2016年8月1日月曜日

まちの健康院

 「年寄りの達者 春の雪」というとことわざがある。年をとってからの健康は春の淡雪のようにすぐ消えてゆくということであろうか。それだから大事にしなさいよ、という戒めも感じる。実際年を食ってみないと分からないが、人間75歳にもなると「完全な健康」とは程遠い身体状態になってしまう。よく眠れなかった、足がだるい、すぐ息切れがする、病気でもないのに目まいがする、疲れやすいなどなど数え上げればきりがない。福沢諭吉はこれを『帯患健康』といっている。しかし自分の体との付き合いも長いから、こんな場合は酒をちょっと控えた方がいいとか、毎朝の歩きを少々増やしてみようかなどと「対処法」も身についてくる。だから大概の場合はなんとか切り抜けてきたのだが、どうにもスッキリしないことが年とともに増えてくる。でも医者にかかるほどでもない、いや病院へいってコレコレの病気ですと烙印を押されるのが億劫だという向きもある。また宣告された病気に納得がいかないことや、いやそれだけじゃないでしょう、ほかにも何かあるんじゃないですかと疑問を感じるときもある。とにかく簡単に『病名』がつけられるほど年寄りの体は単純ではないし「鋭敏」でもない。なにしろ75年も使っているのだから『経年劣化』も進んでいる。かと言って「齢のせいです」で片付けられるのも癪にさわるし、というのが正直な気持ちなのだ。
 
 先日理容院の女性が「どこが痛いのしんどいのというから病院へ行ったらええやん」というと「病院行っても治らへん」と頑固なんですよ、とお母さんの愚痴を言っていたがそれでいいのだと思う。聞けば5年間も認知症の連れ合いの世話をして3年前に亡くして、88歳になった今も矍鑠としておられるという。愚痴を聞いてくれる子供がいて、構ってくれるのをいいことに逆らって「勝手にしたらええやん」と怒る姿に安心して、それで自分なりに対処法を試みて元気に暮らしている。いうなれば「生きる達人」になっているのだ、お母さんは。
 年をとって体に一番悪いのは『ストレス』である。いかにストレスをためないかが健康の第一条件である。加えて体の状態に臆病になること、これが肝腎である。口では偉ソウなことは言っても健康な年寄りは大概身体には注意深く配慮しているものでおかしいと感じたら自分なりに対応するか病院へ行く(男性は臆病だからしばしば病院へ行く傾向にある)。ストレス無用な振る舞いが「頑固」と見られるのだろうし「勝手気まま」と詰(なじ)られもする。昔はよく「勝手ツンボ」などと云ったものだが最近は聞かなくなった、多分差別用語なのだろうが、イヤなことは聞かなかったことにするのがストレスをためない秘訣なのだろう。
 私は電灯の消し忘れがよくあった。言い訳をすればいろいろ理由があるのだが「また付けたらええやん」と斬り捨てられる。そんな繰り返しが「強迫観念」になって何時からか妻や娘の付けたデンキなのに自分が消し忘れたと勘違いして消してしまうようになった。「付けてるのん!いらんデンキは消さんと!」。こんなことが何回も重なった。ひとから「強迫観念」が認知症のきっかけになると聞いていたので妻と娘にそのことを言った。理解してくれた。ストレスの元は思わぬところに潜んでいる。
 
 神奈川県が健康で長生きを目標に『未病』対策をすすめている。健康と病気の中間の状態を未病というのだが、例えば病気でもないのに目まいがしたり息切れ、疲れやすいという症状は「貧血」のせいでヘモグロビンが減少して脳や心臓、全身の筋肉に酸素が行き渡らなくなって引き起こされる「未病」の症状だ。予防医学協会の協力を得て「未病センター」を県内に10ヶ所整備して①バランスの良い食事②日常の運動・スポーツ③社会参加と交流を3つの柱に活動している。健康状態の「見える化」で本人の自覚を高めようと、血圧、体脂肪、脳の認知機能などの測定器を設置している。また腕時計型の計測器を利用して脈拍数と身体の動き、睡眠時間などを連続で記録して健康状態を数値化する試みもしている。計測された結果に基づいて、食事メニューを見直す、飲酒量を減らす、歩く時間を延ばすなどして改善の効果も確認できているという。生活習慣の乱れを察知して適切に改善することが未病対策の基本だと専門家は強調する。
 
 私の「未病対策」はまちの鍼灸整骨院のマッサージだ。吉本隆明がいうように年寄りの病は整形と精神科で大概は用が足る。精神科はストレス対策で未病の兆候はえてしてコリや痛みというかたちで表れるからマッサージが有効になる。他人にからだをさわってもらうだけで心が安らぐことがあるからそうしたケアを提案している治療法もある。コリや痛みや違和感を覚えたときにマッサージで緩和する、それらが蓄積して未病からほんものの病気に進行するのを未然に防ぐというわけだ。そしてマッサージ師さんに相談して再発に備えたストレッチや体操を指導してもらって毎朝のトレーニングに取り入れる。そんな生活をここ数年つづけて健康体を維持している。彼らは東洋医学に精通しているから西洋医学とは異なった視点から説得力ある診断と治療を施してくれる。病気になる前の半健康体を診断・治療してくれる『まちの健康院(病院ではない)』として鍼灸整骨院を利用している。
 
 (西洋医学は)終末の神の国において生きつづける直線的な不死の思想を生んだ。しかし我々は「草木国土悉皆成仏」という法華経の教えを生活に取り入れ、死は新たな生命を輝かせるために必要なものであり、死は新たな生命を生み出すための喜びなのであると教えられた(安田喜憲著『環境文明論』を参考にしています)。
 帯患健康を維持しながら長寿の喜びを享受し、死を遠ざけるのではなく生の延長として死を受け容れる覚悟を育む。そうした生き方をしない限り、何千万円という高額な医療費をかけて衰えきった生命をたとえ3年間永らえても、QOL(クオリティ・オブ・ライフ生活の質)が劣化したままでは真実の幸せとはいえないのではないか。
 
 死をどのように受け容れられるか。長寿の宿題である。

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