野ざらしを 心に 風のしむ身哉
道に行き倒れて白骨を野辺にさらしてもと覚悟をきめて、旅立とうとすると、ひとしお秋風が身にしみることよ―という松尾芭蕉「野ざらし紀行」の冒頭の句である。知人のNさんが急死したという警察からの突然の知らせに接したとき何故かこの句を思い出した。
二月ほど前、Nさんは脇腹を骨折した。その数日後風邪をひいた。何日かたって「すまんがスグに来てくれないか」という悲痛な電話がかかってきた。近くの介護支援センターへ走った。素人がヘタに動かして脇腹を悪くするのを恐れたからだ。介護員さんと一緒にお宅へ伺うとマットレスからズリ落ちた状態で俯伏せになったまま倒れたNさんがいた。
介護員さんの計らいで直ちに入院したNさんは極度の脱水状態から癒え10日位で退院した。ヘルパーさんの手助けもあって順調らしく見えたが痩せかたが尋常でなかった。胃を切除して三分の一しかなく食が細いNさんに自炊をやめて給食サービスを受けたらどうかと勧めてみたが委託した様子は無かった。
数日後の火曜日にいつもの喫茶店へ行くと、先週末久し振りに店に現れたNさんの様子が余りにも頼りなかったと女主人のY子さんが心配げに訴えた。介護支援センターへ寄ってNさんに給食サービスを至急に受けるよう手配してほしいと依頼した。
三日後介護員さんがNさん宅へ行くと、すでに亡くなっていたという。
もしも火曜日に訪問してくれていたら、という悔いは残る。しかしこの介護支援センターのテリトリーには対象の高齢者が12000人もいて対応している介護員は僅かに6人だということを知っているから彼らを責めることはできない。
左京区の高級住宅街にあるお屋敷で生まれたNさんは京大を卒業後有名商社に就職したが、のちに独立して東京でシンクタンクを設立、海外企業とのコラボ事業を手掛けたこともあった。晩年は月に何本かの講演で全国を回っていたと聞いている。3人の子どもはそれぞれ立派に独立し末娘はキャリア官僚として活躍中と自慢げに語るNさんの横顔が忘れられない。その彼がどうした経緯で独居に至ったかは詳しく語らなかったが、老いても意気盛んで何時も新鮮なものの見方で驚かせたダンディーな姿が鮮明に思い浮かぶ。
野ざらしを 心に 風のしむ身哉 (合掌)
2010年10月25日月曜日
存在証明
戸籍の電子化に伴う行政の対応について市民から強い不満が訴えられている。
戸籍法の改正により従来の紙の戸籍を「電子情報処理組織による戸籍事務の取扱いに関する特例」が設けられその施行細則で「戸籍の筆頭者以外で除籍された者について『省略できる』」としているために電子化前に亡くなった者が新戸籍に転籍されないケースが相次いでいるのだ。にもかかわらず電子化後の物故者は電子データに残るというから単に移行時の事務作業の軽減という『手抜き』を認めるため以外の何ものでもない。旧来の紙戸籍は「原戸籍」として150年間保存されるので、物故者等の除籍者の載った戸籍は数百円の手数料を払えば交付されるみちは残されている。
子どもを亡くした親がその兄弟姉妹の入学手続きなどで戸籍を取りに行ったとき、当然家族全員が記載されているはずと思って手にした戸籍に亡くした子どもの名前が削除されていたとしたらどんな気持ちに襲われるであろうか。親にすればどんな事情であれ夭折した我が子には特別な思い入れがあるに違いない。たとえ『現し身』は無くても心の内には生きている兄弟姉妹と共にいつも傍にいる存在としてあるに違いない。「最愛の家族を再び失ったような気持ち」という嘆きが訴えられるのも当然である。
少し前マスコミを騒がした『高齢者所在不明問題』はこれとは全く逆のことになるが根は同じで「事務処理の手抜き」に他ならないし、『消えた年金問題』にもそれが言える。一体役人と呼ばれる人たちは『人間の存在証明』ということを真剣に考えてみたことがあるのだろうか。昔のように大家族制度で先祖代々の土地に暮らしていた頃と異なり現在の我々にとっての存在証明は非常に「不確か」になっている。例えばリストラにあい、離婚して家族と離れ離れになり住居を失えばいとも簡単にホームレスになってしまうが、この状態での『存在証明』を手に入れることは甚だ困難になる。
そもそも「自己の存在証明」とは極めて哲学的な問題であり、戸籍であれ年金記録であれそれは形式的な一部に過ぎないが、それ故にこそ蔑ろにできない『よすが』なのであって事務処理の軽減などというレベルとは異次元のものなのだが、昨今の役人にそれだけの『深み』をもって仕事をすることは期待できないものなのだろう。
戸籍法の改正により従来の紙の戸籍を「電子情報処理組織による戸籍事務の取扱いに関する特例」が設けられその施行細則で「戸籍の筆頭者以外で除籍された者について『省略できる』」としているために電子化前に亡くなった者が新戸籍に転籍されないケースが相次いでいるのだ。にもかかわらず電子化後の物故者は電子データに残るというから単に移行時の事務作業の軽減という『手抜き』を認めるため以外の何ものでもない。旧来の紙戸籍は「原戸籍」として150年間保存されるので、物故者等の除籍者の載った戸籍は数百円の手数料を払えば交付されるみちは残されている。
子どもを亡くした親がその兄弟姉妹の入学手続きなどで戸籍を取りに行ったとき、当然家族全員が記載されているはずと思って手にした戸籍に亡くした子どもの名前が削除されていたとしたらどんな気持ちに襲われるであろうか。親にすればどんな事情であれ夭折した我が子には特別な思い入れがあるに違いない。たとえ『現し身』は無くても心の内には生きている兄弟姉妹と共にいつも傍にいる存在としてあるに違いない。「最愛の家族を再び失ったような気持ち」という嘆きが訴えられるのも当然である。
少し前マスコミを騒がした『高齢者所在不明問題』はこれとは全く逆のことになるが根は同じで「事務処理の手抜き」に他ならないし、『消えた年金問題』にもそれが言える。一体役人と呼ばれる人たちは『人間の存在証明』ということを真剣に考えてみたことがあるのだろうか。昔のように大家族制度で先祖代々の土地に暮らしていた頃と異なり現在の我々にとっての存在証明は非常に「不確か」になっている。例えばリストラにあい、離婚して家族と離れ離れになり住居を失えばいとも簡単にホームレスになってしまうが、この状態での『存在証明』を手に入れることは甚だ困難になる。
そもそも「自己の存在証明」とは極めて哲学的な問題であり、戸籍であれ年金記録であれそれは形式的な一部に過ぎないが、それ故にこそ蔑ろにできない『よすが』なのであって事務処理の軽減などというレベルとは異次元のものなのだが、昨今の役人にそれだけの『深み』をもって仕事をすることは期待できないものなのだろう。
2010年10月18日月曜日
セカンドオピニオンは必要か
昨今のテレビはやたら保険の広告が目立つ。その広告の『売り』は先進医療とセカンドオピニンをサービスに含めていることが多い。そこでセカンドオピニオンについて考えてみたい。
文明の進歩と社会の疾病構造の変化について英国の疫学者が次のような仮説を立てている。文明の第一段階にある社会では「消化器系感染症」が死因のトップを占め、以下第二段階では「呼吸器系感染症」、第三段階になると「生活習慣病」に変化し最終段階では「社会的不適合」による死が主役になるだろうというものである。我国のこれまでを振り返ってみると、明治維新から昭和初期にかけてはコレラや疫痢・赤痢などの消化器系感染症で死ぬ人が圧倒的に多かったが、昭和に入ると結核や肺炎などの呼吸器系感染症が主役に躍り出た。それが今ではがん、心疾患、脳血管疾患の生活習慣病に属する疫病が主要死因を占有している。
こうした疾病構造の変化を医師と患者の関係でとらえると、感染症の場合は体内の病原体を殺すこと、悪い働きをしなくすることが治療だから主役は医師であり患者は医師にまかせておけばいい。しかし生活習慣病では患者が治療の主役になる。医師や看護婦、薬剤師などの医療行為はあくまでも患者に対する援助サービスであって、その『実行』は患者自身やその家族に委ねられている。治療行為の実践者としての本質的役割は医師ではなく患者側にあって、医療の本質が「キュア(治療)からケア(看護)へ」変化しているのである。
この変化を正しく理解している人は以外と少ない。高血圧や糖尿病であっても医師に頼りっきりでただ薬を服(の)み続けるだけの場合が多い。指示通りに服む人はまだいい方でそれすらいい加減な人もいる。大体生活習慣病の患者に何故禁煙を強制しないのか。高い薬を服用しても喫煙していたのでは病状が改善されるわけがない。多分喫煙は個人の自由だからなのだろうが、こうしたことを放置しているから医療費の公負担が厖大に積みあがって財政を圧迫するに至ったのではないか。
医師と患者の関係を良好にする第一条件はどちらもが正しく情報を交換することだ。その段階をなおざりにして『セカンドオピニオン』を取り入れても治療は正常に行われないに違いない。患者は医師に助けられるが、医師を育てるのは患者だということも認識する必要がある。
文明の進歩と社会の疾病構造の変化について英国の疫学者が次のような仮説を立てている。文明の第一段階にある社会では「消化器系感染症」が死因のトップを占め、以下第二段階では「呼吸器系感染症」、第三段階になると「生活習慣病」に変化し最終段階では「社会的不適合」による死が主役になるだろうというものである。我国のこれまでを振り返ってみると、明治維新から昭和初期にかけてはコレラや疫痢・赤痢などの消化器系感染症で死ぬ人が圧倒的に多かったが、昭和に入ると結核や肺炎などの呼吸器系感染症が主役に躍り出た。それが今ではがん、心疾患、脳血管疾患の生活習慣病に属する疫病が主要死因を占有している。
こうした疾病構造の変化を医師と患者の関係でとらえると、感染症の場合は体内の病原体を殺すこと、悪い働きをしなくすることが治療だから主役は医師であり患者は医師にまかせておけばいい。しかし生活習慣病では患者が治療の主役になる。医師や看護婦、薬剤師などの医療行為はあくまでも患者に対する援助サービスであって、その『実行』は患者自身やその家族に委ねられている。治療行為の実践者としての本質的役割は医師ではなく患者側にあって、医療の本質が「キュア(治療)からケア(看護)へ」変化しているのである。
この変化を正しく理解している人は以外と少ない。高血圧や糖尿病であっても医師に頼りっきりでただ薬を服(の)み続けるだけの場合が多い。指示通りに服む人はまだいい方でそれすらいい加減な人もいる。大体生活習慣病の患者に何故禁煙を強制しないのか。高い薬を服用しても喫煙していたのでは病状が改善されるわけがない。多分喫煙は個人の自由だからなのだろうが、こうしたことを放置しているから医療費の公負担が厖大に積みあがって財政を圧迫するに至ったのではないか。
医師と患者の関係を良好にする第一条件はどちらもが正しく情報を交換することだ。その段階をなおざりにして『セカンドオピニオン』を取り入れても治療は正常に行われないに違いない。患者は医師に助けられるが、医師を育てるのは患者だということも認識する必要がある。
2010年10月11日月曜日
公園をみんなで守ろう
先日「北部みどり管理事務所」というところから電話があった。これは私が毎朝ゴミ拾いとグランド整備を行っている公園の管理を担当している市役所の関連部署である。電話の内容はグランド整備に使用している木製トンボの支給や修繕を取止めにしたいという申し入れだった。理由は市管理の他の公園ではトンボを支給していないからだという。双方がそれぞれの立場から言分を繰り返したが結局後日改めてということになった。
この公園には珍しく『壁打ちの壁』があり他に軟式野球場や幼児の遊び場も整備された市内でも有数の施設である。禁煙したとき何か運動をしなければと思いたってテニスを選んだのもこの壁のお陰といっても過言ではない。しかし5年前のグランドの状態は無惨なものだった。手入れが行き届いていないから石ころがむき出しになっておりとてもテニスなど出来るものではなかった。そこで市役所の緑地管理課に談判して『グランドを使用可能な状態復旧する。その代り私が毎朝トンボで整地する』という同意が成立し今日に至っている。トンボについては自由に使用できるよう鍵もかけずに公園の一隅に置いている。
今最も大事なことはお金の乏しいなかで如何に住民サービスを維持するかということである。そのためにはこれまでのような行政至上主義(何でも行政がやらなければならないという思い込み)や行政の無謬性を排除することが必須である。公園管理一つをとってもプロパティーマネージメントと捉えて市有財産のストック管理という観点から取組む必要がある。折角市民の側から公園管理の手伝いをしようという機運が立ち上がっているのに公園の特殊性(壁打ち用の壁の整備されている公園は殆んど無い)を無視して市内一律の管理基準を遵守することにどれ程の意味があるのだろう、僅か1本のトンボを支給停止することが市民の参加意欲を萎えさせ大事な市の資産である立派なグランドが使用不能になるというのに。
高齢化による社会保障費の膨張は社会資本整備を圧迫するから箱物施設の新設はほとんど不可能になろう。とすれば今ある施設を大事に使っていく仕組みが必要になるが、市民の力の集約なしに仕組みは考えられない。少子高齢化の時代では新しい地域コミュニティーの形成が不可欠だがその機能の一部として施設管理が加えられても良い。
電話してきた指導係長にどれほどの考えがあったか、はなはだ疑問である。
この公園には珍しく『壁打ちの壁』があり他に軟式野球場や幼児の遊び場も整備された市内でも有数の施設である。禁煙したとき何か運動をしなければと思いたってテニスを選んだのもこの壁のお陰といっても過言ではない。しかし5年前のグランドの状態は無惨なものだった。手入れが行き届いていないから石ころがむき出しになっておりとてもテニスなど出来るものではなかった。そこで市役所の緑地管理課に談判して『グランドを使用可能な状態復旧する。その代り私が毎朝トンボで整地する』という同意が成立し今日に至っている。トンボについては自由に使用できるよう鍵もかけずに公園の一隅に置いている。
今最も大事なことはお金の乏しいなかで如何に住民サービスを維持するかということである。そのためにはこれまでのような行政至上主義(何でも行政がやらなければならないという思い込み)や行政の無謬性を排除することが必須である。公園管理一つをとってもプロパティーマネージメントと捉えて市有財産のストック管理という観点から取組む必要がある。折角市民の側から公園管理の手伝いをしようという機運が立ち上がっているのに公園の特殊性(壁打ち用の壁の整備されている公園は殆んど無い)を無視して市内一律の管理基準を遵守することにどれ程の意味があるのだろう、僅か1本のトンボを支給停止することが市民の参加意欲を萎えさせ大事な市の資産である立派なグランドが使用不能になるというのに。
高齢化による社会保障費の膨張は社会資本整備を圧迫するから箱物施設の新設はほとんど不可能になろう。とすれば今ある施設を大事に使っていく仕組みが必要になるが、市民の力の集約なしに仕組みは考えられない。少子高齢化の時代では新しい地域コミュニティーの形成が不可欠だがその機能の一部として施設管理が加えられても良い。
電話してきた指導係長にどれほどの考えがあったか、はなはだ疑問である。
2010年10月4日月曜日
孤独な消費者
パソコン(PC)の故障でコラムを二週間休まざるをえないハメになった。この間の事情を通じて消費者のおかれている環境が如何に無力で孤独であるかを感じた。
9月17日故障発生、18日に購入した家電量販店Kに持ち込み28日に一旦修理完了したのだが翌日再度故障、10月1日N電機サポートセンターの出張修理でやっと修理が終わった。という経緯なのだがこの間のやり取りを箇条書きにすると次のようになる。
(1)28日Kに引き取りにいくと「電源ユニットの故障でした。今回に限り無償で、メーカー負担で行います」という修理事情をKの係員が伝えた。
(2)通常修理が無償で行われることはありえない。メーカー側に何か不都合があるのではないか。メーカーに詳細を問合せるよう依頼した。
(3)リコールをするほどではないが購入後3年前後(私のPCも購入後3年半である)で電源ユニットに不具合の発生するケースが多いので、持ち込まれたお客様に限り無償で修理している。というメーカー側の返答。(ここまでが最初の修理)
(4)静電気の帯電で立ち上がらないことがあるので放電処理が必要な場合がある。(2回目の修理)
この間Kの係員の対応は実に良かったのだが、しかし問題がある。
一、 詳細を問合せるよう指示しなければ詳しい事情は分からずに終わったに違いない。
大概の客はタダで修理ができたら「儲かった」と帰ってしまうに違いない。私が文句を言ったから不具合事情が把握できたわけだが、私の前にKが何故無償なのかに疑問を抱きNに事情を質すべきだ。
二、 メーカーに更に突っ込んで聞いたところ、同機種或いはビジネスタイプを大量に一括購入した企業から3年前後で電源ユニットの故障が発生するのはおかしいというクレームがあって無償対応を決めた、という説明があった。
企業からのクレームが無かったら今回のような対応ができていただろうかという疑問が生じるし、大体こうした事案はリコールの対象にならないのだろうか。
昔は街の電気屋さんが親身になって客の立場で対応してくれたものだが、今の量販店にそれを望むのは無理な相談なのだろうか。あらゆる製品がブラックボックス化した今、消費者は無力だ。
9月17日故障発生、18日に購入した家電量販店Kに持ち込み28日に一旦修理完了したのだが翌日再度故障、10月1日N電機サポートセンターの出張修理でやっと修理が終わった。という経緯なのだがこの間のやり取りを箇条書きにすると次のようになる。
(1)28日Kに引き取りにいくと「電源ユニットの故障でした。今回に限り無償で、メーカー負担で行います」という修理事情をKの係員が伝えた。
(2)通常修理が無償で行われることはありえない。メーカー側に何か不都合があるのではないか。メーカーに詳細を問合せるよう依頼した。
(3)リコールをするほどではないが購入後3年前後(私のPCも購入後3年半である)で電源ユニットに不具合の発生するケースが多いので、持ち込まれたお客様に限り無償で修理している。というメーカー側の返答。(ここまでが最初の修理)
(4)静電気の帯電で立ち上がらないことがあるので放電処理が必要な場合がある。(2回目の修理)
この間Kの係員の対応は実に良かったのだが、しかし問題がある。
一、 詳細を問合せるよう指示しなければ詳しい事情は分からずに終わったに違いない。
大概の客はタダで修理ができたら「儲かった」と帰ってしまうに違いない。私が文句を言ったから不具合事情が把握できたわけだが、私の前にKが何故無償なのかに疑問を抱きNに事情を質すべきだ。
二、 メーカーに更に突っ込んで聞いたところ、同機種或いはビジネスタイプを大量に一括購入した企業から3年前後で電源ユニットの故障が発生するのはおかしいというクレームがあって無償対応を決めた、という説明があった。
企業からのクレームが無かったら今回のような対応ができていただろうかという疑問が生じるし、大体こうした事案はリコールの対象にならないのだろうか。
昔は街の電気屋さんが親身になって客の立場で対応してくれたものだが、今の量販店にそれを望むのは無理な相談なのだろうか。あらゆる製品がブラックボックス化した今、消費者は無力だ。
2010年9月13日月曜日
花火とBBQと
さすがの炎暑にも翳りが見え長かった今年の夏もようやく終わりそうな気配である。あんなに勢いよく繁茂していた夏草が急に萎れだしたのは不思議だ。
公園のゴミ拾いをしていて一番面倒なのはタバコの吸殻と花火の燃えカスだ。吸殻は捨て場所がテンデンばらばらで草叢の中だったりするとつい見落としてしまう。花火の方は線香花火の芯棒が細く薄い紙になっていて摘みにくい。通りがかりの散歩の大人たちが「大変ですね。子どもらも持って帰ればいいのにね」と気を使って声を掛けてくれるが「花火をする場所がありませんからねえ」と返すと無言で去っていく。
納得のいかないことがある。市役所は市内に打ち上げ花火を許可している場所はないという。それなのに花火(大概セットになっている)を買えばほとんど打ち上げ系が入っている。手にしたらしたくなるのが人情だ。ついつい公園や河川敷でやってしまって大人たちに叱られてしまう。これでは子どももたまったものではないだろう。
役所とすれば販売を禁止することはできないというに違いない。しかし本当にそうだろうか。迷惑防止条例違反や何やらでカラオケ騒音も禁止できたではないか。市内販売禁止にして、その代り
夜使われていない競馬場の駐車場でも開放して思いっ切り子どもたちに打ち上げ花火をさせてやればいい。勿論花火はその場で売る。要は子ども(当事者)の立場で考えるという視線が乏しいということではないか。
バーベキュー(BBQ)騒動も発想は同じだ。BBQの道具はどこでも売っているし家庭でするものまで禁止することはできない。ここで思考が停止している。川崎市では多摩川の河川敷を有料で解放したがゴミの散乱は防止できずその処理費用に750万円を要したという。ではどうすればいいか。有料にして更に道具を持ち込み禁止にし貸出し制にする(保証金を5千円位徴収する)。ゴミ袋を道具と一緒に渡して返却時に分別したゴミを回収する。こうすれば大よそのゴミは回収できるに違いない。監視員も無料のボランティアに頼らず地域の方をアルバイトに雇う方が効果が上ろう。
以上は私見で不完全なものだが、要は『売る→買う→使う→捨てる』というサイクルのどこで歯止めをかけるかということである。『売る』は不可侵の領域と捉えているところに問題がある。
売るのが一番悪いという見方が『豊饒の時代』には必要なのではないか。
公園のゴミ拾いをしていて一番面倒なのはタバコの吸殻と花火の燃えカスだ。吸殻は捨て場所がテンデンばらばらで草叢の中だったりするとつい見落としてしまう。花火の方は線香花火の芯棒が細く薄い紙になっていて摘みにくい。通りがかりの散歩の大人たちが「大変ですね。子どもらも持って帰ればいいのにね」と気を使って声を掛けてくれるが「花火をする場所がありませんからねえ」と返すと無言で去っていく。
納得のいかないことがある。市役所は市内に打ち上げ花火を許可している場所はないという。それなのに花火(大概セットになっている)を買えばほとんど打ち上げ系が入っている。手にしたらしたくなるのが人情だ。ついつい公園や河川敷でやってしまって大人たちに叱られてしまう。これでは子どももたまったものではないだろう。
役所とすれば販売を禁止することはできないというに違いない。しかし本当にそうだろうか。迷惑防止条例違反や何やらでカラオケ騒音も禁止できたではないか。市内販売禁止にして、その代り
夜使われていない競馬場の駐車場でも開放して思いっ切り子どもたちに打ち上げ花火をさせてやればいい。勿論花火はその場で売る。要は子ども(当事者)の立場で考えるという視線が乏しいということではないか。
バーベキュー(BBQ)騒動も発想は同じだ。BBQの道具はどこでも売っているし家庭でするものまで禁止することはできない。ここで思考が停止している。川崎市では多摩川の河川敷を有料で解放したがゴミの散乱は防止できずその処理費用に750万円を要したという。ではどうすればいいか。有料にして更に道具を持ち込み禁止にし貸出し制にする(保証金を5千円位徴収する)。ゴミ袋を道具と一緒に渡して返却時に分別したゴミを回収する。こうすれば大よそのゴミは回収できるに違いない。監視員も無料のボランティアに頼らず地域の方をアルバイトに雇う方が効果が上ろう。
以上は私見で不完全なものだが、要は『売る→買う→使う→捨てる』というサイクルのどこで歯止めをかけるかということである。『売る』は不可侵の領域と捉えているところに問題がある。
売るのが一番悪いという見方が『豊饒の時代』には必要なのではないか。
2010年9月6日月曜日
独法は誰のもの
先日某独法(独立行政法人)の西日本支社長就任会見に同席した。これまで天下りの指定席であったのを民間登用した最初の人材だったので大いに期待を持って臨んだが見事に裏切られた。事業仕分けで厳しい評価を受けた独法だから民間感覚で組織の建直しに意欲満々な姿勢が窺えるかと思っていたのだが、微塵もそんな様子はなく、彼にとっての定年退職後の単なる再就職先でしかないことがあからさまに分かる会見であった。
天下り規制に関しては今もう一つ問題がもち上がっている。各府省の幹部職員、特に40~50代の職員の滞留を解消するために政府が6月に決めた「退職管理基本方針」によって実施されようとしている「各府省の幹部職員を独法の役員や民間企業に出向させる人事」がそれだ。行き場を失った幹部を救済する失業対策のような交流人事であり、このままでは天下り規制の形骸化と官民癒着に繋がる危険性が高いと危惧されている。
天下りの弊害は言い尽くされているから民間登用へのプロセスは理解できるが、登用の仕組みは万全だろうか。そもそもこの問題を『上からの視点』ではなく『下からの視点』で見る必要もあるのではないか。独法などの政府系機関のプロパー(生え抜き社員)の立場にすれば、幾ら頑張ったところでトップなどの幹部職員が天下りや民間など外部から来ることが決定付けられているのでは意欲が湧かないのも当然であろう。しかも仕事内容を熟知しない外部からの幹部が任期中(2~4、5年)にできることはそんなに多くないし継続性にも疑問があるから、組織にとって良いことは殆んどない。それなら思いきって『プロパー重視』に切り替えてはどうだろう。勿論組織としての設立動機の必要性を不断にチェックし目的達成度を厳しく判定する、独法等管理規則を定めて必要性と費用対効果の判定を適格に行う体制を作るべきことはいうまでもない。
独立行政法人には明確な設立動機があったはずである。その目標を効率的に達成するために最も必要なことはその組織で働く職員の意欲であり高いインセンティブである。だとしたら幹部職員を含めてプロパーの実力が正しく反映される組織であらねばならない。
『天下り規制』という上からの視点ではなく正統な組織理論に基づいて独法を見直す必要を強く感じる。
天下り規制に関しては今もう一つ問題がもち上がっている。各府省の幹部職員、特に40~50代の職員の滞留を解消するために政府が6月に決めた「退職管理基本方針」によって実施されようとしている「各府省の幹部職員を独法の役員や民間企業に出向させる人事」がそれだ。行き場を失った幹部を救済する失業対策のような交流人事であり、このままでは天下り規制の形骸化と官民癒着に繋がる危険性が高いと危惧されている。
天下りの弊害は言い尽くされているから民間登用へのプロセスは理解できるが、登用の仕組みは万全だろうか。そもそもこの問題を『上からの視点』ではなく『下からの視点』で見る必要もあるのではないか。独法などの政府系機関のプロパー(生え抜き社員)の立場にすれば、幾ら頑張ったところでトップなどの幹部職員が天下りや民間など外部から来ることが決定付けられているのでは意欲が湧かないのも当然であろう。しかも仕事内容を熟知しない外部からの幹部が任期中(2~4、5年)にできることはそんなに多くないし継続性にも疑問があるから、組織にとって良いことは殆んどない。それなら思いきって『プロパー重視』に切り替えてはどうだろう。勿論組織としての設立動機の必要性を不断にチェックし目的達成度を厳しく判定する、独法等管理規則を定めて必要性と費用対効果の判定を適格に行う体制を作るべきことはいうまでもない。
独立行政法人には明確な設立動機があったはずである。その目標を効率的に達成するために最も必要なことはその組織で働く職員の意欲であり高いインセンティブである。だとしたら幹部職員を含めてプロパーの実力が正しく反映される組織であらねばならない。
『天下り規制』という上からの視点ではなく正統な組織理論に基づいて独法を見直す必要を強く感じる。
登録:
投稿 (Atom)