2010年5月4日火曜日

検定教科書は必要か

 常々お笑い芸人やテレビの女性タレントがニュースショーでシタリ顔でコメントするのを苦々しく思っていた。しかしよく考えてみるとこれは私の「権威主義」のなせるわざであって、政治や経済、また社会問題などに関して彼らは公共の場で意見を言う立場にない、と決めつけているからに他ならない。
 
 権威について言えば「先生」はむかし、間違いなく「権威」であった。学校が『唯一の知の源泉』であり先生は地域で最も高学歴の存在であり尊敬の対象であった。知識や教育は「学校の独占事業」で先生はそのエリート社員であった。そうでありながら教科書が中央政府の官僚組織による「検定」を受けなければならなかったのは、後進国特有の中央集権的国家体制のせいであり、最も中核的な教育手段である教科書は少数の「トップエリート」の専任事項として神聖不可侵の『権威』としなければ『効率的教育成果』を達成することは困難であると思い込まれていた。

 しかし今や状況は一変した。教育機関や知識(学問)を発信するメディアは多様化し学校はその一つに過ぎなくなった。住民の学校へのニーズは複雑化し先生以上に高学歴の地域住民も多くなり先生はそれだけでは尊敬の対象にはなりにくい状況になっている。価値の多様化に対応できなくなったうえに文部行政の『理念なき改革』が現場の混乱に追い打ちをかけている。

 ここに至って『全国一律の検定教科書』は必要だろうか。一握りのトップエリートがこの混乱を収拾できるのだろうか。少なくとも『地方の特性』を取り入れる時期なのではないか。北海道の児童生徒が「アイヌ民族」の歴史的過程を理解し、沖縄や九州で東京より近しい朝鮮や台湾との交流を知らずして『今日』を認識することは可能だろうか。折りしも沖縄・普天間基地問題が沸騰しているが沖縄の人たちと内地の間に問題意識に温度差があるのは当然だが、教科書がその差異に対応しているとはとても思えない現状をこのまま放置しておいていいのだろうか。
 
 「(学問は)進歩すべく運命づけられている(略)いつか時代遅れになるであろう(略)これは、学問上の仕事に共通の運命である」。M・ウェーバーが「職業としての学問」で述べている『謙虚さと畏れ』こそ『職業として学問』に携わるものの必須条件ではなかろうか。

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