2012年4月2日月曜日

学校秀才

プロ野球が開幕した。日本ハムの斉藤佑樹投手が入団2年目にして初の開幕投手、自身初の完投勝利を収めた一方でライバルの楽天・田中将大投手は初開幕投手の栄を担いながら6回5失点で敗戦投手になった。「持っているんじゃなくて背負っているんです」という斉藤に対してマー君は「情けない、恥ずかしい」とうなだれていた、という。斉藤投手には往年の広島・長谷川良平投手のような「小さな大投手」になって欲しい、長谷川は167cm56kgしかなかったが広島一筋で通算14年197勝(208敗)も上げた大投手なのだ。それにしても野球は面白い。誰が考えても田中マー君の方が断然有利で斉藤ユーちゃんにとって過酷な予告・開幕投手指名という条件の中で結果は見事に予想を覆されるものとなってしまった。
今年は大波乱がありそうだ。

 閑話休題。このコラムを始めたのが2006年4月であるから丁度丸6年、数えて7年目になる。今回で332回だからほとんど毎週書いていたことになる。原動力となっているのは「読書」だ。漢文古文をはじめとした文学から経済、科学まで幅広く読んだ。そして、何を書くか、より、如何に書くか、が大事だと思うようになった。書くとは削ることだ、と覚った。それは鴎外、荷風を徹底的に読み込んだお陰であり一葉、二葉亭などの明治文学に親しんだことによる。彼らは一様に「書き方」にこだわっている。そのための『蓄積』がすばらしい。その意味で「蓄積」を始めたのが遅かったと悔やんでいる。

 書くことは方向を示すことでありある意味で結論を出すことだと思う。高学歴社会になって「解説上手」が溢れている、しかし彼らには「自分としての結論」がない。『学校秀才(学校で得た知識はあるが行動力に乏しく知識を実生活に生かせない)』ばかりが増えているようで寂しい。

 鴎外や荷風などを読んで「文化の断絶」を痛感した。明治維新を境界線として、いやひょっとしたら「戦後」を境としてそれ以前の文化が読めない、分からない状態がある。同じ事情が中国にも韓国にもある。それが僅か240年足らずの歴史(=蓄積)しか持たない米国に敵わない原因ではないか、最近強くそう考えている。

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