組んでいます。わが国はAIの発達を当然化してそのデータセンターに要する厖大な電力需要を満たすために3.11の教訓を投げ出して「原発回帰」を「国民の審判」を経ることもなく推進しようとしています。

 免許を返納して歩行と自転車が移動の手段となって気づいたことは、厖大な高速道路整備を含めて駐車場などの「自動車関連資産」へどれほどの税金を投入してきたことかということです。間接的な恩恵はあるとしても「自動車産業」という一産業の発展のために国家財政を限りなくその「育成と保護」に投入してきたのです。そして今度は「AI産業」です。しかもそのすそ野は自動車産業とは比較にならない狭い産業です。格差は今以上に広がることは明らかです。

 

 SDGsはこの10年間あらゆる分野で推進に努められたような印象を抱いていますが17のゴールのほとんどが未達成で、現状はますます遠のいていく方向に進んでいます。

 きれい事でなく「人類の知性」のマイルストーンとして世界が前向きに取り組むようわが国が働きかけることを願った止みません。

 

 

2025年2月24日月曜日

おもちゃがあぶない

  80才にして初孫を授かるという僥倖に恵まれて彼のまぶしいばかりの成長と急激な老いに見舞われる我が身との余りの落差に呆れるしかありません。80才というのはまぎれもなく人間の肉体の転換点であらゆる機能が衰えどんなに抵抗しても一段づつ、ハッキリと老いていくのをどうすることもできません。ところが彼はわずか十日も見ないと驚くべき成長を遂げていて、もどかしかったおしゃべりに論理が通るようになったり走るスピードがおばあちゃんが追いつけないほどにアップしていたりと圧倒される2才10ヶ月です。

 

 おもちゃと能動的に関わりだしたのはヨチヨチ歩きのころで、おじゃみと太鼓がお気に入りでした。おじゃみは最初3個で遊んでいましたがのちに6個になるほど遊びが広がったのは意外でした。それは太鼓も同様で、おもちゃ売り場では「3才~」のシールが貼ってありましたが与えると自分で遊びをつくりだして、特にバチは今でもいろんな用途に使っています。鬼のツノだったりロボットの足に見立てたりと。

 孫に大きな影響を与えたはじめてのおもちゃは「バイキンマン」のぬいぐるみでした。2才になる3ヶ月ほど前にやっとテレビが解禁になって「アンパンマン」にどはまりして、なぜかバイキンマンが大のお気に入りになりました。そして2才の誕生祝いに母親からもらったバイキンマンのぬいぐるみがそれまでの強度の「人見知り」を一挙に解消したのです。思うに、母親との「一体感」――母体との一体感がなかなか抜けなかった彼はおば(母親の姉)にどうしても懐かずそれどころか顔を見ると泣き出す始末です。想像するに遺伝的に母親と同じものを感じて母親が二人いるような思いに襲われて不安と恐怖を感じていたのではないでしょうか。そんな彼の自分と他者の分離感が、いつもテレビで見ているバイキンマンが自分の手の中にあるという経験がバーチャルとリアルの弁別を植えつけ、そのことで自分と他者との弁別――母親から切り離された自分という存在を無意識に認識できたのではないでしょうか。それで母親とは別におばちゃんという存在があることを受け入れ可能にし、他者というぼんやりとした不安な存在も受け入れられるようになって人見知りの解消に繋がったのではないかと思っています。

 

 知能の飛躍という意味では父親の与えた「バイキンマンUFO」と「バイキンマンロボット・だだんだん」です。機械音痴の私なら絶対に与えない(2才にはムリだろうと敬遠する)おもちゃ――「UFO」は最低でも3才、「だだんだん」は3才後半いや4才でもちょっと手こずるであろう難度の高いおもちゃです。とりわけ「だだんだん」は部品点数が30コを超える組み立て、電動式おもちゃです。その「UFO」をやすやすと操作すると、「だだんだん」の部品を根気よく黙々と組み立ててスイッチを操作して動かして、分解して、また組み立てるのです。半端でない根気と集中力で知能を活用、進化させて彼はこのおもちゃを征服しました。

 

 三つめは私が与えた「磁気式のお絵描きボード」です。親の与えたクレヨン(外国製の安全仕様)は使い勝手が悪く彩色がつきにくいので「描きたい意欲」が満たされず不満を感じているように見えたので2才になって間もなくのころプレゼントしました。実は「磁気式」でない紙に絵の具で描くものが欲しかったのですが売ってなくて仕方なく購入したのですがこれが良かったのです。力が要らないから筆運びが自在で、好きに描ける上にサッと消せる機構になっているのでジャンジャン書きまくれて大喜びです。ちょうどフォルム認識ができる時期と重なったのかお絵描きが格段に上達しました。絵が上手なお父さんと一緒にお絵描きを楽しむようになり保育園で先生に褒められてご満悦だったようです。

 

 バイキンマンの縫いぐるみ、UFOとダダンダン、お絵描きボード、どれも親(おとな)の想像を超えた能力を発揮させました。ところが今の「玩具」は「知育玩具」という位置づけでおもちゃに「おとなの用意したあそび」が指定されていて「適用年齢シール」が貼り付けてあります。親たちもシールを頼りにおもちゃ選びしています。しかしおもちゃは「あそび道具」です。子どもを見ていると何が面白くて?と思わされることが度々あります。遊びは子どもの創造力がもっとも発揮される領域でそれは大人の想像をはるかに超えるものであってほしいのです。その創造力を「知育」の名のもとに「限定」するような「おもちゃ」を選んで、あたら子どもの成長を「限定」しているのが今のおもちゃを取り巻く環境になっています。

 さらにおもちゃ屋さんが少なくなりました。「トイザらス旋風」が吹き荒れたのはもう30年以上前でしたが町のおもちゃ屋さんが一気に減って、百貨店のおもちゃコーナーも狭くなって、しかしその「トイザらス」も今や縮小傾向です。トイザらスは年令別にカテゴリー化した知育玩具と高額化で品目を増加させましたが子どもの創造性を生かせる「汎用性」のあるおもちゃ(だいたい安いものです)は少なく、つまるところ子どもにとって「おもしろい」おもちゃがすがたを消したのです。子ども部屋はおもちゃであふれかえっていますが年齢とともに「用済み」になったおもちゃの行く末は片隅(か地下室)のゴミ箱です。 

 

 おもちゃで遊ぶ創造力を限定され、幼稚園から塾と習い事で「与えられる」ことに慣れてしまった幼児期の子どもたちが、学校教育で創造性を発展させることは可能でしょうか。

 今、おもちゃがあぶない。初孫を授かって、老婆心ながらそんな歎きをつぶやきつつ成長を願っている今日この頃です。

 

 

 

2025年2月17日月曜日

地方創成のもうひとつの見方

  晩年の読書の成果の一つは「歴史というものの見方」を得たことです。司馬遼太郎さんをはじめとした歴史小説は最も娯しんだジャンルでした。専門書も宮崎市定、宮本常一、網野義彦のオーソドックスな歴史学の後に中沢新一、柄谷行人、吉本隆明を読めばこんな見方もできるんだと驚かされ柳田国男をはじめとした民俗学や人類学まで触手を伸ばせば歴史を見る眼が広くなって自分ながら受験歴史とは異次元に到達できたと感じたものでした。司馬さんに淫しなかったのは少年時代貸本屋で講談や山手樹一郎、五味康介、柴田錬三郎そして吉川英治の洗礼を受けていたからだと思います。

 受験歴史ということばを使いましたが高校時代、日本史の教師から「マルクス歴史観」を教えられて――勿論教科書から逸脱した授業でしたが――歴史という教科に面白さを感じました。暗記ものという固定観念でいましたからこんなアプローチもあることを知って歴史を見なおしました。その後教科がどんな変遷をたどったか詳らかに知りませんが2022年から「歴史総合」という選択肢ができたことは一大進化と思います。近現代の日本史・世界史を総合して従来の歴史像に近代化、大衆化、グローバル化を反映させることによって、今を生きるわれわれの「現在地」を明らかにして「科学」としての「歴史」を学ぼうという視点は受験歴史を一変させる可能性を感じます。岩波新書の『世界史の考え方』はそんな「歴史総合」をそれぞれの専門家の平易で専門的な論述で把握させてくれる必須の良書です。

 最近読んだ『日本の近代とは何であったか――問題史的考察(岩波新書)』は政治学者の三谷太一郎さんの著作ですが私が晩年の読書で追い求めてきたテーマに明確な解答を与えてくれました。

 岩波新書のこの二冊は晩年の読書の貴重な収穫です。

 

 地方創生は平成25年(2013年)第二次安倍政権の目玉政策として打ち出されて以来すでに10年以上経過していますがまったく成果らしい成果は上がっていません。地方創生の表裏の関係として「東京一極集中」はコロナ禍にみえた一時の転出超傾向は2024年再び転入超過に戻り、なおかつ供給源としての地方大都市圏からの増加が顕著になり大都市以外の地方の人口減と若年労働者の払底(出るべき人はもう出尽くした)が事態が深刻化したことをうかがわせます。

 なぜ地方創生が進捗しないか。それはわが国国土を見る歴史的観点が欠如しているからです。今ある国土の在り方の歴史的分析に基づいた未来図が描けていないからです。限界集落とか消滅都市とか衝撃的なネーミングだけを一人歩きさせて「地方住民」の不安をかき立てておきながらその来たる所以を明確に提示せず、歴史的必然性としての将来の展望を明らかにしないから「国民的合意」が形勢できないでいるのです。人口減という事実(ファクト)とわが国の歴史的趨勢を総合した未来図を国民に提示して合意を形成する。「地方創生」は単なる「政治問題」ではないという認識をまず醸成すべきなのです。

 

 徳川幕藩体制は「農業社会」として世界最高の成功を達成しました。国土を220余に分割し地方分権体制に基づいて地方を活性化させ国土の生産性を極限まで高めたのです。天候不順による飢饉が発生し一時的な食糧不足はあっても定常的には食糧自給体制が保持され260年有余の平和の時代を築いたのは世界的に稀有な例です。世界史年表を見れば1600年から1800年後半まで世界中にどれほどの戦争、内乱、紛争があったでしょうか。この中世から近世という波乱の時代に「飢餓と戦争」という「人類の宿痾」を克服した徳川幕藩体制はその後の近代化の準備を整備した意味でも世界に誇れるものといえます。

 生産性の高い農業社会の有効性は戦前まで持続し先進西欧国家に伍して成長を果たし非西欧国として唯一の近代化に成功しました。しかしこの成功が今、足かせになっているのです。戦後の急激な製造業中心の産業資本主義化は工業化・都市化を推進し農業の余剰労働力を都市が収奪し、人口の減少と無産業化を農村に押しつけたのです。第三次産業化、情報社会の出現はさらに地方の自立を困難にします。

 

 幕藩体制の強制力でそれまで人の住んでいなかった場所まで農地化して藩としての経済力の向上に寄与せしめた徳川の遺制は、製造業、情報産業、第三次産業主体の現状のわが国の産業構造には適さない「国土経営」になっています。しかし「食料の自給体制」「国土の維持・保安と美観の保持」という視点からの「日本全土の経営」はこれからも「日本国の経営」の要諦であり続けます。その上で「無人化した村・町・都市」は止もう得ざる「必然」として覚悟せざるを得ないのです。人口問題は事実(ファクト)としてそのデータを示しています。私有財産制、国土デザインの合意など乗り越えなければならない課題は山積しています。しかしそれを解決し「国民の合意」を形成しなければ未来図は描けないのです。

 仕事を通じて生活資料を確保するという今の経済システムは修正を迫られる可能性が高いかも知れません。医療と学校(学習)が「市場原理」に委ねられる体制はもう限界かも知れません。政治家だけではなく哲学者も含めた広い英知を集結(学術会議を活用して?)しなければこの難関は乗り越えられないでしょう。

 

 歴史というものの見方からすると現在の日中韓(朝)の関係は余りにも「不毛」です。中国は長兄、韓国(朝鮮)は次兄、我が日本は末弟。最近そんな感慨を抱いています。三国の歴史学者――だけでなく英知がひざ詰めで話し合えば新たな歴史観に基づいた国家関係を生みだすことができるのではないでしょうか。輻輳し緊迫する国際関係を打開するためにはまず近隣友好から。

 司馬さんの『菜の花の沖』を読んでからもう40年になるのでしょうか。

 

 

 

 

2025年2月10日月曜日

労働組合は時代おくれか

  毎週土曜日近くのコンビニで毎日新聞を買うことにしています。一度遅くなって売れ切れていたことがあったので以来一部取り置いてもらっています。こだわりは「毎日の書評」で新刊書の評価が適切で小説、専門書にかかわらず評者の論調から選択してアテが外れたことはありません。書評だけでおおよその内容が理解できることもあって重宝しています。

 コンビニの経営者は40才前後の小柄な実直な感じの男性で愛想もよく顔を見ただけで新聞を奥から取り出してくれるのはうれしいものです。この近辺の土地持ちの元農家の孫らしくおとなしそうな働き振りを見ているとコンビニという業態はなんと「巧み」なシステムかと感心せずにはいられません。資本(大型も含めて8台の駐車場込みの土地と建物)と労働力を「支配下」において高いFC(フライチャンズ)料まで徴収しておきながら、不採算と判断すればFC権が剥奪されて廃業せざるをえないのですからなんともFC親会社にとって都合のいいシステムではありませんか。もちろん商品開発から経営ノウハウまで質の高い「経営体」の提供を受けるのだからウインウインの関係なのでしょうが少し見方を変えると「収奪・搾取」という側面が浮かんできます。「個人経営者」(会社組織を取るものもあるかもしれませんが)ですから「労働基準法」の保護はありませんし社会保険もすべて自分持ちです。それを十分おぎなって余りある利益の上がる店も少なくないのでしょうがここ数年の「本部対FC」の争議をみているとこの業態も「人手不足」を背景に曲がり角に差し掛かっているような印象を受けます。国道沿いのこの店(セブンイレブン)の半径500m(~1km)に道を挟んだ真向いのファミリーマートを含めてファミマ2店、ローソン1店セブンイレブン3店とコンビニ激戦地なのですが廃業した店は一店もありませんからコンビニがすぐれた業態であることはまちがいないのでしょう。

 

 コンビニもそうですがアメリカ発の商売に労働者を「個人事業者」化して低賃金で働かせて社会保険も負担しないという業態が多いように思います。たとえば「ウーバータクシー」「ウーバーイーツ」などです。しかもマスコミをはじめとして世間が「新しい働き方」として歓迎、有難がるのです。好きなときに働いて自分の生活を楽しむ、そんなうたい文句で一部の若者を誘惑するように感じるのですがどうなのでしょう。働き方といえば求人情報、アルバイト情報、転職情報の氾濫は一見職業の流動化が促進されて働く者に有利なように感じるかもしれませんが、実際は転職して前職より給料、待遇が改善されたデータはないのです。特に疑問なのは「すき間アルバイト」で中には履歴書も不要というのもあってもし事故、事件があった場合の責任はどうなるのか疑問だらけの就職状況になっています。

 

 京都でも四条などの繁華街は外人のコンビニ店員さんが多いのですが東京(横浜)はもうずっと以前からそうなっています。人手不足は首都圏ではとっくに緊迫しているのです。従って「安い人件費」をベースにした業態は深刻な存続危機を迎えています。宅配、運輸、ファミレスなどの飲食関係サービス業そしてコンビニも。ここに保育、看護職も加えれば低賃金に抑えられている職業はおしなべて人手不足が深刻化しているのです。問題にしたいのは市バスの運転手さんまでなり手不足で路線の縮小廃止が現実化していることです。高齢化はますます進展するでしょうし敬老乗車券は高額化、そのうえバスも不便になるのでは年寄りの買い物や病院通いはどうなるのでしょう。

 

 フジテレビ問題が浮き彫りにしたのは「労働者の未組織」の危うさです。この問題が起こるまでの組合員は80人ほどだったのがこの問題が表面化して一挙に500人超に増加したといいます。そして日枝相談役の独裁を糾弾、退陣を要求する動きを見せたのです。しかし以前からフジテレビ(と関連会社)は日枝相談役をはじめとして70歳代超の高齢男性が経営陣を独占していました。多様性・透明性・柔軟性をこれからの企業経営の要諦と番組では啓蒙しておきながら、放送会社自体は正反対の経営を行ってきたのですから事態は深刻です。しかも経営に問題があるのを自覚しておきながら「自分ごと」として取り組む従業員は1200人のうちのたった80人の労働組合員に過ぎなかったのですから、そして文春に「上納問題」をアバカレて、社会問題化してはじめて労働組合に逃げ込んで「身分保障」を武装しておっとり刀で問題に対処しようというのですからあまりにも「労働者意識」が希薄すぎます。彼ら彼女らは「労働者」ではないと考えていたのでしょうか。労働者というのは製造業の現場に勤務する学歴の高くない人たちのことで、高学歴で「知識労働」に携わるマスコミ人は労働者ではないとでも認識していたのでしょうか。もしそうならなんという浅学な勘違いでしょうか。それがマスコミ人の正体だとしたらわが国のジャーナリズムの質的劣化は極まっているのではないでしょうか。

 冷戦が終わってマルキシズムが退潮して資本家と労働者階級という階級構造は解消したかのように、従って労働組合は時代おくれのもののように勘ちがいした人が多かったのか組合の組織率は低下の一途をたどりました。最盛期には60%近かった組織率は高度成長とともに30%台にまで低下、それが現在では16%に低迷しているのは資本主義の理解が皮相で現実との向き合い方が真剣でないからではないでしょうか。今国家問題にまでなっているUSスチールでも組合の力は無視できないものがありますし映画の現場では職能組合が強力で残業などとてもできない状況だといいます。ドイツでは「労使共同決定方式」という経営システムを模索しているといいます。「株主主権説」だけが資本主義の主流ではないのです。

 

 トランプ大統領の就任式で彼にすり寄るGAFAMをみていて彼らはジャーナリストではないと確信しました。それにもかかわらず今ほどジャーナリズムの必要とされている時代はないのです。

 日本のジャーナリズムの健全なる進化を期待します。

 

 

 

 

 

 

2025年2月3日月曜日

子育ての大誤解

  早いものでもうすぐ孫が3才になります。

 先日お迎えへ行ったとき、いち早く私たちを見つけた女の子が離れたところにいる孫に「Hくん」と呼びかけるとカレは猛スピードで飛んできました。まだ3歳にもならないこの子たちにもう仲間(友達)意識が芽生えていることに驚くとともに1歳保育を決断した娘たちの選択に誤りがなかったことに嬉しさを感じました。

 ヨチヨチ歩きのことばもまだ満足でない頑是ない幼児を親元から離して保育園に預けるなど不憫すぎると内心大反対だったのですが妻に口出しを禁じられていたので黙って耐えました。しかし私の「子育て神話」は半年も経たないうちに見事に打ち砕かれたのです。知能、体力、しつけ、社会化だけでなく非認知能力――根気、やる気、自制心なども親(やジジ・ババ)ではこんなに早く身につかなかったであろう成長を孫は示したのです。

 

 晩年の読書で知った大きな発見のひとつは「ヒトは早産で生まれてくる」というものでした。成体で生れるにはヒトは12~14ヶ月要します。成体になった胎児を出産するには母体の構造が適していないので――出産が危険なので10ヶ月――早産で生れるよう進化したのが現生人類というのです。二足歩行はヒトの脳を他の哺乳類の3~4倍の大きさに進化させました(ゴリラが400gなのに対してヒトのそれは1200~1400gあります)。二足歩行で骨盤の小さくなったヒトに成体で出産することは危険になったのです。死産と母体の損傷(死も)を繰り返した結果早産で生まれるよう進化したのです。従ってヨチヨチ歩きまで8ヶ月から1年、離乳も早くて1年後、言語の習得は3年と養育期間の長期化がヒトに必然化したのです。

 現生人類が出現して30万年、農耕は始まってまだ1万年ですからヒトの歴史のほとんどは「狩猟採集時代」です。狩猟はオトコの仕事、採集はオンナの仕事と役割分担されていて、狩猟は不安定ですから食料の基礎は採集が担っていました。ハハも貴重な労働力でしたから産後もスグに労働にかりだされます。子育てはババたちの共同作業で行われました(ババといっても20代後半から30才だったでしょう、平均年齢は30才に満たなかった時代ですから)。農業時代になってもハハは農作業に欠かせない存在でしたから子育ては大家族で行なわれました。子育てが「核家族のツマの専業」のように認識されるようになったのはここ40~50年のことです。人類の歴史を考えれば「子育ては集団で行う」のが自然なのです。

 経済的な理屈を言えば、工業化都市化(核家族化)が急速に進展して大量の労働力が必要になった製造業主体の産業資本主義は長時間労働(労働力×労働時間)を可能にする家庭システムが望ましいので「専業主婦」という存在をつくりだしたのです。これは日本だけでなくアメリカもヨーロッパも先進国共通の現象です。「3才まで母親が育てるべき」という「子育て神話」はこうして作られたのです。しかもこれは幼児教育にも影響を与え幼稚園教育は3才からとされ、保育園は経済的に恵まれない母親も働かねば家計を維持できない低賃金層の家庭を援助するシステムという位置づけで生まれ今日までそうした印象が残っているのです(幼稚園は文科省、保育園は厚労省という役割分担にそれが表れています)。

 

 昨年の大河ドラマの「光る君へ」を見ていて天皇や貴族(高級官僚)の子育ては乳母たちが行なっていて彼女たちが皇后や天皇のもとに「お目見え」で成長を見せるかたちになっているのを知りました。イギリスの上流階級では住み込みの乳母と家庭教師で子育てを行い就学年齢に達すると寄宿舎のある私立の学校へ入れます。子育てに親はほとんど関与しないのですがイギリスの指導層はこうした環境で育った人たちで構成されていました。

 子供は親の影響で育つ――3才までは母親が育てるのがベストという「子育て神話」の根拠はどこにあるのでしょうか。

 

 お迎えに行ったときの楽しみは「連絡帳」を読むことです。子育て一年生の娘は細々とした子育ての困ったことや心配を素直に連絡帳に書いていますが(えらいと思います)保育士さんはその一つひとつに丁寧に答えながら園での孫の成長ぶりを愛情込めて書いてくれています。ふたりの交流はその辺の子育て本を読むよりも面白く有益な実践に富んでいます。

 考えてみれば当然のことで保育士さんは専門教育を受けて、精選された知識の蓄積と実践のプログラムに基づいて保育するのですから素人の親が試行錯誤しながら子育てするのと比較にならない成果をもたらして何の不思議もないのです。

 今でも幼児保育(1~2才)を蔑視して3才になって家庭で育てられた幼児との混合クラスになると保育園で育った幼児はしつけが行き届いてないから落ち着きがなくガサツな子が多いなどというネットの情報がありますが本当にそうでしょうか。

 

 子育て神話に疑問を抱いて図書館のネット検索していると『子育ての大誤解(ジュディス・リッチ・ハリス著ハヤカワ文庫NF)』という本がヒットしました。その主論点は「集団社会化説」といいます。まだ読み始めたばかりですが読み終えたあかつきには改めて論旨を紹介したいと思っています。

 

 80才で授かった孫の成長は老人にとって澪標(みおつくし)です。老いと真逆の生命のかがやきは生きる意欲を覚醒してくれます。本当にありがたくまぶしい「我が孫」です。

 

 

 

 

 

 

 

2025年1月27日月曜日

中居、そしてトランプ

  中居問題について一言。中居正広の芸能界引退という事態にまで進展したこの問題に関する各局報道やニュースショーのコメンテーターのすべてが口にする「何があったのか、事実が何なのか明らかでない……」というコメントの嘘っぽさにヘキエキするとともになんと想像力のない連中なのかと呆れ果ててしまいます。『9千万円の示談金』ですよ!わが国史上破格の示談金を支払わなければ示談が成立しなかったという『事実』はこれが通常の「不同意強制性交(これを一般には『強姦』というのです)」でなかったことを明確に示しているではないですか。被害者女性を異常な暴力で虐待したか、人権蹂躙が度を越したものであったので被害者の精神に回復不能なダメージを与えたか、あるいは被害者女性の父(母や親戚など)の社会的地位が無視しえないほど高かった(テレビの場合スポンサー関係の縁故入社は少なくありません)かのいづれかだろうということは容易に推定できます。具体的に「これだ」と特定することはできませんが中居正広の不同意性向が尋常でなかったことだけは間違いないはずです、9千万円なのですから。それなのにフジは中居正広に対して何ら糾弾もペナルティも課さず番組を継続、出演させつづけたのですからフジのガバナンスのデタラメさは酷いものなのです。

 もうひとつメディアもコメンテーターも、そして何より取材記者の能力劣化を嘆かざるを得ないことがあります。それはフジの港社長も関テレの大多社長も弁明した「とにかく被害女性の心のケアとプライバシー保護を第一にしました」という言葉です。だれひとり糾弾しませんでしたが「それは具体的に何をしたのですか」ということです。想像できるのは箝口令をしいて関係者以外にファクトが拡大するのを防ぐことと被害者にことを大きくしないように懇願すること、いや権力的に強制したかもしれません。それと形ばかりの「心のケア」くらいしか思いつきません。これが「被害者保護」と言えるでしょうか、中居保護と組織防衛以外に何もしていないと同じではないでしょうか。とにかく最近のテレビの(ひょっとしたら新聞も)記者の劣化は酷いものです。

 これは私の憶測ですが、フジテレビの芸能部門にあると言われている有力芸人やタレント、役者に対する女性(アナウンサー、タレントなど)の性的接待の提供(週刊誌はこれを「性的上納とか貢物」という言葉を使っていたようですがテレビ局の社長ともある人がそれをそのまま「上納」と臆面もなく使用するところに文化人、知識人としての矜持のなさを感じます。彼らにその自覚があればのことですが)という仕組みはいつできたのかという問題です。フジは「エンタメのフジ」「ドラマのフジ」として民放界に確固たる地位を築きました。その立役者が「エンタメの港、ドラマの大多」であることは周知の事実です。そのふたりが現在のフジの社長であり関テレの社長なのですから今回の記者会見の「惨状」は必然なのです。

 山一証券の廃業は想像外の出来事でした。フジが倒産するなど想像もできませんがあの山一でさえ倒産したのですから先行は限りなく不透明です。

 

 そして「トランプ」です。今のトランプのアメリカを見ていると、斜陽の老舗大企業がカリスマ創業者を担ぎだして再建を果たそうとして敢え無く市場から消え去っていった多くの例を思い出します。それは彼トランプがいみじくも「MAGA」「Make America Great Again」――アメリカをもう一度過去の偉大なアメリカに、と言っているではありませんか。

 冷戦が終結して資本主義と民主主義が唯一の価値として、イデオロギーとして生き残りました。そしてそれがグローバル化されたのです。ここにおいて資本主義も民主主義も質的転換をしなければならなかったのですが指導者たちはそれに気づきませんでした。学者も知識人もジャーナリズムも、当然のことながら一般市民も。

 近代以降の世界は「選ばれた」先進国の時代でした。圧倒的な経済力を基礎として軍事力と政治力を駆使して文化的(言語的)にも世界を制覇します。宗教と文化価値の圧しつけと資源と労働力(奴隷や低賃金の労働力)の搾取――植民地主義の跋扈として全世界を分割、搾取し尽くしたのです。第二次世界大戦、冷戦を経て今に至るのですがグローバル化という「新次元」に突入したことを「自覚的に」捉えて変化を読み取ろうとした賢人は現れませんでした。過去の延長線上にこの大変化を接続させようとしたのです。今の混乱――格差の拡大と分断の原因はここにあります。

 

 トランプは「アメリカファースト」を唱えていますがもともとモンロー主義の過去からこの系譜がアメリカの本質なのです。資源も労働力も(移民ウェルカムですしもともと移民の国ですから)豊富ですから自己完結が可能な国で、世界一の超大国になったのは第二次世界大戦まで国土が戦場になることがなかったアドバンテージが大きく影響しています。世界が戦後復興に国力を消費せざるを得ないなかで唯一無傷な経済力を駆使して世界に君臨できたのです。産業資本主義の勃興期から最盛期までアメリカは世界最大のGDP、それもけた外れの差をつけて世界を支配したのです。やがて再建した先進国経済は以前とは比較にならない「生産力」を技術力の進歩によって獲得しましたから旧の先進国だけの市場では当然「需要不足」に見舞われます。市場拡大にはグローバル化が自然の流れでした。グロ-バル化の激化は限りない価格競争を強いますから低賃金を求めて発展途上国(中国をはじめ)をサプライチェーンに組み入れざるを得ない状況に追い込みます。現地生産の流れは国内製造業の空洞化を招きます。ラストベルトは必然だったのです。

 今のアメリカ(世界)の消費生活は「グローバル化市場」を前提とした「市場価格」で均衡する供給体制で成立しています。トランプがゴリ押しで関税障壁を高めようと不法移民国外追放を強硬に進めようとそれは一時のことでアメリカ経済(世界経済)は最適状態を求めて元の均衡状態に復帰します。アメリカ市民はインフレと高い失業率に苦しめられて4年間のトランプ政治は終焉することでしょう。

 トランプは過去のカリスマ創業者ですらないのです。

 

 たった4年のことです。あっという間です。

 

 

2025年1月20日月曜日

テレビは大丈夫か

  中居問題に関するフジテレビ社長の記者会見がテレビ締め出し(撮影不可)と聞いて我が耳を疑いました。テレビ局がテレビを「報道機関」として認めないなどということが日本の全国ネットの大テレビ局社長の判断というのは正気の沙汰とは思えません。折りしも東京都知事選や先の衆議院議員選挙で「オールドメディア」とその存在意義を否定された直後というのに危機意識が微塵も感じられません。昔ある総理の退任会見で「テレビは出て行ってもらいたい」と言い放たれて毅然と席をけった当時のテレビマンの矜持のかけらもないフジテレビ社長の体たらくに絶望的な「敗者」の姿を見た思いです。

 

 それにしても今回もまた「外圧」があってはじめて事の重大さを認識するという悪弊の繰り返しでした。ジャニーズ問題がBBCの告発報道が引き金になって長年タブー視されてきたジャニー喜多川の性加害問題を日本のメディアも報道するようになり国会でも問題視されてようやく解決への道すじがつけられたように、今回もフジテレビの大株主であるアメリカ投資ファンド「ダルトン・インベストメンツ」の企業統治に対する欠陥を指摘されてようやく記者会見を開くに追い込まれたフジのあり様はわが国メディアに共通するジャーナリズム精神不在の企業体質の露呈でした。そもそもわが国には「記者クラブ」という権力の「提灯記事承り」制度があり政府や行政のニュースリリースの垂れ流しが平然と行われています。外国から情報開示の不平等・不公正を指摘されているにもかかわらず暗然と制度は存続しつづけているのです。こうした権力との癒着を決然と断ち切らないかぎり「大本営発表」の有効性は依然と存在しつづけることでしょう。

 

 しかしジャニー、松本、中居とつづくわが国エンタメ界の「性に関する暗闇」はどこまで醜悪で底深い病巣なのでしょうか。売れっ子、稼ぎ頭を「奉る」企業体質と女性の「人権」を蹂躙して権力者への「貢物」とすることを当然視する「女郎屋根性」がこの情報化時代になっても先端と言われている業界に隠然と残っているのはなんとも情けないことです。芸能事務所というシステム、「第四の権力」と言われる権力を有しているにもかかわらず情報産業は「中小企業」であるという資本と経営の「脆弱性」、大衆の情報リテラシーの未熟さ、などいろいろ原因は考えられますがひとつの見方は「未熟な人間」に「莫大なお金と権力」を持たせる危険性です。

 大谷翔平選手の通訳だった水原一平が窃盗・詐欺事件を起こしましたが普通の人間が数十億円というお金のフリーアクセスの環境に置かれたら変な気を起こしてもおかしくない一面はあると思います。それが自分のお金、自分が自由にできる権力、そしてそれに平伏す(ひれふす)取り巻き、これだけの条件がそろえば大抵の人間は正常な感覚を狂わすにちがいありません。これは人間の弱さとして認めざるを得ない側面もありそれを前提に「管理・統治システム」を築くべきなのです。最近はやりの「第三者委員会」のような組織をつくるとともに公益通報者保護制度とも連携して「組織防衛」の一組織としてビルトインするべきなのです。

 これに関連して三菱UFJ銀行の貸金庫事件は象徴的です。一般職で入行した女性が総合職に昇格ししかも支店長代理にまで上り詰めるなど稀有な例です(現在は状況が変わっていると思いますが)。それが貸金庫という「莫大なお金」にフリーアクセスになったのですから起こるべくして起こった事件です。問題は頭取が報酬減額という程度の事件とみていることです。私はこれは頭取辞任が当然と考えています。今や都市銀行は大企業と富裕層が主要顧客です。大企業は投資は豊富な内部留保(自己資金)で行いますから運転資金が主な資金需要になっており富裕層の拡大と囲い込みが戦略分野になっています。貸金庫はその重要な囲い込み手段です。公言は憚りますが富裕層には税金逃れという選択肢志向もあります(タックスヘブンへの資金移動を利用する層がどれほどいるのでしょうか)。彼らにとって貸金庫は魅力的ですからこれが信用できないとなれば銀行を選ぶ根拠が崩れます(金融機関は他にも多くあります)。自行のみならず同業他社への影響も甚大でしょう。もし頭取が引責辞任すれば「危機がチャンス」になったかもしれませんが今回の対処の仕方は致命的だと思います。

 

 それにしても今回の中居騒動はどうして「公益通報者保護制度」の側面からマスコミは論じないのでしょうか。被害者は内部の女子アナに相談したと報じられています。それが「公益通報者保護制度」に連携しなかったことが事件の隠蔽につながり問題を複雑にしたのです。フジテレビに制度がなかったわけではないようですから運用に関して当事者も周囲の人たちも、会社さえも認識不足だったのでしょう。しかしほんのすぐ前まで兵庫県知事のハラスメントと公益通報者保護問題に関して喧しく論じていたのに中居問題にこの視点を当てようとするメディアは今のところ皆無です。

 こうしたところにわが国メディアの「浅薄さ」があるのではないでしょうか。事件ごと問題ごとにブツブツと報道が途切れていてその底に流れている社会全体の傾向や志向のようなものを明らかにしようという姿勢がほとんどないのです。兵庫県の問題も中居問題もそこにあるのは「人権意識」であり「ジェンダー差別」です。それがひょっとしたらわが国最大の問題である「少子化」につながっているかもしれないなどという問題意識はまったくうかがえません。そしてそれはわが国教育制度の「知識偏重」にも、リベラルアーツ軽視にも遠因をみるのですがいかがお考えでしょうか。

 

 ジャニー、松本、中居。エンターテイメント――お笑いに「権威」は邪魔なのです。