2022年5月16日月曜日

子育てのバイブル

  娘が1ヶ月検診に出かけました。約半日われわれ夫婦があずかることになります。「ちょっと見ててくれはりますか」と洗濯ものを乾そうとした妻がソファに座った私のヒザに孫を預けました。首の下に手を回して据わりを確かめあかちゃんを受け取りました。「無心」ということばそのままの黒目勝ちの眼がみつめています。なんとかわいいのでしょうか。黙ってただ見つめる、ただそれだけ。「無為」といってこれほど無為はありません、何するでもなくそっと両手でからだを支えて見ているだけ。ときどき消えているテレビの真っ黒の画面を見つめます。画面に映った白い自分と画面の黒が分かっているのでしょうか。至福の三十分でした。

  はじめて母親が自分の傍から消えるのですから不安を感じるにちがいありません。泣き止まずに手を焼かすのではないか、不慣れな紙おむつを変える時にむずからないだろうか。ミルクは充分にのんでくれるだろうか。そんなこっちの不安を気づかってくれたのか普段母親が世話している時よりもスムースに孫の世話を終えてほっとして娘夫婦にバトンタッチ。ところが娘が抱いたとたんにあかちゃんは猛烈に泣き出したのです。生まれたはじめての「大叫喚」。体を震わせのどが潰れるのではないかとおそれるほどの爆発的な泣き喚きは沐浴の間も授乳中も絶えることなく二時間近くつづきました。

 これはどうしたことでしょうか。

 あかちゃんはまだ誕生から1ヶ月ですから完全に「母体との同一性と均衡」の状態にあります。胎内で十ヶ月、生まれてからも三時間に一回の授乳、おしっことウンチの不快感からの解放などすべての「欲求」は母親が満たしてくれますから胎内でいるのと変わらない同一性と均衡が母親の体熱の伝わり方や臭い、触覚を通じて保たれています。

 それが突然前触れもなく「同一性と均衡」が消失したのです。本能的に「警戒心」を抱いたにちがいありません。大声で泣いて攻撃を受ける危険性、泣き喚いて授乳や排泄の世話をしてくれなくなることも本能的におそれるはずです。すべて「本能」で警戒心を貫いたのです。「あかちゃんは分かったはるんやね、おばあちゃん下手やから手ェ焼かしたらアカンて」と妻は言っていますがそれはない、本能的警戒心がそれをやらせたのです。

 母親が帰ってきて、気配と声と触覚などを総動員して母親を感じ取ったあかちゃんは警戒心から解放されて一挙に「不安」を訴えたのです。最大限の表現で「同一性と均衡」を消失した不安を伝えようとしたのです。もう二度と「放置」されないように、母親が「おそれ」を抱くくらいに極限の大音量と動きで訴え続けたのです。二時間もそれをつづければあかちゃんもシンドイはずですがそれでも「身の危険」にかかわることですから必死の訴えを決行したのでしょう。

 

 孫を一ヶ月観察していてヒシヒシと感じたのはこの「母体との同一性と均衡」でした。母親と他のもの――おばあちゃんも父親も、勿論おじいもはっきりと分別しています。母親には甘えるし怒り(?)もぶつけますが他のものには「直接的」な訴えはしないように感じます。「泣く」ことが最大の訴え手段であるあかちゃんの鳴き声は多様です。本能的な欲求を訴える時とほったらかしにされている不満を伝える時は鳴き声はまったくちがいますし、一ヶ月にもなると「ひとりごと」をしゃべるときもあるのに気づきました。

 いづれにしてもあかちゃんにとって一番大切なことは「母体との同一性と均衡」です。今どきの育児法では窒息をおそれて「添い寝」を禁止しているようですが、寝つきの悪いときの入眠導入には有効だと思うのですが娘はガンとして受けいれようとはしません。

 

 川上未映子さんが『きみは赤ちゃん(文春文庫)』というエッセー集を出しています。妊娠・出産・子育ての体験を関西弁のオカシさを巧みに活かした文体でつづられたこの本はどんな高級な育児書よりも赤ちゃんをもったお母さんに寄り添った「子育て応援歌」になっています。一番驚いたのはおかあさんがこんなに「泣いている」ことです。根本原因は「不眠」です。三時間ごとの授乳、おしっことウンチの清拭それに沐浴、これを昼夜を問わず行なうのですからよくて二時間、普通は一時間か半時間ほどの断続的睡眠ですから「熟睡」は不可能です。人間の三大欲望――食欲、性欲、睡眠欲のうち睡眠がもっとも根源的な欲望だと川上さんは述懐しています。ストレスが極限まで嵩じて、感情のバランスが崩れ、孤独、無理解、夫との隔絶感、劣等感、このどれもがささくれだった神経に突き刺さって感情を破壊して「泣く」のです。娘も妻の前で泣いたことがあり驚かされたと言っていました。

 全ページが男性にとっては未知の領域ですからすべてを写したいのですがそうもいきませんから次の一節を読んでいただきましょう。

 産後クライシス(略)出産をした女性が、激変してしまった生活に感じる現実的なしんどさにくわえて、ホルモンのバランスの崩れによる根元的&精神的な大不安、簡単にいうと全方位的に「まじ限界」という状況におかれることであって、なーんにもなくても涙がでて止まらないし、不安で体が震えるし、もうこのさきなにをどうやってのりこえていけばいいのかがわからなくなってほとんどパニックになってしまうような状態がつづくさまをいうのだけれど……。(略)それにくらべて、父親はどうよ。/ちょっと手伝っただけで「イクメン」とかいわれてさあ、男が「イクメン」やったら女の場合はなんて呼べばいいんですか、そんな言葉ないっちゅうねん。(略)そう。ないのよ。母親が感じるこの手の「申し訳ない感」を、おそらく父親のほとんどがもたないのではなかろうか。(略)知らないあいだにわたしのなかにあった、その「赤ちゃんはわたしの身体の延長なの」的感覚を、意識して排除することにした。わたしだって、あべちゃん(川上さんの夫さん)とおなじように、する。「ごめんね」も「すみません」も、金輪際、口にしないし、ぜったいに思わない。だってオニ(赤ちゃんの愛称)はふたりの赤ちゃんなのだから。そう決めて、実行するようにしたら、いろんなことがずいぶんらくになったように思う。/なにかが苦しかったり、悲しかったり不安だったりするとき。(「父とはなにか、男とはなにか」から)

 

 子育てとは母と父と赤ちゃんがともに成長しながらやっていくもの。それを実感させてくれる『きみは赤ちゃん』は子育てのバイブルとして読んで欲しい、世のお母さんお父さんたちに。

 

 

2022年5月9日月曜日

子育てと京都弁

  八十才にして初孫を授かりました。男児でした。まことに稀有なこと祝ぎであります。妻も二年もすれば傘寿ですから赤子の成長についていけるかどうか共ども心もとない限りです。冗談半分で「めざすはセンテナリアン(百歳超の長寿者)」とよばわっていましたがこうなると戯れ言で済まなくなってきました。今の健康状態をできる限り維持しつづけるよう努めねばなりません。自信などまるでありませんが赤ちゃんの可愛らしさを励みに懸命努力いたしましょう。

 

 それにしても、孫は可愛いと目尻を下げて垂涎していた同輩を冷視していましたが今にして心から彼らに詫びねばなりません。どうしてこんなに可愛いのか、愛しいのか、これは予想もしていなかった事態です。スヤスヤと眠る顔を見つめていると胸の底から柔らかな痛みをともなった愛しさがこみ上げてくるのです。このような感覚はこれまで経験したことがありません。娘たちの幼いころのいとしさともことなる「やさしみ」です。どう受けいれていいのか途惑いを覚えます。不思議な感覚ですがしあわせです。娘に感謝です。

 

 産後の休養と養育の馴致を兼ねて里帰りしている娘の子育てを見ていて、こんな大変な作業だったのかと驚かされています。娘たちの子育ては全部妻任せだったのでほとんど記憶にないということはこのすべてをひとりで文句も言わず対処してくれていたわけで、わが妻の「凄さ」を思い知らされます。寝不足のつづく疲れも限界の妻に老いを見るのですが、すっかり白髪になったうたた寝の横顔に「えらいやっちゃなぁ」と感じ入るばかりです。

 ふたりが忙しく立ち働いているすき間が「おじいの見守り」時間になるのですが、ヒクッと身を震わせるときがあるのに気づきました、多分夢を見ているのでしょう。半時間ほど眠ると「薄目」を明けて見守りを確認するように見えます。野生の名残りでしょうか、生き物でいちばん無防備でか弱い存在の人間の赤ちゃんは絶えず他の獣の脅威にさらされていましたから親の絶対的な庇護が必要なのです。

 まだ誕生から三週間足らずですから三時間に一回授乳が必要で、その間おしっこもウンチもして、その都度泣くのが赤ちゃんです.。娘はほとんど睡眠がとれないわけで本当に赤ちゃんの世話というものは大変なものだと思います。

 

 子育てもロクにできないとか、ひとりで子育てもできないクセにとかいうのは完全な『無知の言』です。この何年か人類学(や民俗学)の書物に接して子育てについて学ぶこともあって、その方面から得た「子育ての要諦」は次の二つです。

(1)人間の赤ちゃんは『強制早産』ということ

(2)子育ては集団(部族)でおこなうこと

 まずニューギニアだかアマゾン奥地の原住民の妊婦と子育てについての報告によれば、女性は産後スグに仕事につくというのです。狩猟採集の発達段階にある彼らは、遠出して二泊なり三泊する遠方の狩猟は男たち、日帰りの近くでの採集は女性の役割という分担があって女性も貴重な労働力なのです。したがって産前産後の休暇期間は極めて短期で、産後の休養も一日二日で切り上げて採集という仕事で食糧確保する務めに復帰しなければならないのです。では子育ては誰がするかというと「おばあ」たちが集団で担当するシステムになっています。もちろんベテランですから手抜かりはなく次の労働力の育成に尽力することで部族での存在価値を示して狩猟採集能力の劣化を補うというシステムなのです。授乳はどうするのか、そこについて記憶はないのですが女たちが時間差で帰って来るとか、おばあの中に若いおばあがいて彼女が担当するかしたのでしょう。

 これは民俗学的なひとつの例証ですが、わが国の歴史を遡ってみても子育てを産婦ひとりで行なうのを当然としたのは戦後の一時期にすぎません。高度成長期で、画一化された労働を長時間、永年、男性が担うことが求められた時代で、それ以外の時期は三世代同居などの条件もあって子育ては協働で行なわれました。共働きが一般化して、男女共同参画が求められる現在、子育ては夫婦、祖父母、社会の共同で行われる「本来」のあり方に戻って当然でしょう。

 

 「強制早産」というのはこういうことです。人類が二足歩行になって、立って歩行をスムースに行なうためにはガニ股を直行に変更する必要がありました。結果骨盤が小さくなり産道が狭くなります。本来12ヶ月か14ヶ月必要だった胎内での生育期間を短縮して、頭蓋の発達を抑え体躯が成長し切る前に産道を通過させることで出産を容易にする必要があったのです。早産ですから肉体も内臓も運動機能も未成熟です。授乳さえ満足にできません、ムセたり吐いたりしますしシャックリも出ます。ウンコも下手ですから便秘にもなります。目も30センチほどまでが白黒でぼんやり見えるだけです。聴覚は胎内にいるときから発達していますから「おしゃべり」が一番のあかちゃんとの伝達手段です、何でもいいから話しかけてあげましょう。あかちゃんは原始時代と同じですから困ったときは高級な育児書ばかりでなくニューギニアの奥地のお母さんならどんなにするかを考えるのもいいかもしれません。

 とにかくおかあさんもあかちゃんも一緒に成長していくのが子育ての基本です。

 

 「お乳飲んでくれやらへん」「ちっとも寝やはらへん」「やっとウンチしてくれはった」。娘の京都弁が実に心地よいのです。あかちゃんと自分の関係にちょっと「あいだ(間)」置いた話し方、これが子育てに適しているように思うのです。とにかく最近の親は、子供を自分の「所有物」か「愛玩物」かのように『支配』している傾向を強く感じています。他人が自分の子供を叱ったり注意したりすると血相変えて食ってかかる親が多いのもそうした『支配』権を侵されていると感じるからでしょう。

 

 八十才の初孫。「うれしさも中くらいなりおらが孫」を心がけてまいるつもりです。

 

 

 

 

2022年5月2日月曜日

フランスにできてなぜ日本でできない

  最近ツクズク思うのですが、マスコミが劣化したなぁ……、ほとんど役所や企業のプレスリリース(メディア向け資料)の垂れ流しではないかと。たとえば昨年の人口が64万人減少したという報道がそうです。15日総務省が発表した2021年10月1日現在の人口推計によると、総人口は64万4000人少ない1億2550万2000人で減少は11年連続、減少率0.51%は統計を取り始めた1950年以来最大となった、と報じています。以下労働の担い手となる「生産年齢人口」の減少、少子高齢化に歯止めがかからないなどとつづき、コロナの入国制限による外国人の流入が減った(2万8000人の純減)のも一因である、と結んでいます(日本経済新聞からの引用)。これは総務省のプレスリリースそのままか要領よくまとめただけのものでしょう。

 しかし一般市民はコロナで外出機会が減って出会いが急減したこと、濃厚接触を怖れてセックスを控えたことなどが大きく影響したのではないかと考えるのではないでしょうか。記者自身も多分そんな考えも少なからずあったはずですがプレスリリースにはそんな記載はなかった、記者会見でそんな疑問を役人にぶつける記者もいなかった、のでしょうか。

 

 毎日更新されるコロナの数字で際立っているのはアメリカの死者数です。100万人という死者数はウクライナ戦争の死者の何倍いや何十倍にもあたるのですからとんでもない数字です。人口比でみても0.3%に達していて先進国のうちで突出しています。アメリカに次いで多いのはイギリスの17万人、フランスて14万人ドイツ13万人ですからアメリカの異常さが際立っています。ちなみにわが国は2万9千人です。アメリカの事情はいろいろあるでしょうが健康保険がわが国のように国民皆保険でないから貧しい人は十分な医療が受けられないのも一因でしょうし格差が途方もなく大きいことも影響しているはずです。見方によれば「見捨てられた」人たちが多くいることになります。アメリカという国はヒドイ国なんだなあ、と毎日のように思っているのですがそんな論調の記事はどこにもありません。

 

 同じ人口に関する総務省の統計に「わが国における総人口の長期的推移」があります。これによると総人口が2050年には9千5百万人に2100年には6千4百万人になると推計されていて、これにもとづいて日本経済が衰退の一途をたどるという悲観的な識者の意見を掲載した新聞、雑誌そしてテレビのニュースショーも度々放送されてきました。しかし本当にそうなのでしょうか。

 2021年の人口をみるとドイツは8千4百万人、イギリスは6千8百万人、フランスは6千5百万人です。それでいてGDPはそれぞれ42億25百万ドル(1人当GDP5万8百ドル)、31億87百万ドル(4万72百ドル)、29億35百万ドル(4万48百ドル)になっています。わが国は49億37百万ドル(3万93百ドル)です。明らかにわが国の生産性が劣っているのです。イギリスもフランスもドイツもおおむね資本主義と民主主義の国ですから制度的にわが国と異なっているわけではありません。そうでありながらこんなに差があるのはわが国の経済・政治・社会システムが彼の国々より劣っているからと言わざるをえません。それが結果的に『失われた30年』となって今日があるのです。この問題点を点検して英米独仏並みに改良を加えれば人口が9千万人になろうと6千万人になろうとそれらの国と同じ程度の生産と所得を上げることができるはずです。国土の広さもドイツはほとんど同じですしイギリスは約6割、フランスは1.5倍ですから条件的に3国とそんなに差はないのです。問題は「システム」です。

 これについては4月18日のコラムで「各分野で競争がない」のが原因だと述べました。たとえば労働組合が強くなりすぎると企業の自由な活動の阻害要因になるとされてその弱体化が政治もからんで推し進められてきました。そして労働組合の組織率は10%台にまで低下し今や組合員数は1千万人に過ぎません。その結果給料が30年間ほとんど横ばいでGDPの大きな要素である「消費=購買力」が伸びず成長低下の原因になっているのです。ちなみに「賃金の決定要因」のうちで「労働組合と使用者の団体交渉」の影響が大きいと考えている割合は日本20%なのに対してフランス42%、デンマーク51%、アメリカでさえ29%――そして驚くべきことに中国が47%を占めているのですから日本の「労使関係」における競争力劣化は明らかです(リクルートワークス研究所資料より)。

 女性の能力が十分に活用されていないのもわが国の成長力を低下させている大きな原因でしょう。有名な「ジェンダーギャップ指数2021(世界経済フォーラム)」によればわが国は156ヶ国中〈0.656/120位〉で、〈ドイツ0.796/11位〉〈フランス0.784/16位〉〈イギリス0.775/23位〉に比べてまことにお粗末な限りです。

 企業税制の優遇策による「内部留保」の大幅増とゼロ金利による銀行と企業の競争関係弱体化も企業活動を低下させていることはまちがいありません。バブル崩壊前なら年間8%以上の利益を上げなければ銀行への返済が滞おりますから企業も必死に成長を図ったでしょう。しかし現在は〈1%~2%〉に過ぎませんから企業の緊張感が低下し成長力を引き下げてしまったのです。

 経済成長の根本は企業の「創造力ある活力」にあります。現在は「経営者資本主義」です。その経営者が政治に甘やかされ、労働者や女性、銀行の圧力から解放された「ぬるま湯」的環境にあったのでは経営責任に真正面から向き合う緊張感を喪失するのも当然の帰結です。

 

 わが国は戦後驚異の高度成長を遂げました。その「成功体験」から抜け出せずに「失われた30年」を過ごしてしまいました。「男女共同参画」であったり「男性の育休取得促進」であったり「政治分野における女性参画の拡大」など制度は取り繕われてきましたが実現は遅々として進んでいません。もしこのままの状態がつづくのであれば2050年2100年に『日本沈没』の可能性はゼロとは言えないでしょう。

 

 岸田さんのいう「新しい資本主義」がどんなものになるのか。

 フランスが、ドイツが、イギリスができていることが日本でできないはずがない、「日本をぶっ潰す!!」そんな気概で舵取りをして欲しい。切実なる願いです。

 

 

 

2022年4月25日月曜日

ちむどんどん

  NHKの朝ドラ「ちむどんどん」がはじまりました。沖縄料理に夢を賭ける女性を主人公にしたドラマで題名になっている沖縄方言の「ちむどんどん」は「胸がわくわくする気持ち」を表している言葉だそうです。

 第4回に比嘉家で飼われていた豚のアババが食事に供される場面があり心打たれました。自分たちが愛情込めて飼育していたアババが知らないうちに「つぶされて(殺されて)」いたことにショックを受ける主人公たちに幼いころの自分が重なったのです。終戦直後は厳しい食糧不足でしたからタンパク質不足を補うために多くの家庭で家畜を飼っていました。我が家にはブルマウス種の鶏と兎がいました。鶏は産卵主体の白色レグホーンが主流で肉鶏のブルマウスは町内ではうちだけだったように思います。レグホーンが全身白色でスマートなのに比べてブルマウスは黒灰色に白い斑点のある羽色とムックリと寸詰まりの体形に愛嬌があって可愛くて仕方ありませんでした。ある晩の食卓に鳥料理がのりました。にく料理は珍しかったので喜んで食べましたが肉はちょっと硬かったのであまりおいしくなかったのを覚えています。翌朝鶏小屋へ行くとブルマウスがいません。どうなったのか大人たちに聞いてもはっきりしません。時間が迫っていたのでソコソコにして学校へ行きましたが鶏のことが気にかかって満足に先生の話は耳に届きませんでした。走って帰って庭中を探し回りましたが見つかりません。どこいったんやと泣いているとイナダのおばちゃんが来て「あんたに滋養つけさそうと思うておとうちゃんが昨日つぶさはったんよ」と教えてくれたのです。病弱でガリガリに痩せていた私は食糧事情の悪い中でもできる限りいいものを与えられていましたが肉だけはめったに手に入れることができなかったのです。事情が分かっても納得がいかず父を恨みました。肉が硬かったことが妙に心を刺しました。

 ウサギにはこんな思い出があります。ウサギは出産のとき暗闇にしてやらねばなりません。親兎が安心して出産するために他の獣の目を避けるためです。おとなたちにそう教えられていたのですがどうしても赤ちゃん兎が見たくて被ってあった布カバーを持ち上げて中を覗き込んでしまったのです。すると親兎があかちゃん兎をガブリと噛んで殺したのです。一瞬のことでした。あまりのことに度肝を抜かれた私は大声をあげて泣き喚きました。このショックはその後もしばらく消えず私を苦しめました。

 食物に関してはこんな思い出もあります。戦争中はどこの家でも庭や空き地で野菜を植えて僅かな収穫で飢えをしのいでいました。我が家は鉄工所でしたのでやや広い空き地があって芋を栽培しました。ところが鉄の削り屑や錆び粉が混じっているので地味が痩せていて生育が悪く「水いも」しかできないのです。食糧難でしたから勿論食べましたがやせて水っぽいお芋さんはとてもまずいものでした。今のホクホクした甘味たっぷりのとはまったく別のものです。今でも私が芋嫌いなのはその思い出を引きずっているからです。

 

 小学校4、5年ころ――1950年代はじめ我が家に「電気洗濯機」がきました。東芝の攪拌式で手回しの絞り機付きでした。新しもの好きの父が母のために買ってあげたのです。祖父と父と職人さんの内3、4人が住み込みでいましたから家族分も合わせると洗濯物は相当量あり洗濯板でゴシゴシやっている母を可哀そうに思ったのでしょう。もちろん地域で初めてでしたから近所の方たちが見学に来てしばらくは母も誇らしかったにちがいありません。ところがこれが嫁姑の諍いのもとになるのです。発売したばかりの商品で相当高額だったのでしょう、会社の経理をやっていた叔母から購入価格が祖母の耳に入りあまりの高価さに「贅沢過ぎる」と父を叱っただけでは収まらず母に嫌味タラタラで八つ当たりしたのです。母も「私はねだっていません」と意地を張ったものですから我が家はしばらく険悪な空気の日がつづきました。

 趣味人で道具に凝る方だった父は戦前から写真道楽で暗室までもっていましたし大型の舶来の電蓄を備えてクラシックのアルバム――CDどころかLPレコードもない時代ですから30分40分の交響曲は4枚組のアルバムになるのです――で洋楽を楽しんでいました。この電蓄は終戦直後から始まった町内会の盆踊りで大音量を響かせ活躍したものです。

 

 鉄工所の戦後すぐのヒット商品は「ナンバ粉のパン焼き器」です。米も小麦粉もないころでしたがナンバ――南蛮黍粉は割りと手易く手に入りダンゴなどにして食用にしていましたがパサパサしてあまりおいしいものではありませんでした。そこでパンにして食べるとこれがソコソコいけると分かってアルミ製のパン焼き器を考案したのです。アルミ鍋の真ん中に口広の徳利状の水入れがあってここから水蒸気を吐き出してパン状にするものですがこれが売れたのです。電熱器も売れました。粗いセラミックの発電盤にニクロム線を巻いて発電する原始的なものでしたが機能的には十分でした。

 

 昭和25、6年ころから本業の「力織機」に経営資源を注力して西陣織の復興発展に少なからぬ貢献をしました。歯車を「鉄製」にしたこと、ジャガード(紋様をパンチカードで自動入力する機械)を織機に組み合わせた斬新性が日本初ということで「市村式力織機」は一世を風靡するのです。お陰で家業は隆盛を極め力織機では日本で三本の指に入るほどの成長を遂げたのです。

 ところが1971年「日米繊維問題の政府間協定の了解覚書」が仮調印されます。これは「貿易摩擦」――高度成長を遂げた日本経済が脅威となってアメリカ経済を圧迫するようになります――の繊維産業に関する解決案となる覚書です。最初にやり玉にあがった摩擦が繊維製品で、もめにもめた末にわが国の「自主規制」という形で決着を見たのです。その際規制によって生ずる余剰生産力分の繊維機械(織機など)を「買い上げる」ことになり、それに相当する約2千億円分の機械が「打ち壊し」されることになるのです。

 競争力の衰えたアメリカの繊維産業を護るために何故日本の繊維機械が破壊されなければならないのか。テレビに映し出される破壊の様子は無残そのものでした。

 

 今ウクライナの人たちは「プーチンの殺戮と破壊の暴虐」を受けています。まったく『理不尽』です。しかし国家というものは時に理不尽な『暴力』を振るう存在であることを知るべきで、それは『外』だけでなく『内』に向かうこともあるのです。中国の民族弾圧は内に向いたものですし、日米繊維交渉の「繊維機械打ち壊し」も形を変えた国家による『暴力』以外の何物でもありません。

 

 『ちむどんどん』は今後どんな展開をするのでしょうか。「本土復帰50年」は今でも「ちむどんどん」なのでしょうか。

2022年4月18日月曜日

成長しないのは競争がないからです

  グローバル競争に勝つため「競争」を盛んにする――小泉さんと安倍さんが新自由主義を導入したときの謳い文句です。新自由主義の根本理念を『競争』と考えて現在の日本を検証してみようと思います。

 

 まず政治ですがこれはまったくの「無競争」です。安倍一強といわれたように2009年から2012年の民主党政権を除いて自民党の一党独裁がつづいています。二大政党制を前提に小選挙区比例代表並立制が1996年以降わが国の選挙制度となっていますがこれは今や時代遅れになっています。冷戦期のように、あるいはそれ以前の権力と反権力が際立って権力闘争した時代なら有効な制度だったでしょうが、冷戦後の21世紀は価値観が多様化して二大政党ではそれをくみ上げることが不可能になって政治状況は混乱しています。長らくこの制度で安定した統治を維持してきた英国や米国でも破綻に瀕しているのですから早急に制度改革する必要があります。そして立憲民主党はリベラル――反権力の批判政党としての旗色を鮮明にして「3割政党」に徹すれば党勢回復できるでしょうが今のままなら野党多党化の潮流に埋没してしまうにちがいありません。なぜならいつの時代にも3割の批判勢力は存在するもので、しかしその勢力は3割以上になることはほとんど望み薄です。しかしその3割を固めれば政権奪取も不可能ではありません。なぜなら自民党だって国民の「25%」の支持しか得ていないのですから。

 政治の無競争は政権党依存を常態化し保守化(既得権の固定化)しますから成長にいい影響があるとはいえません。

 

 次に企業ですが、まず「労使関係」から見れば明らかに「無競争」です。現在の資本主義は「経営者資本主義」です。資本から経営を全権委託された経営者が統治しています。1950年前後には60%近い組織率のあった労働組合は今や17%弱にまで組織率を落としています(組合員数は1千万人に過ぎません)。20世紀までは「労使の緊張関係」が保持されていましたから「春闘」も機能し経営者と労働者(組合)は競争関係にありました。しかし21世紀に入ってから労働は弱体化、経営者の独走がつづいています。今経営者は「もの言う株主」に向き合って経営しています。労働者に向き合っている時は雇用の長期安定が求められましたから「長期投資」へ向かざるを得ませんでした。短期収益を求めるもの言う株主志向のもとでは投資も短期志向になりやすく「成長」には決して良い影響は与えないと言えます。

 その投資資金ですが、優良な大企業は無借金経営が普通になって自己資金で投資を賄うことが多くなってきました。これは経済のグローバル化に備え「国際競争力」を高めるという名目のもと実施された「法人税減税」と「労働分配率の低下」のお陰で「内部留保」が大幅に増加した結果です。法人税率は1980年代中ごろの43.3%を頂点に現在は23.3%と約半減しました。もし政府の目論見通り投資と賃金アップによって競争力が向上していたら企業の収益は向上し国の成長力も増しているはずですがそうはなっていません。株主還元と内部留保拡大に留まっている結果から見れば「競争力」は向上しなかったことになります。

 さらに投資に関していえば銀行借入が減少したことと借入金利が極端に低下したことで銀行との「緊張関係」が緩んで「競争」状況が低下しました。銀行の審査をクリアするためには市場の長期的見通しと借入利率に見合う確かな投資収益力で合意することが必要でした。貸出金利の基準(日銀長・短期プライムレート)は1990年8.25%から2021年1.475%まで低下しています。企業貸出金利はこれに各銀行の営業利率が加えられますからこれより何パーセントか高くなるのですがそれにしてもこの7%近い金利の低下はそれだけ成長率が低下したとみても間違っていないでしょう。当然のことながら企業の銀行に対する緊張感――利率に見合う投資収益の獲得という責任感――も低下しているわけで企業と銀行の「競争」関係は著しい劣化を来していると言えます。

 銀行の競争力はゼロ金利によって劣化したことは明らかです。これには多言を要さないでしょう。しかし金融は経済社会の血液です。金融の「不活性化」は日本経済に多大な悪影響を与えているにちがいなくある意味で「ゼロ金利政策」が「ゼロ成長」の最大の元凶といえるかもしれません。

 

 労働者――社員の競争状況は高まったでしょうか。非正規雇用率は1995年20%強から2020年40%弱と倍増しました。派遣やパートの非正規にまかされる仕事は定型の繰り返し仕事だと仮定すると「競争的仕事」が約2割減ったとみるができます。成果主義などの業績反映制度を採用した企業が多いといわれていますが果たしてそれが競争力アップにつながっているかについては懐疑的な見方をする人も少なくないのが実情です。問題なのはたとえばバス会社が本業の運転業務に、郵政が本業の配達業務をアルバイト化するなど本業の非正規化が目立つことです。一つの見方として本業の繰り返し・定型業務の中に成長の芽がひそんでいることもあると考えると「競争的業務」の範囲の狭まりは結果的に社員の競争力劣化を招いている可能性も考えられます。

 官僚も同じ労働者ですがこの分野は「内閣人事局」の設置で明らかに「劣化」しました。官僚同士の切磋琢磨があって競争が激しかった上級官僚が政権の顔色を窺うようになって政権幹部の意向に沿った政策に偏る傾向がみられ官僚の政策立案能力は劣化したとみることができますから、官僚の競争力は相当弱まったといえるでしょう。コロナ行政で後追いが多かったのはその証明のひとつです。

 

 子どもの学力はどうでしょうか。高校進学率は2010年には95%を超え大学進学率も1960年代の10%未満から2010年には50%を超え今後は生徒数の減少もあって全入時代になる見通しです。大学入試制度が2022年センター試験から共通テストに変更されましたが「偏差値」重視に変りありません。共通テストで高得点を獲得するためには「入試専門技術」を獲得することが必要でそのためには小学校から塾・予備校や家庭教師の訓練を受けることが必須になっています。これには高額の教育資金が必要で結局子どもの学力(大学入試に必要な)は親の「経済力」に左右されることになります。明らかに自由な競争から遠ざかっています。進学コースが単線型であることも考えると子どもの学力は危険な状況に陥っています。

 学問の自由はどうでしょうか。一昨年学術会議会員任命に総理大臣が拒否権を用いたように学問の自由は行政にいちじるしく侵犯されています。国立大学の運営費交付金の減額や競争的研究費配分問題など文科省など行政の関与は増すばかりで学問の自由度は年々低下の一方です。日本の教育への公的支出はOECD34ヶ国中最低ですし日本の教育力劣化は悲劇的状況にあります。

 

 「都市と地方」も健全な競争があってこそ均衡ある国家の発展があるのですが地方は疲弊する一方で「地方創生」という政治の掛け声は虚しく響くばかりです。

 

 最後に国の統治システムについて考えてみますと「三権分立」のうち『行政の暴走』が顕著です。三権のバランスが崩れると統治の安定性が損なわれますから今の均衡を欠いた状態は非常に危険な状況と言わざるをえません。

 

 「新自由主義」が標榜する「競争による成長力の向上」という理念がこの30年にどれほど実現されたかについてざっと点検してみましたが、明らかにバブル以前より「競争力」は劣化しています。 

 「失われた30年」。わが国から競争が無くなった――これが成長できなくなった原因です。

 

 

 

 

 

 

2022年4月11日月曜日

日本型は間違っていたのか

  日本人はどうして自国のことを冷静に判断しないのか、最近つくづくそう思うのです。「自主憲法」を制定しようとか独立国にふさわしい軍備を装備しようとか、勇ましいことを強面で発言するひとが、アメリカの軍事基地(専用)が国土に十箇所以上もあることに屈辱を感じないし、盛んに批判されてきた「日米地位協定」の不平等に関しても正面切ってアメリカに文句も言えないのはどうしたことでしょうか。大体首都の上空を自国の航空機が自由に飛ぶことさえできないでいることにどうして我慢できるのでしょうか。

 

 なぜこうも自信がないのかといえば、わが国の実力を冷静に判断していないからです。ひとつ例をあげれば人口1億人以上の大国で1人当りGDPが2万ドル以上の国(富裕国の基準)はアメリカと日本だけだということさえ自覚できていなのです。現在(2020年)世界には人口1億人以上の国が14ヶ国(約9800万人のベトナムを加えれば15ヶ国)ありますが2万ドル以上の国は日米2ケ国だけです(アメリカ6万3358ドル人口3億3千万人、日本4万89ドル人人口1億2600万人)。3位が中国(人口1位約14億4000万人)の1万511ドル、4位がロシア(9位約1億6000万人)の1万115ドルですからいかにわが国がスゴイかが分かるでしょう。人口の多い順に富裕国をみていくとドイツ4万6216ドル(人口約8400万人)、イギリス4万394ドル(約6500万人)、フランス4万299ドル(約6500万人)、カナダ4万3295ドル(約3800万人)、韓国3万1638ドル(約5100万人)になっています。

 人口が多くなればなるほど統治システムがすぐれていて経済的活力が旺盛でないと国民を豊かにすることは困難になりますからアアメリカがズバ抜けていることに納得がいきますが、壊滅的な戦争からわずか70年でここまで豊かになったわが国も優秀であることに疑いをはさむ余地はありません。ドイツがわが国の約3分の2くらいの人口でほぼ同じ豊かさですから甲乙つけがたい、イギリスは人口が約半分で統治が容易ですからわが国は頑張っていると誇っていいのではないでしょうか、なにしろ相手は資本主義発祥の国なのですから。

 要するにG7といわれる先進国クラブのなかでもわが国は抜きんでて優秀な国と威張ってもいい国だということなのです。

 

 14億人の中国、13億8千万人で2020年代後半には中国を超えるだろうと言われているインドは統治システムの構築が途方もなく困難だということは両国の為政者は分かり過ぎるほど分かっているでしょう。そもそも10億人を超える国民国家などというものが存在し得るものかという根本的な問題さえあります。中国が新疆ウイグル、チベット、内蒙古問題や香港、台湾など民族に関わる問題に苦慮しているのは当然のことで、国民の豊かさや民族融和という視点からは幾つかの国家に分離するかゆるやかな共和制を指向した方が良いということは彼ら自身がよく分かっているはずです。インドは中国よりもっと複雑でこの国がこれからどんな方向に進んでいくのか想像もできません。インドネシア、パキスタン、バングラデシュ、フィリピン、ベトナムと人口大国のひしめくアジアが今後どのような方向に進むのか、進めるのか、世界の安定と平和にとって重要な問題です。さらに人口爆発に迫られているアフリカはもっと困難な状況にあります。

 

 このように好むと好まざるとにかかわらず21世紀はアジアとアフリカの時代です。おおざっぱにいえばどの国も政治的経済的に後発の国々ですしアメリカ、ヨーロッパとは異なった歴史をもっています。地理的に近く歴史的にも関係のふかいわが国こそこれらの国のリーダーシップをとるにふさわしい国なのではないでしょうか。彼らもまたアメリカやヨーロッパよりもわが国に親しみをもっているはずです。そのわが国がいつまでもアメリカの尻にくっついて、アメリカのご機嫌をうかがっているばかりでいいのでしょうか。機能不全に陥っている「戦後体制」――国連やIMFや世界銀行などのシステムを改革していく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。そのためには小さな国、弱い国、貧しい国の立場に立つことが必要です。アジアで唯一の先進国クラブの一員という地位に安住していてはいけないのです。

 

 さて、ではそこで、なぜわが国はそんな「豊かな国」になることができたのでしょうか?そして、なぜ今、豊かな国でなくなりつつあるのでしょうか?

 これについては「失われた20年」とか30年といわれて専門家があれこれ分析していますが結論はでていません。はっきりしていることは、高度成長を謳われ年率10%(1966年~70年)という驚異の成長を遂げた後も4%から5%近い成長を続けた日本経済が1990年代に入って「バブル崩壊」したあと「ゼロ成長」におちいってそこから抜け出せずにいるということです。ではバブル崩壊を挟んで何が変わったのでしょうか。

 

 バブル崩壊で積み上がった不良債権処理という使命を課せられた小泉政権(2001年4月~2006年9月)は当時世界的潮流となっていたサッチャーとレーガンの「新自由主義」に活路を求めました。構造改革、規制緩和、民営化に象徴される新自由主義はそれまでの「日本型経営――終身雇用と生涯賃金」を徹底的に否定し「競争社会」に日本を改造することを目ざしました。バブル崩壊とともにはじまった「デフレ」と2008年のリーマンショックは日本経済に壊滅的な傷を負わせ、ついに安倍首相の信認篤い黒田日銀総裁による前例のない「異次元の量的・質的金融緩和」を行なわせたのです。

 

 バブル崩壊から30年経って「日本型経営システム」は完全に崩壊し「非正規雇用」が全労働者の4割を超えました。あらゆる分野で民営化が進められ「ゼロ金利」がつづいています。この間「1人当りGDP」は4万4210ドル(1995年、世界の2位)から4万89ドル(2020年、24位)に減少、サラリーマンの所得はほとんど上がっていませんが「格差」は拡大しました。

 

 「日本型経営システム」は「新自由主義」よりも劣っていたのでしょうか。

 

 

 

 

 

2022年4月4日月曜日

BRICs(ブリックス)は今

  BRICsがはなばなしくマスコミを賑わしたのはもう20年も前のことです。B(ブラジル)R(ロシア)I(インド)C(チャイナ―中国)――のちにS(南アフリカ)を加えた5ヶ国でBRICSとなりました――の4ヶ国を新興経済国として21世紀の世界経済を牽引すると予想したゴールドマン・サックス社2003年のレポートは、2050年にはBRICsがGDP上位6ヶ国に入る可能性もあるとさえ予測していました。広い国土と多くの人口、そして豊かな天然資源が成長の原動力になると考えたのです。(以下ではSを加えたBRICSで話を進めます)。

 

 世界人口の4割を超える(2020年42%)BRICSは、2000年には世界経済(GDP)の僅か8%にすぎなかったのですが2020年には25%(24.5%)を占めるまでに成長しました。この間2.5倍成長した世界経済のなかでBRICSは7.5倍も成長を遂げたのです。なかでも中国は12倍で突出しておりつづいてインド5.6倍ブラジル2.2倍ロシア5.3倍南アフリカ2.2倍を示しています。これによって中国は3.5%に過ぎなかった世界に占める割合を17.5%までに存在感を高めました(他の4ヶ国は合計で4.5%から6.9%に上昇しました)。しかし上位6ヶ国はアメリカ、中国、日本、ドイツ、イギリス、インドの順で変わっていません。世界経済の力関係はがっちりと固まっていてそれを突き崩すのはおいそれといかないということでしょうか。あと30年で先進国が衰え新興国の活力が益々高まらないとBRICSの上位独占は実現できませんが日本はよほどがんばらないと下位下落は確実な状況です。

 

 BRICSの上昇気運が明らかなことはデータ通りですがここにきて気がかりな傾向もあります。中国の成長度合いが鈍ってきたのです。1990年代後半から10%を超える驚異的な成長を示していた勢いが2010年の10.61%を最後に急激に落ち込み6%台を維持するのも困難になっています。成長の原動力であった潤沢な労働力が2027年から労働人口減少期に入り、高齢化率も2010年以降は10%台に、2025年には高齢社会に突入し2035年には65歳以上人口が20%を越え超高齢化社会になることが予想されています。

 さらに問題なのは国民の豊かさです。1人当りGDPを豊かさの指標にしてBRICSを見てみると2020年時点で中国1万511ドル(世界の64位)ロシア1万115ドル(66位)ブラジル6千823ドル(88位)南アフリカ5千625ドル(95位)インド1千930ドル(150位)になっています。円換算(1ドル115円として)で年収になおしてみると中国120万円ロシア116万円ブラジル78万円南アフリカ65万円インド22万円になります。アメリカは729万円日本461万円ですから彼らの生活水準が想像できるでしょう。世界標準の豊かさの最低水準は2万ドル(230万円)といわれていますから中国でさえ標準の半分に過ぎません。成長には1万ドルの壁があると考えられておりこれを「中所得の罠」と言いますが、BRICSがこの壁を破って富裕国の仲間入りを果たすにはまだまだ乗り越えなければならない多くの課題が横たわっているのです。

 ロシアが「プーチンのウクライナ侵略」という理不尽な戦争を起こしました。中国は南沙諸島を埋め立て人工基地を建造して東シナ海、太平洋への海洋進出を企図しています。いづれも戦力による「現状変更」です。2大強国の「力による現状変更」の底には強国でありながら国民の豊かさを実現できない「ジレンマ」があるのではないでしょうか。

 

 2020年の1人当りGDPで2万ドル以上の国は世界の国地域195ヶ国のうち約45ヶ国にすぎません。1万ドル以下の国は128ヶ国もあり最貧国と呼ばれる国が28国もあるのです。世界の飢餓人口(1日1.9ドル以下で生活する人たち)は2020年は前年より1億1800万人増えて8億人前後存在していると推計されています。

 こうした情勢の上に「人口爆発」という重大な問題を世界は抱えています。2020年の世界人口は77億9500万人ですが2038年には90億人、2056年には100億人を超えるのではないかと予測されているのです。

 驚異的な成長を遂げた中国でさえ解決できなかった「豊かな国」への飛躍。アジアにはインドネシア2億7千万人、パキスタン2億人、バングラデシュ1億64百万人、フィリピン1億人、ベトナム97百万人と多くの人口を抱えた国がひしめき合っていますし人口爆発は発展途上のアフリカで最も爆発するのです。アジアとアフリカをどうすれば豊かにできるか?21世紀最大のテーマです。

 

 これだけ難問山積の世界情勢を今のまま何の改革もせずに乗り越えられるでしょうか。

 問題の根本は「資源の有限性」です。考えてもみて下さい、石油も食糧も工業資源にも限りがあるのです。それなのに世界のすべての国を富裕国に――1人当りGDPを2万ドルにすることなど誰が考えたって無理なことは分かるではありませんか。地球があと6つか7つあっても無理な相談です。

 もうひとつは資源の配分を「制限のない競争」にまかせている今の制度です。先にもみたようにBRICSはこの20年間に7.5倍も成長したのに上位6国の順位がまったく変動していないのは上位国の競争力が強力だからです。強力なまま固定していてそれを突き崩すほどの競争力はよほどのことがない限り現状の制度では無理なのです。企業や国の競争に制限を加えるか、競争以外の方法で配分するように制度変更するかしないと成長を世界に行き届かせることはできないのです。

 

 世界のすべての国を2万ドル以上の「豊かな国」にすることが不可能なら『豊かさの尺度』を変えるという方法があります。経済的な豊かさはほどほどにしてそれ以外の尺度を「豊かさ基準」に設定しその尺度を世界の人たちが納得するようになれば今以上に多くの人たちが豊かさ――「幸せ」を共有するようになるでしょう。

 競争による豊かな国の偏りを是正するには、資源の配分を強力な競争力を持った企業や国に有利な「制限のない競争」を『緩める』か『廃止』する――そんな制度をつくることです。言葉を変えれば『新しい資本主義』をつくるのです。

 

 忘れてはならない重大な問題があります。人口が多くて豊かになれない国の多くは『核兵器』をもっているということです。中国もロシアもインドもパキスタンも核保有国です。これまでは「抑止力」などという意味不明な言葉で核兵器の破壊力に目をふさいできましたが、今度のロシアの暴挙でそれが理性を盲信した「絵空事」でしかないことを思い知らされました。

 貧しい国、弱い国への思いやりを忘れ、己の「豊かさ」を当然の権利とした先進国の「驕り」が「核兵器の暴発」を誘導する危険性をはらんでいることを教訓とするべきです。