2021年8月16日月曜日

天の配剤

  無能の誹りを免れ得ない菅総理の無策が招いた「デルタ株の感染爆発」。感染者数は全国で2万人を超え重症者数も2000人に迫ろうかという勢いです。専門家は「災害レベルの猛威」といい、政府も「これまでとは違う強い対応を」と言い募っていますがその政府の打ち出す対策は相変わらず「お願いレベル」の、マスク、3密、そして不要不急の外出自粛に終わる体たらく。勿論お盆のことでもありますから、県境をまたいだ交通を控えお盆の帰省も中止を、と訴えていますが個人の行動規制ばかりで政府の「行政的政策」に発生当時となんら進展が見られないのは無念と言わねばなりません。菅総理の唯一の政策らしい政策「ワクチン接種」もタネ切れで接種スピードが頓挫してしまった現在ではまったくの「打つ手無し」の情けない有り様です。PCR検査の飛躍的な拡大、ワクチンの確実な接種予定に基づく集団免疫の獲得時期明言、治療薬開発の予算大増額による「国家的開発目標」策定、感染専用病院(プレハブでよい)の早期建設、等「国民の健康と生命を守る」具体策を早期に作成し政府の本気姿勢を提示して国民の信頼を獲得して下さい。選挙日程が間近ですから浮足立っているのでしょうが、国会を開いて政府与党と野党が協力して「挙国一致体制」で国難に挑むことを切に願います。

 

 それにしてもコロナ禍における「東京人」の振る舞いは納得できません。緊急事態下にもかかわらず人流に変化は見られず、いやむしろ増加して今の感染爆発を招いてしまったのです。五輪開催の皮膚感覚はわれわれ他県のものとは隔たりがあるのでしょうがそれにしても「切迫感」ゼロです。その結果が感染拡大になり東京人同士で納まりがついているのなら「どうぞご勝手に」、なのですがそうはなっていません。彼らが沖縄、北海道、金沢、京都、など全国へ越境行動することで感染を振り撒いているのです。決めつけているようで反論もあるでしょうが、全国の多くの人たちはそう思っています。なぜなら全国の多くの都市の市民は東京人ほど所得が多くありませんからそんなに頻繁に旅行に出かける余裕がないのです。正月であったりゴールデンウィークであったりお盆であったりの新幹線、航空機の混雑状況が伝えられるたびに、東京駅や羽田空港の沖縄行き、北海道行きの混雑状況が、ああまたこれで沖縄が、北海道が、京都が感染拡大になるだろうと予想され、数週して必ず感染が拡大してきたのです。

 東京人には感染拡大を及ぼした責任がまったく感じられません。全国知事会がロックダウン(に近い措置)も選択肢に挙げたのははっきり言えば、「東京圏のロックダウン」を言っているのだということを銘記すべきです。

 

 そんな折、お盆休みに入ろうかという10日ころから季節はずれの疑似梅雨前線が全国を覆い「豪雨警報」に近い雨量が予想される気象状態が起こりました。一部地方で線状降水帯が発生し甚大な被害が発生しています。この状況は西日本から徐々に東に移動しお盆休みあけのころにかけて東日本へ移動する予報です。被害の出ている地方の方には心からお見舞い申しあげますが、これはまさにコロナ感染爆発にとっては『天の配剤』です。もしこの豪雨がなかったら、お盆の越境行動は全国規模で行なわれたはずでそれによる感染拡大は悲惨な結果を招いたにちがいありません。高齢者のワクチン接種が80%を超えたこともあってPCR検査をしての実家への帰郷が大幅に増えそうな傾向が報道されていました。それが豪雨予報で予定中止を余儀なくされた人が相当数あったことでしょう。もしこの気象異変がなかったら、東京人の全国拡散に歯止めがかからなかったと思います、そして感染爆発は「大災害レベル」に達したかもしれません。雨の被害は恐ろしいですがコロナ禍にとっては僥倖ともいえる『天の配剤』になることを祈るばかりです。

 

 それにしてもどうして日本人はこうも変わってしまったのでしょうか。最近は「同調圧力」などと悪いことのように言われますが、もともとの日本人は「愛他意識」があって人様に迷惑ををかけない、世の中を良くしようという気持ちが強い民族だったはずなのです。そうした日本人を小泉八雲はこんな風に描いています(『日本人の微笑』1894年)。

 古い体制に育った日本人のなかに、決してほめすぎにはならない、礼儀正しさや、無心無欲や、善意に満ちた優雅に、われわれは出会うことがある。当世風の若い世代の連中のあいだからは、こういったものはほとんど姿を消している。卑俗な模倣と、陳腐きわまる浅薄な懐疑を超えることもできずに、いたずらに古い時代と古い習俗とを嘲笑する若い人たちを見かけることがある。いったい、彼らは父祖から受け継いだはずの、あの崇高な魅惑的な美質はどこへ行ったのであろうか。

 千年以上もむかしに中国の文明と同化しながら、しかも独自の思考や感情形式を保持している日本は、はたして西洋文明と同化することができるだろうか。ただ一つ、希望を持てる目ざましい事実がある。それは、西洋の物質的優越に対する日本人の讃美が、決して西洋の道徳にまで及んでいないことである。東洋の思想家たちは、機械の進歩と倫理の進歩とを混同するような重大なへまをおかしたり、また、われわれの誇る西洋文明のもつ道徳的弱点に気づかぬようなことはない。

 皮相な見地からすると、西洋流の社会形態は、古くより人間の欲望を自由に発達させた結果、華美と浪費をきわめ、はなはだ魅力的である。要するに、西洋で一般に行われている物事の状態は、人間の利己心の自由な活動にもとづいているから、そうした特質をじゅうぶんに発揮することによって、はじめて到達されるのである。

 一見したところ、西洋文明は、利己的な欲望を満足させるのに適しているから、いかにも魅力的に見えるが、しかし、人間の願望が自然の法則をつくるという仮説を基にしている以上、究極するところそれは、失意と堕落に終わるにちがいない。……西洋諸国は、最も深刻な闘争と幾多の消長をへて、今日の有様となった。だから、闘争をつづけるのが、彼らの運命なのである。

 西洋かぶれの日本人は、自国の歴史を、西洋流に書くつもりでいるのか。彼らは、本気で自分の国を、西洋文明の新しい実験の場にしたいと考えているのであろうか。

 

 130年前、日本に魅せられて帰化した外国人の心配が、あたかも現実になってしまったのす。

 

2021年8月9日月曜日

金メダル交換してあげて下さい

  名古屋市の河村市長が金メダルをガブリと噛んでしまいました。ソフトボールで優勝し表敬訪問した日本代表の後藤希友投手の金メダルを了解も得ず突然ガブリと噛んでしまったのです。当然のことながら怒りや非難、SNSの炎上などで追い詰められた彼の言い訳は「最大の愛情表現だった。迷惑をかけているのであれば、ごめんなさい」というものです。意味不明です、優勝の称賛と努力への敬意こそ市長としての表敬への返礼であるはずで、「愛情」など誰も期待していないし予想すらしていなかったにちがいありません。後藤さんは金メダルを大事にしていくことでしょう、それを取り出すたびに、あのいやらしい「おっさん」が唾液まみれにした「おぞましい」場面を思いだすにちがいありません。一生その記憶は消えないでしょう。最高の栄誉と称賛のしるしが彼女にとってはいやらしい、おぞましい記憶として一生ついて回るのです。

 IOCかJOCか、どちらでもいいです、金メダルを取り替えてあげて下さい。スペアの1個や2個はあるでしょう。どうか彼女の金メダルをまっさらキレイなものにしてあげてください。

 

 しかし彼は何故こんな暴挙に出たのでしょうか。その後もいろいろ言い訳をしているようですが納得できできるものではありません。ただ言えることは、余りに「子どもっぽい」振る舞いであったということです。テレビで何度も見たシーンを前後不覚で衝動的に実行してしまった、ということなのでしょう。そういえば最近政治家の子どもっぽい振る舞いや言動が多すぎるように感じます。最たるものは安倍元首相と菅総理の「キチンとやります」でしょう。それはまるで出来の悪い子供が親に叱られて、「チャンとやらなあかんやないの。言うた通りキチンとしいや」「うん、分かった。チャンとやる、言われた通りキチンとする」。

 キチンとする、とは普通おとなは言わないでしょう。目上の者――親が言いつけた「プログラム」を百点満点めざして一所懸命努める場合に言う言葉遣いです。おぼろげですが歴代の総理が「キチンとやります」と言ったのを聞いた記憶がありません。安倍さんという人は祖父、大伯父、父親ともども非常に優秀な人たちでした。彼もそのあとを踏襲すべく平沢勝栄復興大臣(元東大生)の家庭教師の薫陶を得たのですが祖父たちと同じ学歴を得ることはできませんでした。そんな安倍さんの生い立ちをみると彼が「キチンとやります」を常套句としていたであろう幼少時が彷彿とします。

 菅さんは安倍さんと後継の「中継ぎ」ですから彼独自の政治目標というものがないままにコロナ禍という「国難」に対応させられましたから「無策」なのも仕方ないのです。とにかく周りの提案する施策を懸命に実現する以外ないのです。したがって「キチンとやる」という言葉が自然と口をついて出るのです。

 政治家としての信条と政策体系を具備した「ひとかどの」政治家でなければこの難しい状況を打破できません。現状は「子どもっぽい」連中による弥縫策の連続で最悪の状況に陥っていくのを手を拱いて静観するしかないのです。

 

 「ピーター・パン症候群」ということがマスコミをにぎわした時期がありました。年齢的に大人なのに、精神的に子どものままでいる「おとな・こども」の男性のことで、社会人としての能力に疑問のある人が多いといわれています。先の政治家の皆さんは一応それなりの成果を上げてこられましたからこの範疇に入れるのは気の毒な気もしますが精神的にはどうなのでしょうか。『ゴルゴ13』で外交を勉強する大物政治家はいますが……。

 「おとな買い」というのがあります。シリーズ物の漫画本を全巻まとめ買いする、子どものころ欲しかったヒーローの合金フィギアを何体もコレクションする、などですが妻や恋人の「冷ややかな」視線に気づいていません。回転寿司や外食チェーン店での日常的な外食通いも一種の「子どもっぽい」習慣的行動といえるかもしれません。

 

 おとなと子どもの差の大きなポイントは「欲望管理能力」ではないでしょうか。子どもにはこの管理能力が不足していますから「だだ(駄々)をこねる」ことになるのですが、要するに湧きおこった欲望を堪えることができるかどうかに大人と子供の根本的な分かれ目があるように思います。河村氏はこれがなかったのです。

 戦争を経験したわれわれ世代は「物資不足」の時代を実体験しました。生活を営む上で最低限必要な食糧や道具、住むところさえ無い状況を知っています。急速に復興して「まがいもの」で必要を満たす時代を経て間もないうちにドンドン「もの」が溢れる時代が来ました。「大量生産・大量消費」の時代が来たのです。ところがそのうち「自分が本当に欲しいもの」かどうか分からないものを「買わされる」時代がやってきます。そして「コンビニ」と「100円ショップ」が現われたのです。

 この頃から「何でも買ってもらえる時代」になっていきます。『まがいもの』でも『安い』から『かたち』だけは「欲望の満足」が得られるようになったのです。そして「辛抱のきかない時代」になってしまいました。『今』です。

 

 わたしが大事にしたいのは『本もの』と『本当に欲しいもの』です。「ファストファッション」はつくられた流行を超低廉価で提供される衣装です。二年もてばいい方で、というのは明らかに二年前に流行ったファッションだということが誰にでも分かってしまうからです。親子四人で5千円もあれば腹一杯食える寿司やハンバーグ店があります。合成調味料と過剰な塩分糖分で「味覚」が成長できなくなっています。

 一方で美術館や博物館は勉強好きの高齢者で溢れていますが、彼らは掛け軸の草書が読めませんし読めても意味の分からない人がほとんどです。

 

 「子どもっぽい」大人たちが政治をし、子どもを教える「悪循環」。何とかしないといけないのですが、もう余り時間は残されていません。

 

 

2021年8月2日月曜日

金メダル考

  スケードボード女子ストリートで西矢椛もみじ)選手が金メダルを獲得しました。誠に喜ばしいことですが何故か「違和感」を感じました。別に西矢選手の優勝にケチをつけるのではありません、13才という彼女(?)の年令に頭をかし()げたのです。おんなの児と呼ぶのが普通の中学校2年の女子が優勝する、そして金メダルが授与される。授与されたその「金メダル」とはなにものなのかと考えずにはいられなかったのです。

 

 フト浅田真央さんが浮かびました。浅田さんはジュニア時代に日本最高レベルの演技を見せ、シニアも含めた全日本代表クラスに上りつめました。ところが2006年のトリノ・オリンピックは「五輪前年の6月30日までに15才」という年齢制限に87日足らなかったために出場がかなわなかったのです。もし彼女がトリノに出場していたら優勝したに違いないという関係者は少なくありません、もちろん素人の私もそう思っています。今から思うと15才のころが彼女の全盛期だったのかもしれません、シニアになって何度もオリンピックに出場しましたがとうとう優勝はかないませんでした。原因はいろいろあるでしょうが彼女の肉体が年令とともに脂肪のつきやすい体質だった、そのために年令と共に演技が衰えてきたのかもしれません。そしてアイススケートという競技が、とくに女子の場合、成熟した女性には適さない競技なのではないかという考え方も一方にはあるようです。その後オリンピックの年令制限が変更になって今の条件なら浅田さんは出場できたのですから彼女は本当に不運だったと気の毒に思います。

 

 アイススケートが成熟した女性に不向きな競技であった、それ以上にスケードボードは若い――幼い年齢層に有利な競技なのではないか。そんな気がしてならないのです。アイススケート以上に全盛期が若年化する競技なのではないか、そう思うのです。まだ歴史の浅い競技ですからこん後の趨勢を見てオリンピック競技として残すべきかどうかの結論を待ちましょう。

 

 さてそこで、です。中学校2年の女の子(あるいは高校2年)が世界最高レベルの技術を披露したのですからそれは称賛されて当然です。子どもが「遊び」が面白くて夢中になって、一所懸命努力して、他人の何倍も研鑽して今日をあらしめたのですから文句のつけようもありません。それが分かっていても、認めてもいて、それでもなお「違和感」があるのはなぜでしょうか。

 柔道男子73キロ級で2連覇を果たした大野将平さんの金メダルを思うとき、このふたつの金メダルを同列に並べることに抵抗を感じるのは私だけでしょうか。

 それなら水泳男子200米バタフライ銀メダルの本多灯選手は19才ではないかと言われればそれもそうなのですが。

 

 結局歴史が浅く、選手層が圧倒的に少ない競技だということが、そしてつい昨日まで「子どもの遊び」とみられていた(おとなが見ていた)競技だということが違和感の原因なのではないか、とにかく「子どもの遊び」という認識が根強く残っているのです。柔道は1882年に嘉納治五郎によって近代柔道が創設され今では世界200ヵ国が連盟に参加していてわが国の競技人口は約16万人もいます(ブラジルは200万人、フランスは56万人です)。それにくらべてスケートボードのわが国の競技人口はせいぜい3000人に過ぎません。競技としての歴史のちがい、競技人口の多少、年齢層の厚さ、そして競技技術の完成に至る道程の長さ深さ。すべての点でこの二つの競技を比較するのは無意味なことに思えます。

 

 「より速く、より高く、より強く」というオリンピックのモットーからはみ出た競技も最近は少なくなく、スケートボードもそうした競技種目の一つです。1896年の第1回のアテネ大会では8競技43種目だったのが2020東京では33競技339種目にまでインフレ化した近代オリンピックは、完全に「変質」しているのです。120年以上の歴史を経てオリンピズム自体も変質してしまったのです。オリンピックの政治利用、商業主義が批判されています。最近ではオリンピックは悪政を隠す「スポーツウォッシング(悪化した政治状況や社会的評判をスポーツによって洗い流そう、覆い隠そうとすること)」だなどという言説も出てきています。IOCという組織の「不健全さ」も無視できないところにまで高まってきました。

 オリンピックは完全に「変革期」を迎えているのです。

 

 ところで危惧されていた「東京2020」のオリンピックとしての価値に疑問を感じさせる事実が散見されるようになっています。男子サッカーで日本がフランスに〈4―0〉で圧勝してマスコミをはじめ多くの国民が浮かれていますがそれでいいのでしょうか。冷静に考えてわが国と彼の国の実力にこれほどの差があるとは考えられません。この酷暑のなかで3戦4戦闘いつづけて優勝できる可能性を考えたとき、その僅かな可能性に賭けるよりも、その後のヨーロッパリーグでのそれぞれの選手のパフォーマンスと評価(契約金)を考えて本気の勝負を避けたとみるのは私だけでしょうか。テニスも参加選手にばらつきがあるように思えるうえに、試合開始時間に批判が出て3時開始に変更されました。ゴルフ、柔道、体操なども優勝者に世界最高の栄誉がふさわしいか、これからはじまる陸上はそんな「おそれ」は皆無で終われるのか。

 

 新型コロナのパンデミック下で強行された「東京2020」の意味は終わった後も厳しく検討されるべきです。

 

 

 

2021年7月26日月曜日

コロナはいつ終息するのか

  人類はこれまで幾度もパンデミックを経験してきました。そしていずれの時も経済圏の拡張――グローバリゼーションと同時的に発生してきたのです。

 

 人類が初めてグローバリゼーションと呼ぶにふさわしい世界的な経済圏の拡張を経験したのは「13世紀グローバリゼーション」とも呼ばれるジンギスカン率いるモンゴル帝国による旧大陸=ユーラシア大陸の統合でした。これが「陸路」による世界制覇だとすると次のグローバリゼーションは16世紀の「海路」によるアフリカと新大陸=アメリカ大陸を含めた大統一経済圏の形成となった「大航海時代」のグローバリゼーションです。スペイン、ポルトガルの先導した大航海時代の経済統合に比べて1800年前後に起こった「産業革命」はイギリスを中心とした「生産力革命―エネルギー革命」という特色をもち、その圧倒的な生産力を背景とした大英帝国の植民地主義はアジアを中心に世界各国を侵食しました。1914年から1918年の第一次世界大戦は人類が初めて経験する「総力戦」で植民地争奪戦の一応の終結となるのです。

 私たちが渦中にいるパンデミック――新型コロナ感染症を生んだのは、1980年代以降の新自由主義的グロバリゼーションにより地球社会が急激なスピードで広域統合されていったことに原因があります。市場万能主義を信奉する新自由主義は資本の「競争」を極限まで追求して「勝ち組」と「負け組」に世界を分断、「格差」が放置できない程度にまで亢進させてしまいました。その反動はまず〈9・11〉となってあらわれグローバルズムのなかで周縁化され排除された少数派による命懸けの反逆は一度も戦場になったことのないアメリカに衝撃を与えたのです。

 

 これらのグローバリゼーションはまず14世紀のペスト禍をもたらします。モンゴル帝国がユーラシア大陸を制覇し旧大陸全域で人やモノの移動が活発化します。大陸的統合によって中国北部で広がった疫病は容易に黒海に達しそこから海洋ルートでヨーロッパ全域に襲いかかることになったのです。

 十六世紀の南北アメリカ大陸では、天然痘がすさまじい勢いで広がり、先住民に大量死をもたらしましたが、これはスペインの大航海者たちが持ち込んだ病原菌で、大航海時代と不可分の関係にあります。米大陸の先住民社会には天然痘に対する免疫がまったくなかったため、コルテスたちが持ち込んだ天然痘が多くの部族を全滅させたのです。

 1817年にインドからコレラが世界に拡散し、その後も十九世紀を通じてコレラ禍が世界各地で起きています。これは産業革命を背景にした大英帝国のアジアでの発展と不可分の関係にあります。コレラはカルカッタで流行した後、大英帝国の交易圏となっていたアジア各地、中東、アフリカに広がり、ヨーロッパを恐怖に陥れました。ちなみに、コレラが日本を襲うのは1858年、ペリー来航で日本が開国した直後です。これも、グローバル・システムへの編入と感染症蔓延の表裏の関係を示す典型例といえます。

 1918年にスペイン風邪大流行します、すなわちインフルエンザ禍です。それが、第一次世界大戦で大量の兵士がグローバルに移動したことと不可分だったのは周知の通りです。兵舎が感染の温床となり、米国の参戦で大量の兵士がヨーロッパの戦地に移動したことで感染は世界的に広がり、悲惨な大戦を終わらせる要因の一つともなったのです。

 

 人類史のなかで繰り返されてきた感染症パンデミック発生の背景には、常に様々な時代のグローバリゼーションが存在しました。ローカルな疫病をグローバルなパンデミックに転化させる主犯はいつも人間の移動と接触の拡大だったのです。だから感染予防は、古代から現在にいたるまで、一貫して「移動制限」が基本となります。グローバル化とパンデミックは、歴史を通じて同じコインの表裏にあるのです。

 

 人類史的視点からコロナ禍をみると終息は数年以上、ひょっとすると10年近い年月を要するかもしれません。少なくともワクチン接種が人口の6割を超え「集団免疫」を得ることのできる今年いっぱい、遅くとも来年春頃などという楽観論は期待だけに終わるでしょう。デルタ株などの変異株はこれからも幾つか現れるでしょうし、感染力が高まる可能性も排除できません。ワクチンの有効期間が1年もつのか、それより短い間しか保証されないかも分かっていません。日本などの先進国でワクチン接種が行き渡っても途上国ではなかなか接種が進まない状況が続くなら、そちらからの感染が再発を誘発する可能性は無視できません。全世界が一応のワクチン接種を終えるのはあと2~3年後になるのではないでしょうか。

 ワクチン接種は新型コロナウィルスが消滅しない限り毎年接種しつづけないといけないでしょうから、来年もまた接種を覚悟しておく必要があります。治療薬が開発されるのはいつになるでしょうか。ワクチン、検査薬、治療薬の3つが進化して新型コロナが人類の「アンダーコントロール」になるまでにはまだ相当の時間が必要となるのはまちがいありません。

 

 一方で「接触感染」のリスクはほとんど考慮しなくてもよいという研究結果も報告されています。飲食店のテーブルや椅子の清拭や公園の遊具使用禁止は不要になるでしょう。新しい研究成果を絶えず「公開」して「賢く」恐れる「コロナと共生」する社会の模索がこれからもつづくことになります。                  

本稿は吉見俊哉著『大学は何処へ』岩波新書に依っています

 

 

 

 

 

2021年7月19日月曜日

モネと資本主義

  朝青竜は「横綱の品格」がないと散々バッシングを受けました。白鵬を何故批判しないのでしょうか、マスコミも世間も。 

 

 先週の「モネ…」は登米の山の御神木――樹齢300年のヒバの木の伐採がメインテーマです(モネはNHK朝ドラ『おかえりモネ』)。伐採木の芯――能舞台の芯柱となる木は乾燥に50年を要するため保存を引き受ける家探しが難航します。その中で林業家の「わしも50年後林業をやっているかどうか分からんし子どもに林業の将来をきかれても答えられないからね」というセリフが気にかかりました。

 

 ここ数年考え続けているのですが、一次産業、二次産業、三次産業がなんの制限もなく同じ市場で競争しなければならない「無修正」の自由競争を前提とした資本主義をこのままにしておいていいのかという問題です。林業を例にすると植樹してから伐採まで早くて30年以上はかかるでしょうしドラマのヒバは300年という途方もない成木期間があったうえに製品化する乾燥工程に50年を要するのです。おまけに広大な「山」という資産が必須の「投下資本」です。一方で株式投資を中心業務として「株式売却益」を元手にM&Aなどで業容を拡大していく『投資銀行』や『IT業』などは土地建物や生産機械などの投下資本はほとんど不要で「貨幣」や「株式」「情報」という『無形』の商品を時間の制限をほとんど受けることなく(毎日、毎時間、毎秒)商取引できるのです。木材という「有形の商品」は「総価格」に制限がありますが貨幣や情報という無形の商品はある意味で「総価格」は無限です。このふたつの株式が同一の「株式市場」で取引されるのですから結果は明らかです。無限に近い膨張を可能とする「金融やIT」の株式と材木という有限価値の「林業」株の株式市場での「競争」は前者の勝ちに帰することは自明の理です。にもかかわらず金融やIT関連企業株式の「時価総額」を元手とした資金で「林業株」を買収する「取引」が常態として行われているのが現在の株式市場なのです。

 これが『公正な競争』と呼べるでしょうか。

 

 もうひとつ資本主義には大問題があります。資本主義の成立を何時とするかは諸説ありますが今1800年前後とすると、それ以来二百二十年の間で第二次世界大戦後の76年という『長期間の平和』を経験したことがないのです。ということは戦争の破壊によって、それまでに蓄積した『(資産)格差』が消滅してゼロから再スタートするという、「強制的」な『修正』が行なわれる「資本主義」以外に人類は資本主義を経験したことがないのです。

 1789年のフランス革命以後1914年の第一次世界大戦まで世界中に極地戦争が継続します。第一次世界大戦が人類の経験したはじめての総力戦でしたが、このことによって戦争はパラダイムシフトをおこし、一旦戦争が勃発すれば少なくとも当事国は国土と国民のすべてを注入せざるを得ない状況に追い込まれる「勝者のない戦争」を覚悟することになるのです。1919年に終結した20年後第二次世界大戦が勃発、1945年原爆投下によって人類が経験したことのない『悲惨』な被害をわが国が被ることで二回目の総力戦争が終結し今日に至っています。

 

 ふたつの世界戦争で唯一国土が戦場にならず、国民の生命と資産が毀損されずに済んだ国がアメリカでした。戦後の復興で圧倒的な生産力を誇ったのは当然無傷のアメリカで、ゼロどころかマイナスからスタートせざるを得なかった諸国に比べて、蓄積とイノベーション力の優位さで世界経済を先導したアメリカは世界第一の経済大国として君臨します。そしてその「アメリカ型資本主義」が最も優れた経済システムとして世界中が採用する趨勢となります。資源と富の配分は「市場の見えざる手」に委ねる『市場万能主義の資本主義』が最上の経済システムとしてわが国など多くの先進国で採用されるに至ります。その延長線上に「グローバル資本主義」が形成され世界が一つの市場に統合されるのです。

 ところが76年という長期の平和は「アメリカ型資本主義」にとって『試練』となって立ちはだかることになるのです。1%の富裕層と99%の恵まれない人たちという『格差』を生み、『分断』という国民国家存続の危機を露にしました。アメリカの後追いをしたわが国も程度の差はあっても格差と分断の様相はこのまま放置しておけない危機的状況を現しています。

 

 アメリカの繁栄は決して「アメリカ型資本主義」のシステムとしての「優位性」に由来するのではなく、二つの世界大戦で無傷で済んだという『僥倖』のもたらした「幸運」にすぎないかった、と言ってもあながち間違いではないのです。

 

 76年の平和という「奇跡」は「戦後処理の世界体制」にも齟齬をもたらしています。大国の「拒否権」を支柱とした「国連」は戦後処理を早期に、効果的に行うための『臨時的』措置として形成されたもので、いずれ拒否権は解消しなければならないものと予定されていたかも知れません。また平和が50年以上継続するとは予想されていなかったかもしれません。世界中に200国近い国民国家が成立し、経済が世界大で統合されるなどという事態は想定外だったにちがいありません。

 76年の平和は「戦後処理の世界体制」としての「国連」の機能不全を現出してしまいました。

 

 「アメリカ型資本主義」も「戦後処理の世界体制」としての「国連」も制度疲労を来しています。

 資本主義は他の経済システムよりも有効性の高いものでしょう。しかし「アメリカ型」は欠陥が多すぎます。何らかの『修正』を加えないと「平和のシステム」としては不適格です。戦勝大国をベースとした「国連」も「平和のシステム」としては機能不全にに陥っています。

 

 高度成長を知らない若い人たち。戦争を知らない、平和が当たり前としている若い人たち。彼ら以外に新しいシステムを創造できる人はいないのではないでしょうか。老いた今、彼らへの期待が唯一の光明です。

2021年7月12日月曜日

人類の強欲と蒙昧のあかし

  最近つくづく思うことは吉田茂のような老獪な政治家が欲しいなぁということです。吉田茂に限らない、野中広務時代までの政治家は保革を問わず「クレバー」であったと思います。老獪ということは、広角で長期的と言い直してもいいし清濁併せ呑むともいえるし、敵の敵は味方という狡猾さを胸底に潜めていた「嫌な奴」と言ってもいい。ようするに底が浅くない「食えない」存在であったのです。加えて「教養」もそれなりにあった人たちでした。森、麻生、安倍、菅の歴代の総理・総理経験者に教養のおもかげを求めても無理な相談と言えば彼らは怒るでしょうか。いや多分一顧だにしないでしょう、彼らはそこに一片の価値も認めていないでしょうから。

 言いたいことはこうです。もし菅総理をはじめオリ・パラ開催当事者が本気で「国民の命と健康」を守ろうと願っているのなら、少なくてもボランティアの方々がワクチンの2回接種が完了するまで開催を延期するのは当然ではないかということです。丸川五輪相が「1回の接種でまず一次的な免疫を…」などという非科学的な発言で接種の遅れを糊塗して見切り発車を正当化しようとしていますが感染防止効果は極めて疑問です。8万人を超えるボランティアが移動するのですから感染者が出るのは当然として開催に臨むべきで、デルタ株の感染力の強力化を考えればかなりの感染者の発生は覚悟しなければならないでしょう。そうなると選手、関係者、オリンピックファミリーそしてボランティア同士の感染も予想できるわけで、その結果五輪後の爆発的感染拡大――国内だけでなく世界的な拡大も覚悟しなければならない事態も予想できます。もしそんなことになれば開催責任が厳しく問われる可能性があります。菅総理はG7の支持でなにか「お墨付き」を得たような言葉振りですが感染爆発となればそんな言質はなんの責任回避にもつながりません。

 勿論これは最悪のシナリオですが可能性として十分考えておくべきでしょう。

 

 私が「老獪」というのはここなのです。選手も関係者もワクチン接種が完了していてPCRの検査体制も整っているとしてバブルから漏れる可能性が唯一予見できるのはボランティアです。そうなら感染爆発を防ぐためには「ボランティアの2回接種」が必須の条件になってきます。これはIOCもIPCも説得できるはずです。これを利用するのです。ボランティアへの接種状況がどうなっているのか詳細は知りませんが2回目の接種までの3週間と抗体発現の1週間~2週間を考慮すると8月下旬か9月初旬が開会式というスケジュールになります。勿論こんな事態に至ったワクチン接種の遅れというわが国の政治責任は厳しく問われるでしょうがそれは仕方ありません。それもこれも吞み込んでシレーっとIOC(IPC)に延期を申し入れるのです。もしIOCが「ノー」をいえば感染爆発の非難は彼らに集中することは明らかですから彼らが拒否することはないでしょう。菅総理お得意の「専門家の先生方のご意見」で延期の必要性を強化すればIOCの受諾はより容易になります。

 今の東京の感染状況だと事体はさらに悪化するかもしれません。そうなったらワクチン接種が人口の4割を超える10月中旬頃まで(11月末までに希望者全員に接種完了するという思惑は大幅にズレ込みそうですが)開催を延期することも可能になるかもしれません。そうなればベストな開催条件を整えることになります。

 コロナ禍という史上まれにみる悪条件下の五輪開催です。ギリギリの切羽詰まった今だからこそ「老獪」政治家のごり押しがきくのです。だから菅さん、「はら芸」を演じてほしいのです。(タイミングとしてはもう遅いのかもしれません。でも『今』ならギリギリのギリギリなのです)。

 

 こんな「はら芸」をだれも思いつかないのは現在の「オリンピックのあり方」について真正面から考えたことがないからです。二言目には「アスリート・ファースト」をいいながら2020東京五輪がそうなっていないことは皆わかっています。暑熱の日本の7月後半から9月初旬にかけてオリ・パラを開催すること自体無茶な話ですし競技時間が早朝だったり夜遅くに設定されることも選手を無視しています。一流選手が参加しない可能性がありますし日本に来ても練習が十分に行なえないからトップコンディションで競技に臨めないかもしれません。全競技の最後にマラソンのゴールが閉会式会場であることがどれほど観客に興奮を与えるかは誰にでも想像できることです。これらを皆無視してオリンピックを開催しなければならないのはオリンピックの「商業主義」のセイです。そしてその根元はアメリカのテレビ局事情にあることは周知の事実です。なぜこんな「傍若無人」の振る舞いが許されるのかといえば「IOCの金満体質」にあるのです。今のIOCはヨーロッパの一部エリートが権力を独占する体制になっていて彼らに巨額のリベートが入る組織になっています。そしてその最大の金主がアメリカのテレビ局なのです(数年前に組織改革されましたが金満体質はまったく改善されていません)。

 

 もしこれが中国であったりロシアであったら西側諸国のマスコミはその横暴を一斉に騒ぎ立てることでしょう。アメリカだからそれが許されるとしたらこんな理不尽なことはありません。もうそろそろこんな馬鹿げたオリンピックに見切りをつけるべきです。

 

 アスリートが最高の条件で、最高の競技ができる、オリンピックに参加することがアスリートの名誉であり、勝利することが世界最高であるような、そんな「アスリートファースト」なオリンピックに改革する。その第一歩が2020東京オリ・パラになったらこんな素晴らしいことはありません。

 これこそ『レガシー』なのではないでしょうか。

 

 

2021年7月5日月曜日

CMをどこまで信用するか

  最近大発見をしました。

 ご多分に漏れず「かすみ眼」がひどくなってきて朝は普通に読書できるのですが(勿論老眼鏡は掛けますが)夕方――3時ころからかすみ具合がひどくなってスムースに読めなくなるのです。ソロソロ「ルテイン配合のかすみ眼薬」を服まないといけないのかなぁと思案していました。そんなとき妻が「これ使わはります」と自分の予備の眼鏡を貸してくれたのです。掛けてみるとこれがスゴクいい、ぼやけが消えて濁音・半濁音まではっきりと見分けられるのです。「ええわ、これ貸してくれる」「度数が進んだんとちがいます」。

 考えてみると老眼鏡を誂えたのはもう20年も前です。以来同じ眼鏡を使い続けてきたのですから合わなくなって当然の理屈です、六十才から八十才になるのですから。早速眼鏡屋さんへ行って検眼してもらうと「お客様の眼は特殊ですから眼科へいってキチンと測定してもらってください」と。かかりつけの眼科で測ってもらうとこれがまた一面倒、特殊な乱視が混ざっているので検眼が難しくほとんど一時間近くかかってしまいました。眼鏡ができてきて、はめてみて、「眼が開ける」ような感じがしました。これであと五年は快適に読書できることでしょう。

 

 コロナになってテレビを見る時間が多くなって、昼間のBSなどにあふれる「健康薬品」「健康補助食品」のCMの多さにあきれます。眼とひざ・腰、認知症が三大CMでそれ以外にも老人病とよばれる症状別のCMが次からつぎへと画面をおおいます。価格設定が極めて巧妙ですから――たいがいのものが数千円、それを初回は5割引き、7割引きになっていますから、いやいやなかには初回「無料、しかも送料無料」のもあって年金生活者でも容易に手の出せる値段になっていてついつい電話してしまう構図になっており「これから30分はオペレーターを増やしてお待ちしております」という案内が後押しするものですからなんのためらいもなく電話してしまうのです。(初回だけのつもりが気がつくと定期購入の契約になっているとか、送料が何千円もとられるとか、不正契約も多いようですから用心が欠かせません)。

 

 しかし落ち着いて考えてみれば、ブルーベリー由来の健康補助食品でかすみ眼がなおるのであれば眼科医へいって専門薬を処方してもらう方がより確実なのではないでしょうか。ひざや腰の関節痛がのみ薬で改善されるのなら整形外科はいらなくなります。やっと治療薬開発の緒について希望がほの見えてきた認知症が「いちょうの葉っぱ」でなおるものなのでしょうか?

 政府はここ二十年ほどの間に医薬品以外に数々のプロテインや疑似医薬品を承認してきました。健康補助食品も支援してさも薬効があるかのような「よそおい」を認可しています。一方で高齢者の医療費負担を優遇して後期高齢者の1割負担が社会保障費の重荷になって財政逼迫の一因になっています。

 高齢者の医療費は1割負担で月平均6千円足らず(医療費は約7万円)という恩恵を受けているのに健康食品等に5千円近い出費をしています。国内の健康食品市場は9千億円に届こうかという勢いで機能性表示食品だけでも2千億円を超える売り上げをほこっています。はっきりいって「効くかどうかもあやしい」ものに3千円も4千円も平気につかっておきながら医療費負担が500円増加しようものなら目に角立てて不平を言い募るという現状はどう考えてもおかしいのではないでしょうか。

 老人といえどももうすこし「科学的」な思考をする工夫が要るのではないでしょうか。

 

 早朝に散歩していて思うのですが、行き交う人(他人)がほとんどなく、たとえ出会っても無言で会釈するだけの時間帯にどうしてマスクする必要があるのでしょうか。コロナの前は30度を超える夏日になればしっかりエアコンをつけましょうと厚労省は薦めていましたがコロナになると「換気が重要」だから窓を開けてエアコンを活用するよう警告しています。しかし暑さを感じる程度は気温だけでなく湿度と風通しに影響を受けますから湿度が60%以下ならたとえ室温が30度でもたまらないほどの暑さは感じないものです。逆に28度でも湿度が70%なら我慢できない蒸し暑さになります。テレビの天気予報は東京中心だったりキー局の都合をいいますから、地元の気象情報とかけ離れた警報や警告を伝えます。自分の感覚で、湿度計などの工夫もして自分なりの生活管理をするような賢さが求められているのです。

 

 しかしこれはなにも年寄りだけの問題でなく最高権力者をはじめとして政策担当者にも必要な素養です。ワクチン接種者1日100万人、という大号令をかけた菅総理大臣ですかが100万人達成の僅か十日足らずで「ワクチン供給不足」を宣告しなければならないのですから一体この国の政策は「科学的エビデンス」というものをどの程度採用、信頼して策定されているのでしょうか。ワクチンは外国頼りで無尽蔵にいつでも供給できるものではありませんから、供給スケジュールがキチンとあるはずです。いくら総理大臣が号令しようともスケジュールをオーバーするようなことがあれば接種体制に破綻を来すであろうことは素人でも予想できます。地方の行政にまかせていたのでは100万人どころか7月末の高齢者接種完了もおぼつかないと見てとった総理が、政治のいうことなら無理でも聞いてくれる財界――大企業(そりゃ賃上げさえも政府の言いなりなのですから)と文科省の支配下にある大学に接種促進をお願いしたところ、予想外の参加があってあっという間にパンクしてしまう体たらくを表わしたのです。この状況を想定外とする総理の取り巻きは相当能力に疑問のつく人材だと言われても反論の余地はないでしょう。

 

 コロナ禍とオリンピックで明らかになったことは、わが国はいまでも根性論の「精神主義」の国だということです。