2016年5月2日月曜日

厄災の畏れ方

 先日関西のお笑いコンビの一人が熊本大地震の避難所のニュースを見て「この光景、阪神淡路大震災のときと全然変わってへんやんか」と叫んだ。物知り顔の誰かが「行政もお金がないから」と挟むのに「そやけど政治の優先順位からいったらこっちの方が優先やろ、こういう時に助けるのが政治違うんかいな。何にも学んでないやんか」。十年一日の如く災害のたびに小学校などの公共施設へ着の身着のまま避難して体育館の床にブルーシートを敷いて毛布などを身にまとって家族が体を寄せ合う構図が繰り返されている。そしてその先には終点の見えない「仮設住宅暮らし」が待っている。彼がいう通り何も学習していない「政治」!
 
 1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災、そして今回(2016年)の熊本大地震。この間に2004年に新潟県中越地震があり1995年には「地下鉄サリン事件」、2011年には「福島第一原子力発電所事故」がある。僅か20年余の間にこれだけ『未曾有』の天変地異と事故事件が続けば昔の人ならば、平安時代や室町時代の人なら「これは何かの『祟り』にちがいない」と『畏れ』を抱いたことだろう。そして原因と考えられる『御霊』を祀って不遇のうちに抹殺された『怨霊』の鎮魂を祈ったことは間違いない。ところが我々現代人は「地震予知」であったり防潮堤や耐震構造や防災・減災を『科学的』に思考することに専らである。
 
 古人にならって「何かの祟り」と考えるとしたら、誰が今日の我々のあり方を怒(いか)っているだろうか。すぐに思い浮かぶのは第二次世界大戦で亡くなった兵220万人民間人80万人の300万人余の死者である。無謀な開戦も、無惨な敗戦にも、明確な責任所在のあいまいなままに、尊い生命を失われた同胞がもたらしてくれた平和、民主主義と基本的人権、男女平等そして『不戦の誓い』を我々は大切にしてきただろうか、そして『原爆許すまじ!』の怒りを!
 基本的人権も男女平等も民主主義なればこその恩恵であり平和は民主主義の拡大によってグローバル化してきたから、300万人の犠牲によって我々が享受した恩恵は「民主主義」に集約してよかろう。それを我々は敗戦によって「棚ボタ」的に手に入れたわけだが、現行憲法の発布した1947年と今と、民主主義がより機能しているのはどちらだろうか。どちらの時代が『生きやすい』だろうか。
 
 一体『300万人の戦死者』にはどれほどの『重み』があるのだろう。
 1930年(日中戦争の始まった)の人口は6445万人であり男の人口は3239万人だったから人口の4.7%、男の6.8%が死んだことになる。更に子どもと年寄りを除けば人口の一割以上の成人男子が死んでいるのだ!1945年次の軍人総数は約800万人(陸軍550万人海軍250万人)と推定されるから220万人の軍人死者数はすべての軍人の27%以上になる、ということを我々は考えたことがあるだろうか。更につけ加えれば現在の我国の都道府県別の人口で300万人を超えるのは東京圏の4都県以外は北海道、静岡、大阪、兵庫、福岡以外になく京都も広島も埋没する死者数であり、世界の188の国で300万人以下の国は58カ国もある。
 戦死者数300万人の重みを認識するとき、それによって我々が享受している「民主主義」についてもういちど熟慮する必要があるのではないか。
 
 「民主主義は、その言葉の全的な意味では、つねに理念以外の何物でもない。良かれ悪しかれ、人は地平線に近づいて行くのと同じで、決して全的にその理念に到達することはありえない。この意味において、あなた方もまた、単に民主主義に近づきつつあるのである」。これはチェコスロバキア大統領ヴァツラフ・ハーヴェルの米議会での1990年の演説の言葉である。ところが政治家というものは鈍重かつ鈍感であるから、民主主義を既成のものと看做している、そして我々もこれについては同罪である。戦後70年が経過して民主主義的『自由』が当たり前になりそれについて深く考える習慣が稀薄になるにつれて「自由が不寛容に容易に転化しうること、(略)不寛容なナショナリズム(民族主義)が何を生むか」と堀田善衛が『天上大風』で示した危惧が我国で、世界のあらゆるところで顕在化している。
 
 我国に限らず世界中が未曾有の天変地異に見舞われている。これに科学的に対応することは当然としても、古人に倣って「怨霊の祟り」と畏れを抱く『歴史的な感じ方』があってもいい。そして今を『再考』することが「歴史に学ぶ『賢明』さ」につながる謙虚さなのではなかろうか。
 

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