2025年12月24日水曜日

書くということ

  昨年の3月から手書きの日記をはじめました。パソコンやスマホの電子文字の打ち込みばかりで済ますようになったのに危機感を抱いたからです。80の手習い、を4年近くつづけてみて書くことの快感を知ったことも影響していますが、書くことと人間の知能に重要なつながりがあるように考えたからです。

 人間が文字を発明して約五千年、人類の知識は飛躍的に増大しました。人類の文明の驚異的な進歩は文字の恩恵と言っても過言ではないでしょう。勿論「記録」という機能は文字のもつ一面ですが「書く」という作業が、新しい概念やヒラメキ、発見・発明を促した側面を忘れてはならないと思います。「ペンが勝手に走る」という表現を作家はよく使いますがこれは「書く」という行為(作業)の持っている「機能」をよく表していると思うのです。「書く」という作業は記録とともに創造という機能にも重要なな作用を及ぼしているのです。

 もうひとつ「歩く」という動作・運動も創造と深く結びついていると言います。ノーベル賞を受賞した多くの研究者が歩いている途中で発明のヒントを得たとか作家が想像もしていなかった「表現」がヒラメイたということをよく言います。

 「書く」と「歩く」は思索や創造のための知識や情報の「整理とヒラメキ」に深く関わっているのです。

 

 もしそうなら「書く」ことを放棄した人類は大いなる危機に瀕していることになります。

 

 話を日記に戻すと今「メモ型日記」が流行っているそうです。スマホのメモ機能を使ったものと紙のもの両方がはやっているのですがなぜ今日記なのでしょうか。SNS全盛となってLINEなどで人と人のつながりが何重にも張りめぐされてそこからの脱出が困難になり、すべてを曝け出すことが当たり前になって、本来人に見せるものでなかったはずの日記まで自己表現として公開することに抵抗がなくなり「承認欲求」が満たされることでむしろ積極的に「見せびらかす」のが当然のようになっています。その結果本当の「自分だけの自分」を残しておきたいという欲求が芽ばえてきたのではないでしょうか。それを満たすメディアとして日記が再評価され小さな流行となっているのではないでしょうか。

 

 なんとも錯綜した状況ですがこのまま放置しておいていいのでしょうか。

 最近「WEIRD(ウィアードゥ/ウィアドゥ)」という語が注目されています。「西洋の、教育水準の高い、工業化された、裕福な、民主主義の」の頭文字をとった造語なのですがWEIRD社会は決して人間全体の代表ではなく、むしろ変わり者であることへの注意喚起とされています。根本的な問題提起は時間の流れ、つまり過去から現在、現在から未来へと一直線につながる時間という概念も、もしかしたらWEIRD社会のローカルな考え方ととらえた方がいいのかも知れません。

 

 同じような考え方として「ポストヨーロッパ」があります。

 近代のテクノロジーの拡張は西洋的な思考様式の拡大に他ならない。その暴力性が世界に均一の思考様式――西洋の哲学に支配される「哲学の終焉(ハイデガー)」をもたらした。「テクノ=ロゴス中心主義」が世界を席巻し、テクノロジーと西洋哲学による世界の統一的支配をグローバル思考とよび人間中心主義的な単一世界の志向を是として邁進してきた結果今、あらゆる矛盾が蓄積して世界は大転換点に至っている。

 ではどうすればよいのでしょうか。西洋と異なるテクノロジーの探究を通じてテクノロジーの多様性を可視化する、そのためにはアジア思想をテクノロジーの見地から再考ないし再構築することが必須だというのはユク・ホイです。世界には多数の思考様式がありそれを探求することで世界のグローバルな均質化を退ける。局所性と多様性を同時に追求して行き過ぎた資本主義や消費主義、新自由主義を乗り越える。ただし「アイデンティティポリティクス(性別、人種、宗教、性的指向などを基に社会問題や政策を考え解決を図ろうとする政治的な動き)」や「差異の中和」「ナショナリズムの回帰」に陥る危険性を避けローカルかつ世界に開かれた「惑星的思考」を構築しなければならない。「特定の価値を絶対化しない」ことが現在の混乱の反省を生かす絶対の条件である、とユク・ホイは訴えています。

 

 生成AIが席巻しています。社会的合意もないまま暴走しています。このままでは人間が蹂躙される可能性も小さくありません。生成AIはある意味で産業革命以来つづいてきた西洋思考――「テクノ=ロゴス中心主義」の窮極の到達点かもしれません。もう一方の結晶である資本主義、民主主義の西洋型は矛盾が飽和点に達しています。人間社会のシステムが破綻に瀕している中にテクノロジーの究極形を投入することの危険性ははかり知れません。未熟な社会に破壊力絶大な技術がおとなしく納まるとはとても思えないのです。

 

 西洋型を東洋思想で、あるいはスラブ系のイスラム系の――西洋型からすればローカルな思考で修正することが現在の混沌を解消する必須の工程だと世界は動き始めている、それが「WEIRD」批判であり「ポストヨーロッパ」という動向なのではないでしょうか。

 

 しかし「書く」も現状改革の有力な方法になる可能性を秘めています。「歩く」は健康と思索には必須です。どちらも現代テクノロジーが見過ごしてきたものですが再評価されるべき時期に来ているのではないでしょうか。

この稿は毎日新聞書評(2025.12.13)――渡邊十絲子「無数の言語、無数の世界」、中島岳志「ポストヨーロッパ」を参考にしています

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年12月8日月曜日

天才とAI

  ETV特集「藤井聡太と羽生善治 対談 一手先の世界(2025.11.29放送)」はAIを語るうえで非常に示唆に富む放送でした。さすが天才と感じ入った次第です。

 

 AIは知識の整理と体系化に利用します、という藤井さんの言葉はAIに対する最も望ましい在り方を示した含蓄のあるものと感じました。

 マスコミ等で報道される多くはAIの言葉(解答)をそのまま受け入れて仕事に利用したり論文にしたりという形がほとんどです。解答を導き出すための勉強――本を読んだり情報を収集したりという過程を省略して結果だけをAIに求めるという姿勢が目立ちます。いわば「AIに教えられる」――依存しているパターンです。これに対して識者は警鐘を鳴らすのですがあまり効果は無いようで大学教授は論文の独自色を見分けるのに苦労しているといいます。痛ましいのは生きる苦悩をAIに相談して「自殺」を選ぶしかなかったというケースです。

 独創性を要求される棋士――それも天才と呼ばれる藤井さんの積み上げてきた万余の棋譜や知識を整理。体系化して実力のレベルアップに結びつけるという受け入れ方は「理想的」なAI利用の方法ではないかと教えられました。

 AIを無批判に受け入れる弊害として、羽生さんのいう「将棋が早くなった」という傾向が相当するかも知れません(藤井さんはそうした変化はないという意見ですが)。人間は時間をかけて理解するけれど、その間(ま)を飛ばして進めるから将棋が早くなるのではと羽生さんは言います。早回しで映画を観ても分からないから面白みが理解できないのと同じだというのが羽生さんの見方です。AIの答えを鵜吞みせずにそれを吟味して過程を理解することが必要だというのです。言い換えればAIを無批判に受け入れるのは面白くないし危険だということになるかも知れません。

 

 羽生さんの「ユラギ」と「どこで止めればいいか」問題も本質的な視点です。AIが答を出すのに時間がかかって揺らいでいるように見える時は「AIも分からないことがあるのかなぁ」と感じているといいます。このユラギの一種としてAIの出す最善手の変わることが上げられます。藤井さんが時々意表を突いた差し手をするときその手がAI評価の3位4位ということがあります。しかし後でプログラマーが「推定最善手確率」を操作して解析を繰り返すと最終的に藤井さんの手が最善手1位になるのです。一般の人が仕事や学習で答えを求める場合は最初に出てきた最善手1位を採用して終わってしまうにちがいありません。批判的にAIを受け入れることをしない利用者は最終的な最善手を知らないままに次手、3位の方策で事を進めて問題解決できないことは十分想像できます。しかし「この手は最善手ではない」と判断してもAIに「更に解析を進めろ」という指令を出せるようなプログラムは用意されているのでしょうか。それを使いこなせるようなスキルを一般利用者は獲得出来るのでしょうか。このあたりがAIにひそむ大きな「危険性」のひとつです。

 さらに大きな問題は「どこで止めればいいか」問題です。AI同士の将棋は先手優位と言われていますが名人の二人は「引き分け」ではないかといいます。将棋には時間制限がありますがAIにはそれが分かりませんから限りなく勝負しつづけるというのです。それは「円周率」の答えに限りがないのと同じだと羽生さんは言います。このことはAIにすべてをまかせると「無間地獄」に陥る危険性をはらんでいることを予想させます。窮極は戦争でしょう。AIが状況に応じて次の作戦を出し続けて互いに相手が「全滅」するまで戦争がつづくとしたら恐ろしいことです。

 

 AI将棋が成長するのを実際にふたりは体験しているようです。同じような局面に対したとき前回より旨い手を指すことがあるというのです。これは一般的にもあり得ることでディープラーニングやデータマイニングなどの手法がシステムに内蔵されていますからAIは成長するように作られているのです。

 

 どんな将棋を指したいですかという質問に藤井さんが「面白い将棋を指したい」と答えていたのに共感しました。AIは記憶している膨大な棋譜を用いて最善手を答えるシステムです。将棋としてはそれが正解なのでしょうがそれでは生身の人間が指している面白味がありません。人間同士で会話して――データには現れない感情とか雰囲気とかを感じながらAIを超えた将棋を指す、それが面白いと藤井さんはいうのです。それは組織内の問題解決においても同様だと思います。論理的には最善の解決策をAIは提案してくれるにちがいありません。しかしそれを受け入れるのは人間ですからどんな感情的な反応が出てくるかはAIはまだ対応できないにちがいありません。そこを埋めるのが人間の仕事です。仕事に面白さを求める姿勢がAIを人間社会に生かす重要なポイントになるのではないでしょうか。

 

 藤井さんの研究仲間である永瀬九段が「角換わり以外は木刀なんです」という発言をしたとき、羽生さんも藤井さんも苦笑いしていたのが印象的でした。永瀬さんは将棋の真髄は「真剣勝負」だということを言いたかったのでしょうが、そしてそれは「角換わり」がもっともふさわしい手なのでしょうが、いつもいつも角換わりで指せるわけではないのですからそれを「角換わり以外は木刀です」とズバリ言っちゃうのは反則だよ永瀬さん、とふたりはいいたかったにちがいありません。

 

 羽生さん藤井さんは天才です。AIに対しても我々レベルとは比較にならない高みで体験していると思います。それだけに我々の知りえないAIの側面を把握してきたであろうことがしのばれて多くのことを学ぶことができましたが、なにより天才二人の対談の面白さは稀有な体験でした。

 

 

 

2025年11月13日木曜日

AIとカン

  菊花賞は惜しかった。カンを信じるべきでした。

 本命と対抗は人気通りで仕方ないとして穴馬を探って、結果⑫ゲルチュタールと⑭エキサイトバイオにたどりつきました。まず目についたのはエキサイトでした。夏レース直前のラジオNIKEI賞(GⅢ、1800m)を勝って能力に目途をつけた調教師は夏を全休して菊花賞にそなえた、そんな陣営の姿勢から菊花賞に賭ける強い意志を感じました。もう1頭がゲルチュタールです。ダービートライアルの青葉賞を3着した底力と初出走以来2000mから2400mの長距離路線を選んできたステップに加えて近年菊花賞で良績を上げている日本海ステークス(2200m)を勝ち上がってきた戦績はいかにも菊花賞向きと判断したのです。さてどっちを選ぶか?

 ゲルチュタールでした。菊花賞は3000mです、どの馬も未経験の過酷なレース。初出走から長距離路線を歩んできたデータは陣営の並々ならぬ菊花賞への執念を感じます。一方のエキサイトも2000mの中距離路線を選んできましたが勝ったGⅢが1800mというのがひっかかりました。そして最後は騎手です。坂井瑠星と荻野極、この差は大きい。

 結果はご存じの通り1、2着は本命対抗のエネルジコとエリキングで3着がエキサイトバイオ、ゲルは4着でした。何故ゲルチュタールを選んだかといえばカンよりデータに重きを置いてしまった、そして最後の最後に13番人気よりも5番人気の安全性へ走ってしまったのです。

 

 2年前にケイバを止めようと思いました。でも競馬は好きなのでレースを見るのですがあまり面白くない、勿論検討はしますがどこか緊迫感がないのです。そこで思い出したのが虫明亜呂無氏です。60年ほど前、第一次競馬ブームのころ――シンザンが戦後初の三冠馬になって競馬人気が盛り上がった当時の競馬評論家で「文学系」競馬評論の先駆けでした。競馬評論家なのに「馬券は複勝200円券1枚」しか買わないという変わった人でした。当時の私は、そんなもん馬券とは言わん、と嘯いていたのですが、今度馬券はGⅠだけ、それも「複勝500円」と決めてレースを見てみると買わない場合より格段に面白いのです。私もやっと虫明氏のレベルに達したかと少々悦に入ったものでした。

 

 もともと馬券は下手な方です。それがコロナ以降パソコン購入に変更して猶更当たらなくなってしまいました。現場の喧騒と鉄火場めいたヒリヒリした緊張感のなかでのヒラメキの決断とヌクヌクとした日常生活のユルイ環境での馬券では決定的な乖離があるのでしょうか。出馬表も電子版はだめで競馬新聞(またはスポーツ新聞)、それも横書きではなく縦書きでないとシックリこないのです。でんま(出馬)表を下の欄(直近のレース)から上に舐めるように見上げているうちにヒラメキが来る、それが「カン」なのです。同じようにこうした作業を繰り返しても馬券を買う買わないでは「没入感」がまったく異なるのです。

 データだけでなくお金を賭けるという緊張感の中で繰り返し繰り返し馬券を買って、スッて痛い目にあって、反省して、勉強して知識を深めて、ようやく身に着いたのが「カン」というものです。

 お金を賭けて馬券を買って、こうした作業を繰り返して「カン」ができ上がる、この過程をAIはプログラム化できるでしょうか。競馬の「カン」とは知識やデータを飛躍した「ヒラメキ」のことだと思います。

 AIは「カン」をプログラム化できない、そう考えます。

 

 生成AIがブームです。この流れを止めることはできないでしょう。あっという間にあらゆる分野でAIは活用されるにちがいありません。それほどAIは有効で便利です。生産性は飛躍的に向上して少子高齢化による「労働力の不足」は相当部分解決されるにちがいありません。ただその時の社会のかたち――人間とAIの役割分担の予想図が明らかになっていませんし、だから社会的合意も醸成されていません。にもかかわらず膨大な投資が行われ社会は一方向へ傾斜を強めています。

 極めて危うい状況です。

 

 特に危惧しているのが「教育」です。

 これまでの教育は――特に日本の教育は極言すれば「AI的人間」をつくることを目指してきたのではないでしょうか。広く知識を吸収して適応力の高い、配置された場所で要求される能力を速習して定められた機能を遂行できる人材の養成を国家は教育に求め管理してきました。明治維新以来高度成長期までこの教育モデルは成功してきました。しかし新自由主義のグローバル経済社会になって破綻しました(不登校児童35万人、全小中学生の約4%というデータはその一端を表しています)。独創性と批判精神の欠如がこの教育制度の欠陥です。しかも今要求されている能力はこのふたつです。

 生れたときから高度なIT環境の中で育つこれからの子どもたちはAIを簡単に使いコナすでしょう。しかしAIのもたらす結果を批判的に受け入れる能力は身につけているでしょうか。AIの答以上の創造力を発揮することはできるでしょうか。結果、AIに使われる「奴隷」に成り下がらないと自信をもって言えるでしょうか。

 電子教科書さえまだ根づいていないわが国の教育環境。偏差値でランク付けされた学校制度に公私の社会組織(企業も役所も)がベースを置いている日本社会。教育を根本的に改革しないと本当にAIに支配される社会になってしまのではないか。そんな恐れを抱いています。

 

 天皇賞3着したジャスティンパレスも実力馬が宝塚記念3着で復調気配を見せて4ヶ月半休養、そして好走のパターンです。次のGⅠエリザベス女王杯もこのパターンがあるかも知れません。

 やっぱり競馬は楽しいですね。

 

 

2025年10月20日月曜日

明治の知識人から

  しかれども他国を論ずる眼もて支那を観るは誤れり。支那は当座の目的を遂げんがためには、過去の恩義を埋没し去りて微塵も良心の苦痛を感ぜざるのみならず、恩義の主たる日本を不利の地位に陥れんがために、一時あらゆる手段を用うることをも已まざりしもののごとし。これその一方には頑固に日本の施政に反対して日本をして知らず識らず強硬の手段を取らしめ、また同時に他方には盛んに営口等に在住する欧米商人を煽動して、日本の専権に関する真偽の報道を世界に伝播せしめたる所以なり。

 これは朝河寛一の『日本の禍機(1909年刊)』にある言葉です。見事に中国の本質を捉えた一文に感じますが日本人だからでしょうか。彼は日本人初のイェエール大学(アメリカ)の教授になった歴史学者で終生彼の地で過ごしました。アメリカから世界的視野で日本の政治動向を注視し非戦を主張しました。

 

 回顧すれば1899年以前、英国が二原則の形成に力を尽くしたるの功は大なり、この年に米国がその一原則の重要なるを列国をしてますます意識せしめたる功もまた少なからず、1900年列国が我慢を抑えて一時相共に二原則を護りたる功もまた没すべからず、しかれどもこれらは皆その後の露国が驚くべき大胆なる偽善貪欲を抑うる力なかりき

 アヘン戦争によって国力の疲弊した中国を欧米列国が簒奪の限りを尽くし利害関係が錯綜して収集困難に陥ったのを「清国主権」「機会均等」の二大原則で安定を図ろうとした経緯を述べたもので、にもかかわらず抜け駆けをして満州を侵略したロシアの暴挙を指弾したのです。日露戦争は利害関係の深い日本が二大原則順守を迫ってロシアと交渉を重ねたのですが決裂した結果勃発しました。国際的には正義は日本にあり、しかも「後進国日本」が無敵を誇るバルチック艦隊を擁するロシアを破ったのですから全世界が喝采するとともに日本を「一等国」として認識しました。

 ところが戦勝国日本の民衆はロシアの賠償金拒否など犠牲に見合う給付を得られなかったことに不満を抱き「日比谷騒動」など全国で暴発行動を示しました。それに乗じた陸軍が満州を浸潤したのです。これによって国際社会は一挙に日本批判に転じます。

 

 日本が国際的に窮地に陥ったのは、原理原則として、対清二大原則を世界に向かって扶植しておきながら、その実南満州における利権を、対ロ対清において、自ら作為し獲取したるの内外の相矛盾するところを遂行せんとするところにあり。

 されば日本が南満州における経済的首位に立たんとするは、決して遠国の少数者が植民地の富源を独占せんとすることがごときの類と同日に語るべきにはあらず。実に彼我の蒼生の発達の相頼り運命の相継がるところなるがゆえに、我は前には非常の犠牲をもってこれを清国のために保存したり。今は力を極めて共同の成長を促し、兼ねて遍く列国をも利せんとことを志すにいたれるなり。

 

 こうした状況下で当の中国人はどんな考えを持っていたのでしょうか。

 米国は常に支那の友邦にして、機あるごとに無私の態度を示したるがゆえに両国間の交情変わるざるべきは最も必要のことなり。米国は元来東洋諸国に対して厚意を有し、未だ一度もこれを侵略せんとしたることなし。もし近い将来において、支那の主権および領土を危うくするがごとき事情起こることあらば、余は米国が支那の権を確保せんがために力を尽くさんことを望みかつ信ずるなり。勿論これすべての友邦のなさんことを望むところなれども米国に信頼するの情最も深きものあり。(袁世凱のことば)

 我が日本が支那と同じ東洋にあり、これと人種および文字相通じ、文明の縁故深く、かつ将来の利害極めて親密なるべき自然の地位に立ち、過去の宣言および事業を継ぎて、最も誠実に支那の主権を擁護し、もっとも熱心に支那における機会均等を確保するの首動者なり。これによりて米国とかつ競争しかつ協同し、もって相共に東洋の進歩・幸福を助成せんことにあり。是豈地理及び歴史の自然の配置にあらずや。日本もし正路を踏みて誤らずば清国に関する日米衝突の一の理由だになく半ばの機会だになかるべし(以下略)。

 

 日本は正路を踏み外し、かくして日中の隔絶は修復不能の段階に転げ落ち開戦の止むなくに至るのです。

 朝河寛一は在米という特殊な環境にあった人ですが明治知識人の一典型でもあります。そんな彼の存在は現在ほとんど知る人がありませんが今度『日本の禍機』を読んで(戦前の文語体に少々手こずりましたが)この書は戦前の日本を知る必読の一書だと認識しました。

 

 翻って現在の日米関係を鑑みるにトランプ関税は論外としても、核抑止力を紛争解決の手段として振りかざす勢力の跋扈する現状において「唯一の被爆国」を常套句とする政治家蓮はアメリカ追従ではなく核保有国以外を集約して現在の緊張関係を緩和する運動の中心的存在として明確な方向性を打ち出すべき時期にあるのではないでしょうか。現状は余りに情けない日米関係です。

 最後に一つの事実を分かり易く述べている池上彰さんの文章を掲げてこの文を閉じたいと思います。

 

 2015年秋の叙勲に旭日大綬章を受ける人物に「リチャード・リー・アーミテージ」の名前がありました。(略)安倍政権の安保関連法の改正を前に、その内容について、早くから提言をしていた人物です。(略)彼らの提言によって、安倍政権が集団的自衛権の容認に動いたことは明白だ(略)/「ドナルド・ラムズフェルド」の名前もありました。ブッシュ(息子)政権時代の国防長官です。イラク攻撃を中心になって推進し、イラクの大混乱を招いた責任者の一人。ラムズフェルド長官は、イラク攻撃の計画立案にあたって(略)戦後の治安維持ができなくなり、本人まで更迭されてしまいました。その人物に勲章を与える!これが日本なのですね。/そういえば、太平洋戦争中、東京大空襲で一晩に10万人の一般市民を殺害する結果になる計画を立てたアメリカ空軍のカーチス・ルメイは戦後、航空自衛隊の育成に尽力したという理由で、1964年、やはり旭日大綬章を授与されています。/日米関係とは、こういうものなのだ、ということを改めて思い知らされます。(『日本は本当に戦争する国になるのか?』より)

 

 

 

 

2025年9月9日火曜日

星になっても

  この齢になると伴侶(つれあい)を亡くした友人も少なくありません。彼らが今どうしているのか、妻の死をどう受け入れたのか気にかかります。というのも今年の異常な暑さに、この先何年生きていけるか不安になったからです。そんな折、若い(1987年生まれ)哲学者――岩内章太郎さんの書いた『星になっても』(講談社)という本を読んで、死や死の受容の仕方について教えられることが多かったのでそれについて書いてみようと思います。本は七十才の誕生日に亡くなった父君の死をエッセーにしたものです。

 

 死は心臓や脳の活動停止だけを意味するのではなく、これまでの親密な関係を徐々に失い社会の表舞台から姿を消していく過程として経験されるものです。

 閉ざされた人は、死を排除する社会の力学に従って隔離されたまま死ななければならない。この、死に向かってますますひとりぼっちになっていき、死以前の段階で〈私〉の存在の意味が消えかかるという、死と孤独の耐えがたい結びつきは現代社会に特有の現象である。

 愛する人を失うことは、自己と世界の結び目そのものを失うことである。それはつまりフィギュレーション(自己を取り巻く形態)の全体が変わることを意味する。(略)だから、愛する人を失うとき、〈私〉は〈私〉自身を失うに等しい。

 ※ 死全般についての彼の解釈です。関係性の喪失に力点が置かれています。なぜか?

 

 死にゆく者の孤独は神話や宗教が共有されないからこそ生じる現代ならではの課題なのだ。

 神話は死に形を与えたのである。(略)理解不能な出来事としての死に脅かされる時代は終わり、人間は死をわがものにしたかにも見えた。

 死の意味を他者と共有することができなくなり、死の不安を一人で引き受けなければならない、という新しい問題が現れたのである。

 ※ この分析は新鮮です。科学万能になって、また昨今の墓じまいの風潮はますます死が自分だけのこと、自分とその家族――身内だけの出来事に閉じ込めてしまう、他者との共有が物理的にもできなくなってきています。

 

 健康に生きることのみを第一義とする社会は、老いと死を周縁化する。

 私は以前、死という当り前の事実を「必然」の意味で考えていた。しかし現在は、それを人間の「自然」だと感じている。(略)必然と自然。似ているが、その語感はちょっと違う。(略)前者には、死への抵抗の気分がどことなく伴うのに対して、後者にはそれがなく、生と死を一つのものとみなす気持ちがないだろうか。死は自然の事実にすぎない。それは、論理的なものというより動物的なものだ。

 ※ 父の死を経験することで、それをどう受け入れるかに悩んだ彼の結論です。頭で考えてるうちは必然として納得していたけれども、受け入れ拒否を論理で抑え込もうとしていたけれど、実際に経験するととても論理の及ぶものではなく、自然の事実として動物的に受け入れるしかないということに若い哲学者は気づいたのです。

 

 ここまでなら普通の哲学書の書き振りですがこの本の一番の魅力は お母さんと作者の、夫であり父の死の受容に関する会話のリアリティにあります。

 自分の気持ちの中でお父さんに対して自立していると思ってた。経済的なこと以外は。あー、だけど違ったんだな、と。この日常という人間との関係性って、これほど深いものなんだな、ということを実感したよね。

 私には日常(仕事と家族)がある。それが生活のリズムをつくりだしていく。私の思いとは無関係でつくられるこのリズムはもちろん一概によいものだとは言えない。が、日常とともにあるかなしみと、日常を持たないかなしみでは、そこに生じる情動の質がまったく異なる。日常を持たないかなしみは、静かで深い。出口がない。母は「日常」を失って、父がいない家に閉じ込められた。私はそれに気づけなかった。(略)正直辛い時間だったが、それは日常という背景に支えられていた。ところが母の日常は父である。母にとって父がいなくなる、ということは日常がなくなるということを意味した。母の喪失を支える背景は存在しない。母にとって父の不在は、日常のない生活を続けるということだったのである。

 一人で生きていくぞ、っていう、そういうものと、現実は一人で生きていけないかもしれないという葛藤が、かなしみに拍車をかけているのかな。(略)子どもたちは結婚しているんだから、自分の人生を考えていかなければならない。でも、それにはあまりあるんだな。すぐに解答がないわけだ。自分の中で。(略)そして、母の現在のほとんどを父の不在が占めている。このことの意味を私はうまくつかめない。私の現在には、家族がいるからである。(略)母は「こうやって生きていけばいいんだな」という感覚を取り戻そうとしている。(略)自分に人生をどうしたいのか、という問いに、切実さがでている。まだ、父の死を総括したくないのだ。

 ※ 日常という繰り返しの中で私たちは生きています。そしてそれは人間関係でありそれを通じた仕事――ルーティンの繰り返しです。人間関係がなくなるということが喪失なのです。もし妻が私より早く亡くなったとして、その空虚さに耐えられるでしょうか。悲しみは当然ですが日常性の欠落という頼りなさのもたらす不安はそう容易く解消できないにちがいありません。

 

 最近時々「名前のない不安」を感じることがありました。そのうちのいくらかがこの本を読んで理解できました。書評で紹介されていなければこの若い哲学者のエッセーに出会うことはなかったでしょう。信頼できる書評(子)の存在は良き読書生活に必須の伴走者です。

 

 

 

 

2025年8月22日金曜日

管見妄語(25.8)

  千玄室さんがお亡くなりになりました。齢102才、大往生です。師の「after you お先にどうぞ」こそ今世界が最も欲している言葉でしょう。合掌。

 

 若輩恐るべし、という言葉があります。若者の才能や可能性を尊重し畏敬する態度が年長者には求められるという意味です。先の参議院議員選挙はまさに「若輩恐るべし」でした。安倍一強のもと傲慢不遜に国会を軽視ししたい放題に政治を自分たちの方向に捻じ曲げた「負の遺産」が円安と物価高を引き起こし若者や弱者を非正規雇用、低賃金にあえぐ「格差拡大」と「分断」状況に陥らせました。あまつさえ「裏金」というポケットマネーの脱税集金までした綱紀紊乱は長年の岩盤支持層にも「自民党離れ」に走らせ、国民民主党と参政党を大躍進させ自民党は無惨にも衆参両院において少数与党に成り果て「55年体制」の崩壊という歴史的転換を政界に惹起しました。このほとんどが若輩の「既成政党ノー!」という意思表示の結果といっても過言ではないでしょう。

 

 では何故若者をこれほどまでに怒らせたのでしょうか。自民党税制調査会宮沢会長の「税は理屈の世界」発言ではなかったでしょうか。106万円の壁問題と消費税減税を否定する論拠としての発言ですが、何を勝手なことを言っているんだ、今まで好き放題やってきたじゃないかと若者は思ったはずです。ガソリンの暫定税率なんて「暫定」といいながら半世紀もつづけているじゃないか。消費税は社会保障の重要な財源だから絶対に減税はできないと言い張っているけど、その社会保障が私たちの時代に存続しているの?年金は貰えるの?社会保険料は年々高くなって手取りは減る一方なのに私たちの時代に残っていないかもしれない社会保障制度のために負担を押し付けられるのはもうごめんだ!

 もうひとつ、食料費の税率8%は絶対に正しいの?よその国では3%とか5%の低いところもあるしそもそも食料品は無税というところもあるじゃないか。物価高に賃金増が追いつかない今、大企業でさえ5%アップするのがせいぜいという時代に8%をゼロにしてくれれば中小企業に勤めている人にも公平に恩恵は及ぶじゃないか。消費税は逆進性があるから金持ち優遇だと「理屈」をいうけど8%の重みは低所得ほど堪えるんだよ!若者の不満はこんなところではないでしょうか。

 

 今年も8月15日に「終戦特番」が放送されました。300万人有余の戦死者が出た先の大戦ですが外地で亡くなった方の半分以上は飢餓と病気で亡くなったことは明白な事実です。武器ではなく「兵站(食料や物資の補給・整備)」の失敗が多くの兵士の死を招いたのです。

 こんな明確な歴史の証言があるにもかかわらず相変わらず我が国の軍備は「兵器偏重」です。食料自給率は35%という脆弱な体制であるにもかかわらず、そして「令和の米騒動」が露呈させたのは主食の米さえ自給できない危うさです。米も十分に確保できず戦時となって貿易相手に輸出を拒否されたらわが国はたちまちに戦闘能力喪失です。さらに言えば学力の格差もあります、軍を支える人材の劣化は戦闘能力に重大な影響を与えます。

 GDPの2%の軍事費を財源の手当てもないのにアメリカの言うままに予算化して兵器購入をアメリカに約束する。いくらアメリカの「核の傘」に守られていると安心していても肝心要のわが国の戦闘能力がこんなに脆弱では「抑止力」の効果も危ういものです。

 

 アメリカは長いあいだ「民主主義と法治国家」のモデル国として世界の尊敬を集めてきました。しかし今のアメリカはその名に値する国でしょうか。トランプ氏は大統領令を頻発して自分好みの政策を強引に推し進めています。しかしすべてが良い政策とは限りません。そんなとき「賢人」が傍らにいて彼に諫言してくれてこそアメリカという国が正常に機能するのです。ところが今のアメリカは、トランプ氏を批判するような言動を行えば彼の逆鱗に触れて「クビ」になることを恐れて誰ひとり彼に「ノー」と言えないというのです。これが正常な国の形とはとても言えません。議会も党の制約も無視して「唯我独尊」の政策を続ければアメリカは世界から軽蔑され見離されることでしょう。

 その最たる「愚策」が「トランプ関税」です。トランプ氏は国の経済と一企業の経済を混同しています。ましてやアメリカは「基軸通貨国」です。トランプ氏は二重の誤りを冒して「トランプ関税」という愚策を行なって世界中を「大不況」に陥らせアメリカ国民に未曾有のインフレの惨禍を見舞わせようとしているのです。

 企業であればひとり勝ちでも、それによって競合他社が倒産しようが犯罪さえ犯していなければ誰にも文句を言われる筋合いはありません。しかし国の経済にそれは通用しません。世界経済の全体を考慮して経済の運営を行うのが、特に大国の責任です。トランプ氏は国の経済を企業のディールと同じに考えてアメリカ経済を運営しています。これが彼の誤りのひとつです。

 もうひとつは基軸通貨国ということを全く理解していません。彼は長年の貿易赤字を怒っていますが見当外れもはなはだしいと言わざるを得ません。乱暴なことを言えば、アメリカは赤字が出ればドルを刷ればいいのです。アメリカはその権利を持っていますし誰も文句は言いません。勿論野放図にバンバンドルを増刷すれば他国の信認が得られなくなりますから規制体制をとっています。そのひとつがいわゆる「債務上限制度(デッドシーリング)」です。国の債務に上限を設定して政府の野放図な赤字政策に規制を設けているのです。上限を引き上げるには議会の承認を得る必要があります。

 何故トランプ氏はそんなに資金が必要なのでしょうか。ひとつは「減税」です。支持者にお金をばらまきたいのです。FRBのパウエルさんはそれでなくてもインフレですからトランプ氏の要求にもかかわらず金利の引き下げに抵抗していますが減税で消費が増えればさらに物価は上昇することでしょう。もうひとつは「軍事予算」の増大です。トランプ氏は今年1兆ドルの予算を要求しています。前年より1000億ドルのアップです。2023年時点でアメリカの軍事予算は世界の軍事予算の40%を占めていましたからさらに比率は増大して圧倒的な軍事力を誇ることになるでしょう。トランプ氏は戦争反対論者を装っていますがどうなのでしょうか。

 

 アメリカは基軸通貨国の特権で世界から豊富な商品を輸入して国民の消費生活を潤沢にしてきました。しかし今のままのトランプ政策が継続されるなら世界の国々のアメリカに対する信認は低下して「ドル基軸通貨」体制は破綻するかも知れません。そうなったとき、アメリカ国民の豊かな消費生活は終わりを告げることになるでしょう。

 一時の豊富な関税財政と引き換えに「基軸通貨国としての特権」を手放すかもしれない愚かなトランプ氏に鈴をつける人がいつになったら現れるのでしょうか。

 

 

 

2025年7月17日木曜日

少子化問題もう一つの視点(続)

  先のコラムで、少子化問題は経済の問題よりもむしろ道徳や倫理の問題――社会的側面の方が強く影響しているのではないかということを述べました。その指標として「婚外子比率」を取り上げ欧米先進国が40~60%の高率を示しているのに比してわが国はわずか2.4%に過ぎないことを明らかにしました。実数を見るとフランス41万人、イギリスは32万人ドイツ74万人、アメリカに至っては149万人の多きを示しており、もしわが国の婚外子比率が25%になれば20万人40%になれば30万人になり今の出生数に加えれば約90万から100万の新生児が生まれる可能性があることを示しました。

 

 では出産にかかわる偏見や結婚観を伝統的で日本的なものを払拭して当事者の自由裁量を最大限に認めた「包摂的」な考えに改めたら出生数は本当に増えるのでしょうか。

 実はわが国では毎年10万(人)以上の生命が祝福されることなく葬り去られているという事実があるのです。「人工妊娠中絶届出件数」がそれです。日常的な言葉(刑法でもそうですが)でいえば「堕胎」の数字です。これが2023年では12万6734件(前年より4009件増)にも上っているという事実を「少子化論」ではまったく論外にしているのはどうしてでしょうか。

 「人工妊娠中蕝実施率(女子人口千人に対する比率)」は5.3。年齢階級別にみると「20~24歳」が10.8と最も高く次いで「25~29歳」8.9。「20歳未満」では「19歳」8.4、次いで「18歳」5.0になっています。

 2023年の出生数は72万7277人ですから中絶率は17.4%になります。これは驚くべき数字ではないでしょうか。

 

 最近泉佐野市が「赤ちゃんポスト」を設置する方針を明らかにしました。これは本来なら祝福されるはずの赤ちゃんが大人の事情で葬られるのを何とか防ごうという試みの一つです。しかしこれは最終段階での施策です、その前の段階で、さらに前の段階で子どもを生みやすくする方策はないものでしょうか。

 

 今問題になっている「選択的夫婦別姓制度」が実施されたら、好きあった同士が同居して(別に別居でもいいのですが)共同生活を営み子どもができたら女性が届け出をする。新生児に対する公的サービス(扶助)はこれまでの婚姻制度上のものとまったく同等のものが付与されます。女性がこれまでと同じ姓を名乗るので仕事上もその他の公共サービスにもなんの変化もありません。

 これに対して周りの偏見も誹謗中傷もない社会的状況が成立するのであればこれまでと比較にならない柔軟性に富んだ「子どもを持つ」社会が現出するのではないでしょうか。

 

 これはひとつの仮定ですが「選択的夫婦別姓制度」ひとつが成立するだけで「子どもを持つ」状況は格段に改良されるでしょう。とにかく今社会が強制している結婚、出産にかかわるおとなたちの「古い価値観、倫理・道徳観」を排除して、若い人たちが「子どもを持ちたい」と思えるものに転換する。それが少子化問題解決の「入口」です。それを社会が容認する、そこからがスタートです。経済的支援も待機児童解消もまずは子どもが生まれてくれなくては話にならないのです。

 

 これまでの「少子化対策」はまず法的に「結婚」することが前提でしかも夫婦同姓が強制されてきました。「婚外子」も「人工妊娠中絶届出件数」も正面から論じられることはありませんでした。ひたすら「経済的側面」からの支援で問題解決を果たそうとしてきたのです。結果「効果」はほとんどありませんでした。

 それなら「視点」を変えるべきです。今まで「見落としていた」視点、「見ようとしなかった」視点で問題を再検討するのです。婚外子は欧米先進国の実状が、人工妊娠中絶件数は実際にわが国で発生している「出生できたかもしれない」子どもの数です。これを対策に生かさない法はありません。おとなたちが自分たちの「固定観念」、古い、伝統的と偽わられた「価値観、道徳観」の強制を改めればよいのです。

 

 少子化問題は「若い人たちの価値観」にもとづいた政策を中心に据えるべきです。古い価値観の老いた「有識者」や成功体験にしがみついた「大企業の社長や元高級官僚」、使い古された理論や通説で政治家と官僚が作った政策では決して解決しないことはこれまでの少子化対策の歴史が物語っています。

 

2025年6月18日水曜日

少子化問題もう一つの視点

  わが国の出生数が2024年始めて70万人を割り込んで68万6061人(前年より約4万人減)、合計特殊出生率は全国平均1.15で過去最低になりました。国の想定よりはるかに早く80万人割れからわずか2年で70万人を割ったことは少子化の深刻さが放置できないレベルに達していることを示しています。岸田総理の異次元の少子化対策――「加速化プラン」はなにを加速化しようとしたのでしょうか。

 

 これまでの少子化対策は「子どもを生み育てやすい環境づくり」にまとめられます。そして待機児童の解消、放課後子ども総合プラン、多様な保育サービスの充実、、希望の教育を受けることを妨げる制約の克服といった子育て支援策が打ち出されました。それは若者の雇用安定・待遇改善、働き方改革の推進、非正規雇用の待遇改善といった働き方支援のかたちで充実が図られ経済的な支援としては児童手当の充実、育休・時短勤務の推進、出産費用の補助、高等教育費用・奨学金の拡充が行なわれました。

 にもかかわらず少子化に歯止めはかからなかった、のです。

 何故かと考えると少子化は「晩婚化、未婚化、晩産化、無産化」といった社会的な風潮の結果であるにもかかわらず国は見当違いの支援や方策を繰り返してきたからとはいえないでしょうか。

 

 そこで視点を変えて一つの指標に注目してみようと思います。「婚外子比率」です。婚外子とは結婚していないカップルの間に生まれた子のことで非嫡出子ともいいます。(戸籍上は母親の戸籍に入ります。父親の認知は戸籍とは別問題です)

 世界の主な国別「婚外子比率」次のようになっています。

 フランス61.0%スウエーデン54.5%イギリス48.2%アメリカ40.0%イタリア35.4%ドイツ33.3%。これを出生総数から実数を換算するとフランス41万人スウエーデン32万人イギリス32万人アメリカ149万人イタリア14.5万人ドイツ74万人になります(婚外子率はイギリスは2017年、その他は2019年のもです。出生数は2021年のものを使用しました)。

 これに対してわが国は2.4%(2020年)婚外子数19,600人です。この圧倒的な差はどうでしょうか。もしこの比率が25%になれば約20万人、40%なら約30万人になりこれを70万人に加えれば約90万人から100万人になります。少子化は一挙に解決です。ちなみに韓国は2%から4.7%がここ4、5年の傾向で中国はデータがありません。

 

 この数字をどう考えるか、です。わが国では「戸籍」に登録する結婚を前提としてその後の出産・子育て・教育への支援を行なうことで少子化を脱しようとしてきました。当然のことながら経済的・社会的権利や補償・補助も結婚届を出す出さないで大きな差が生じる体制になっています(戸籍制度があるのはわが国以外では韓国と台湾だけですがこれもわが国の植民地化や統治の影響です)。ところが世界の先進国は「事実婚」が趨勢となっており半数を超える国や4割を超える国がほとんどです。

 ということは「出産」に至る道が多様化しているということです。婚姻届を出して「家」を継承し「同一の家(氏)」を家族連帯の基礎とすることを「出産」への唯一の選択肢(僅かな事実婚はあるものの)としている現在のわが国の社会的状況では少子化対策にいくら予算をつぎ込んでも「少子化」を止めることはできないということを意味しているのではないでしょうか。「選択的夫婦別姓」でさえも保守層の一部の頑強な反対で実現できないでいる今のわが国では少子化は加速化こそすれ歯止めなどできるはずもないのです。

 

 生殖に至る性行為は個人的かつ生理的(動物的)衝動にもかかわらず現在わが国で行われている「少子化論」は社会的・経済的側面が主でありかつ偏った伝統的道徳観との整合性が論じられています。「事実婚」は今のわが国では社会的承認以前に止まっていますし経済的地位もあやふやで伝統的道徳観に固執する一部の保守層からは非難さえ受けているのが実情です。欧米先進国では最低でも4、50万人、ドイツでは70万人アメリカに至っては150万人近くを占めている「婚外子」を排除するわが国の「少子化政策」が、その費用対効果において膨大なる「ムダ」を流しつづけているのは至極当然の結果なのです。

 「少子化問題」の本質は極めて「道徳的・倫理的」であり「個人的な幸せ」の問題なのです。事実婚を受け入れる「道徳的(倫理的)」土壌を醸成しどんな「幸せ」を結ばれる「ふたり」に約束できるかという問題として論じられるべきなのです。

 

 上に述べましたが韓国も我が国同様婚外子率が極めて低いのですが中国はつい最近まで「一人っ子政策」を厳格に実施していましたから婚外子の多いはずもありません。さらにこの三国はジェンダーギャップ指数が先進国中最低ランクという共通点もあります。韓国は94位中国106位、わが国は何と118位です(2024年)。そしてあえて付け加えるなら一時代前までこの三国は儒教思想が非常に強く残っていた側面もあります。

 こうしたことを前提にわが国の社会経済状況を考えてみると、離婚割合(離婚数/婚姻数)が3組に1組以上(18万3千組/47万4千組―2023年)と非常に多い上にシングルマザーの収入(年)が約306万円と子どものある非離婚家庭(745万円)の半分にも満たない低所得にあえいでいる現状があります。

 

 こうしたわが国の状況をまとめてみるとこんな風に言えるのではないでしょうか。

 結婚をしないカップルが子どもを持とうとした場合男性はそうでもないのに、女性に対してはふしだらだとかだらしがないといった蔑視の非難が強く、子どもが欲しいという願望が強くあえて子をもうけても離婚の可能性は決して低くなくシングルマザーの年収は300万円少々と低所得を覚悟しなければならないのです。

 これでは女性が婚外子を持とうという決断をためらうのは当然ではないでしょうか。

 

 もし子どもが「社会の宝」だというのなら、そのカップルが婚姻届けを出しているいないで祝福されないカップルの子どもという烙印を押されるような差別はあり得ないのではないでしょうか。婚外子の誕生を社会がこぞって祝福するような寛容で包摂的社会を実現することが多子社会を実現するもっとも可能性の高い道なのです。

 選択的夫婦別姓はそのような社会を実現するための最初の一歩に過ぎないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年5月26日月曜日

渡来人のことなど

  古事記の〈中つ巻〉「応神天皇」の段に別に章を設けて「渡来人」についての記述があります。概要を記すと次のようになっています。

 新羅から渡り来たった人びとを使って武内宿禰が百済池を造った。亦百済王に「賢しき人」を貢上(たてまつ)れと命じて和邇吉師(わにきし)という人が論語と千字文をわが国にもたらした。又秦造(はだのみやっこ)、漢直(あやのあたひ)の祖(おや)、仁番(にほ)亦の名、須須許理(すすこり)が渡来した。この須須許理は醸造の業をわが国に伝えた人である。

 秦氏などの渡来人は土木業にすぐれた技を伝えその後のわが国の国家建設に絶大な影響力を及ぼしましたし論語と千字文を伝えたことで「文字」をもつことのできたわが国は「野蛮」から「文明」の段階に成長できる礎を築くことができたのです。

 西郷信綱の『古事記注釈』によると、秦氏とは百済の百二十県の人びとを率いて帰化した氏族で、秦始皇帝三世孫・孝武王の出自であるとあります。もちろんこれを額面通りに信じることはできませんが、秦氏の多くが渡来人でありながら伴造に任じられるに至った経緯を神格化したものと解釈すべきでしょう。また漢直についても十七県を率いて渡来したとあるのは秦氏と同じ論理でしょう。

 この渡来人の章で特に目を惹く記述があります。「平安初期に作られた『新撰姓氏録』には、京畿に住する有力千八百八十余氏の出自を(略)かかげているが、うち中国系を称するもの、朝鮮半島系を称するものそれぞれ百六十余氏、併せて三百三十氏に及んでいることをいっておく」

 

 京都を中心とした畿内の1880氏の内の330ですから単純に言って17.5パーセントを渡来系が占めていたというのですからこれは驚きです。京都の右京区は秦氏の根拠地で太秦(うずまさ)という地名が今もありますし、近くの蚕ノ社は秦氏のもうひとつの主業養蚕と職(はたおり)の主神で、また松尾大社稲荷神社を奉じ殖産と致富にたけた大族であったことは周知のところですがそれにしても渡来系の人たちが二割近い人口を占めていたという事実は無視できません。当然同じ地域に住しているのですから異種族間の婚姻も多く成立したでしょうから何世代も累ねるうちに完全な混血種に変貌し今日に至ったとみるのが正常な見方でしょう。

 私たちのちょっと上の世代――昭和ひとけた生れ以上の人(戦前の教育を受けた世代)には学歴に関係なく桓武天皇の母后――高野新笠(たかののにいがさ)が渡来人二世であったことは常識になっています、少なくとも京都では。

 

 又「仲哀天皇」の段には「神功皇后の新羅征討」の章があります。これが後に「神功皇后の三韓征伐」となって日本不敗神話の嚆矢となり、蒙古襲来、日清・日露と不敗を誇る我が日本は神国であるから聖戦「大東亜戦争」は負けるはずがないのだとして第二次世界大戦へ突入していった、そうした戦前の国民思想の源流となったとしたら『古事記』は不幸な読まれ方をしたものです。曲がりなりにも戦前世代に属する私も長い間「不敗神話」を信じていました、周りの大人からのまた聞きの知識としてですが、それが二十年ほど前「白村江(はくすきのえ)の戦い」を知って呆然としました。天智2年(663年)新羅に滅亡された百済からの要請にこたえて救援軍を送った日本・百済連合軍と唐・新羅軍が白村江(現在の錦江河口付近)で戦闘、わが国連合軍が完敗した戦争です。学校の歴史でも習わなかったし歴史小説にも白村江の戦いは出てこなかったのでまったく知識をもっていませんでした。60才を過ぎて日本史の専門書を読んでこの「百済の役」を知ったのです。考えてみれば秀吉の朝鮮出兵も結果的に軍を引かざるを得なかったのですから敗戦に他なりません。出世譚太閤記として神格化されてきましたから「敗戦」ということばの使用を憚られたのでしょうか。

 

 永らくわが国では「不敗神話」と共に「万世一系の単一民族」という神話が罷り通ってきました。それがベースになって今の「ヘイト」につながっています。しかし上に述べた渡来人の記録を真摯に受け止めれば「日本民族」は大和民族と中国系と朝鮮半島系の渡来人との混血と見るのが正当な考え方でしょう。文字や仏教の伝来という日本文化の基礎も渡来人によるものですから保守の一部の層の中国や韓国(朝鮮半島人)を敵視する考え方が馬鹿馬鹿しくなってきませんか。明治維新政府が作った歴史――特に戦前政府の戦争貫徹のための「皇国歴史」から脱却し東アジア史のなかの日本歴史という視点を子どもたちには教えてやりたいものです。

 

 古事記を読んでいてつくづく思うのは「権力者は歴史をつくる」ということです。自己の権力の正当化のために都合よく歴史をつくるのです。ひとつ例を挙げれば古事記における「出雲」の扱いです。実際は勢力均衡して永い「権力闘争」があって正邪の関係が成立したのですが古事記では完全なる従属関係で出雲は描かれています。

 

 ここで持ち出すのも憚られるのですが最近の自民党西田昌司参議院議員のひめゆりの塔をめぐる「沖縄発言」と「歴史の書き換え」を一緒くたに論ずることはできません、まったく次元の異なる問題です。彼の発言は単なる勉強不足、無学・蒙昧の極み以外の何ものもありません。彼は京都選出の議員ですが沖縄戦の最激戦地であった「嘉数(かかず)の戦い」の主力部隊、第62師団石部(いしぶ)隊の多くが京都出身者で編成されていたことを知っているでしょうか。その嘉数台公園にある「京都の塔」に2563柱の霊が合祀されておりその碑文にはこう記されています。

 高台附近は主戦場の一部としてその戦闘は最も激烈をきわめた。(略)この悲しみの地にそれらの人びとの御冥福を祈るため京都府民によって「京都の塔」が建立されるにいたった。/再び戦争の悲しみが繰りかえされることのないようまた併せて沖縄と京都とを結ぶ文化と友好の絆がますますかためられるようこの塔に切なる願いをよせるものである。

 もし彼が京都の歴史を学ぶなかから政治に志すに至っていたとしたら沖縄に行ったらしい30年前であったとしても京都の塔を訪れていたはずですが彼はそうはしていなかったようです。

 

 そんな彼ですから北陸新幹線延伸計画で「京都縦断ルート」という「千年の愚行(京都仏教界)」を与党の「整備委員会」委員長として推進しようとしたのです。

 京都盆地の地下には約211億トンという琵琶湖に匹敵する豊富な水量の水瓶(京都水盆)があります。この水のお陰で京都の産業と文化は栄えてきました。西陣織や京友禅、伏見のお酒も京豆腐、京湯葉と数え上げればキリがないほどそのめぐみは豊かです。またこうした地下水による「均衡」が京都盆地の安定につながっているかもしれません。工事は「大深度地下(地表から40米以下)」を貫く工法が予定されています。当然地下水への影響は無いとは言えないでしょうし万が一「濁り」がでるようなことがあれば産業への悪影響は免れませんし発生する大量の「残土」はどうするのでしょうか。地下水の移動が起れば地盤は均衡を保ったままでいられるのでしょうか。

 不安満載のこんな計画を詳細な調査も行なわず市・府民への説明不十分なまま何故断行しようとするのでしょうか。彼は京都の人なのでしょうか。郷土愛――京都を愛しているでしょうか。

 

 

2025年3月17日月曜日

大団円

  晩年の読書を始めるに当たって、というほど大げさなものでなく目的とか大方針などというものなく、ただ60才もすぎて閑もできたから読書を生活の中心にしようという程度のものでしたが、『草枕がちゃんと読めるようになりたい、くずし字が少しは書けるくらいの素養は身につけたいという願いは微かに秘めてスタートしました(漱石の『草枕』の漢詩のところでいつもつかえるのがもどかしく展覧会などで「書」を見てもほとんど読めないのを日本人として恥ずかしいと思っていました)ただ「読書履歴」を記録すること、買った本の奥付に購入年月日、読了したらその日と簡単な感想を裏表紙(表3)に書くようにしました。相前後してこのコラムの連載を始めたのですから今ある私の背骨のようなものを意識してでなく、今から思えば巡り合わせのように何となく始めていたのですから「行きあたりばったりの人生」の私らしい転機でした

 もう一つ、これははっきりとこれからの人生の指針にしようと決意させてくれたの立花隆さんの「私は勉強が好きなんですね」という言葉です。NHKの彼のドキュメントの中でちょっとはにかむように呟いた一言でしたが私には響きました。読書の三分の一以上は専門書で「学びが好きで読んでいましたが「勉強」という言葉に気恥ずかしさを覚えて人には「知識欲」と言葉を装うところがあったのですがこの立花さんのことばを聞いたあとは心から勉強楽しめるようになりました。多分私の他にも好きなこと、得意なことが勉強(もっと上等な人なら研究)――本人は気づいていないかもしれませんが――多いはずです。それなのに定年後の生活をいかに過ごすかを新たな趣味に求めたり慣れないボランティアを始めたりして不本意な晩年を送っている向き多いのではないでしょうか。そんな人に心から「勉強は楽しいですよ」と言ってあげたい、トーマス・モアも「ユートピア」に書いているではありませんか、「精神の自由な活動と教養を習得することこそ人生の幸福だ」、と。

 このコラムを20年つづけてきてつくづく思うことは、我々ほどパラダイムシフトの変遷に翻弄されてきた世代はないのではないかという感慨です。戦争、戦後民主主義、高度成長、バブル、失われた30年、新自由主義、コロナ、そして生成AIと少数与党。この間にオーム真理教の地下鉄サリン事件と3.11福島原発事故があって戦後が精神的、物質的に否定され、更にリーマンショックがアメリカ資本主義の失敗を突き付けました。しかし残念なことはこれらの経験が蓄積となって思想として統合されずに「上書き」されてきたことです。前のパラダイムは無かったこととして今の流行に被われてしまいそれは又次に書き換えられる……。

 いまトランプ大統領は「外交」を「ディール」と言い換えアメリカを振りかざして混乱を楽しんでいるようですが「外交はディールではない」のです、いやあってはならないのです。それがふたつの全面戦争を経験した人類の英知なのです(国連はその重要な達成のひとつです)。よしんばディールだとしても彼は「優越的地位の濫用」を行なっていますから「正当なディール」ではありません。どうして世界中が彼の「ディール」を認めてしまうのでしょうか。

 中国の海洋進出、ロシアのクリミア略奪とウクライナ侵略、そしてトランプの傍若無人なアメリカ第一主義。大国のエゴだったはずの「グローバル主義」が結果として小国の存在意義を高め無視できない勢力として浮上する中で「無極化」を受け入れられない大国の最後の「あがき」はいつになったら終局をむかえることができるのでしょうか。

 

 2006年4月13日「二番札の知恵」で連載を始めたこの「市村清英のコラム」も今日で1000回を迎えることができました。先輩の勧めで建設関係業界紙のWeb版の片隅に載せてもらってから20年、200回を過ぎたあたりで新聞との関係が切れて頓挫しかかったこともありましたが、誰の束縛も受けない生活の「けじめ」がなくなると折角「晩年」を無為にしてしまいそうで怖いという怯(おそ)れがあってその臆病さが支えとなって今日まで継続することができました。上にも書きましたがスグに「リーマンショック」があって東北大震災、安倍一強にコロナがあって長いデフレがつづいて、右傾化と価値観の多様化が現出、「格差の拡大と分断」が進行して週一回のコラムでは収まりきらないほどつぎからつぎへと問題噴出の20年でした。やっつけ仕事はしたくなかったので読書とデータの裏づけを欠かさない毎日が80才を過ぎた老書生には忙(せわ)しなくなってきました。

 そんな時期に丁度1000回が来たのは巡り合わせかもしれません。思い切ってコラムの連載をここで終わりにしようと思います。人生百年時代の83才は「晩年前期」という区切りにもふさわしいころ合いです。

 今後についてですが、インプット(読書)はこれまで通りつづけますからアウトプット(発表)もするでしょうが、不定期に――気ままに、そしてもっと深みのあるものを書きたいと思っています。そのためではないのですが今の楽しみのひとつはわが国の古典(学校で習った古文)を注釈書を手引きに読むことです。これが面白いのです。古代や中世の日本人の感じ方や考え方が現代に生きるわれわれの深層心理に息づいているのが分かるのです。今は『古事記』を西郷信綱の注釈で読んでいますが全八巻の第六巻に至るのに半年かかってのんびり楽しんでいます。もうひとつは「手習い」です。つづけ字で百人一首を毎日一首、漢字は三体千字文の一句を三年ほどつづけていますがようやく筆が手になじんできました。これからが精進です。最近になって孫に絵本を書いてやりたいとイラストのまね事をはじめました。これを入口に絵も描いてみたいですね。

 晩年後期はからだ次第です。明日ベッドに臥せざるを得なくなるかもしれません。反対に5年10年先まで健康に恵まれて晩年を楽しんでいる可能性もあります。ご同輩の皆さんの一日も長い健康を祈っています。長いあいだ御つき合いいただきありがとうございました。

 

 

 

2025年3月10日月曜日

健康日誌

  80才を過ぎてから急にガタが来ました。これまで軽度の高血圧以外にこれといった持病のなかったのが奇跡みたいなものでここにきて肉体の衰弊が一挙に表面化してきたようで一昨年(81才)5月の連休前に肺炎、昨年(82才)は夏に左膝を痛め今年(83才)は早々に痔核(イボ痔)に罹るに及んでさすがの楽観輩も老いを自覚せざるを得なくなりました。幸い肺炎はかかりつけ医の好診断で十日で完治、膝は最低でも一年はかかるといわれていたのが年末にはほぼ旧に復し痔核も三月中には平常に戻りそうです。重篤な症状に至らなかったのは「早期発見早期治療」のお陰でその因は「健康日誌」にあると思います。

 三十年ほど前に高血圧を告げられ以来降圧剤の服用を続けていますが症状は安定していて二ヶ月に一度の受診は施薬を受けつつ定期健康診断の意味もあって今では生活の一部になっています。25年ほど前にPCを使うようになって「血圧測定表」を作り、その際血圧だけでなく体重(体脂肪率共)、体温も項目に加えました。備考欄を設け体調の変化に気づいた時には記入するように努めました。どの項目も当たり前すぎるものですが意外と体調の異常を伝えることに気づきました。体重は簡単に1kgほどは変化するもので食事を注意することで1kgの範囲内に制御すれば正常といえます。体温は個人差があることを知り36度を境に3分程度の高低は気にする必要はなく風邪を罹いたときの高熱も私の場合は37度台で留まることを把握していました。それが肺炎の時は38度を超えたので医師に相談したらスグに検査してくれて早々に肺炎と診断、施薬、点滴と安静で短期に快癒することができました。痔核も便通の僅かな違和感を日誌に書いて、1週間経ってもそれが消えないので医師に大腸がんの検査の相談をしたところ肛門科の受診をすすめられ指示に従った結果痔核と診断されたのです。

 

 高齢を累ねれば身体に衰えが現れるのは生理の当然で、それを感じ正しい対処をするのが「百年時代」の「健康年齢維持」の要諦です。感じるためには「計測値」があれば自覚的に感じられ数字に表せない体調の変化を書くことで微妙な異常を摘出することにつながります。「書く」ことは重要で、面倒くさい計測を無理なく行えるようになり体調の変化に敏感になって身体と会話ができるようになります。「自分の身体のことは自分がいちばん分かっている」とよく言いますがその通りなのですが、「気づき」をほったらかしにせず「書く」ことで情報化しておけば違和感や異常を感じたときに論理的に判断がつき、医師にも系統立てて情報を伝えることができますから診断が精確になるはずです。

 60才を超えて、幼少時に小児結核を患い幸運にも抗生物質の出現に救われ生年(しょうねん)を重ねることができましたが健康には根本的に自信がなく老年を迎えて細心の注意でもって当たろうと考えました。内科は高血圧の定期検診でまかなえるとして眼科と歯科の定期検診を受けることにしました。お陰で今でも自前の歯で食事を味わえていますし目が健康ですから根気よく読書もできています。また年とともに全身がカサカサになり不快感がつのるようになりましたので皮膚科も受診しています。体力は最低レベルでしたからテニスをはじめることにしそのための肉体改造を試みました。鍛錬というものに人生初めて挑戦し、毎朝太陽とともに起床、ストレッチとインターバル速歩などで1時間ほどの運動に努めました。決まった時間に食事を摂り晩酌を控えるようにし休肝日を月3日もうけることを目標にしました。禁煙は意外と簡単に64才で達成できました。

 成り行き任せで生きてきましたが晩年を迎えるにあたって「健康」という目標を立ててから約20年、曲がりなりにも継続できて今日の健康に繋がったと思います。虚弱な私を支えてきてくれた妻に、経済的に報いることはできませんでしたからせめて晩年はそんな不安から解放して仲の良い五姉妹の交流が楽しめるようにしてあげたいという思いがあったからつづけられたと思います。

 

 健康を考えるとき「喫茶店」は私にとって欠かすことのできない習慣でした。22才で社会人になって東京の神田に勤めるようになって近くの「サボール」という喫茶店に通うようになって以来の習慣ですからもう60年になり生活の一部です(いつだったか歌手の谷村新司が若いころ馴染みの喫茶店がサボールだったと言っているのを聞いて驚いたことがあります)。晩年になって喫茶店で過ごす毎日1、2時間のとりとめのないおしゃべりは恰好の気散じです。なにより60才を手前に西陣から桂に転居してなんの屈託もなく地域に溶け込めたのは喫茶店のおかげでした。その喫茶店も三年前に店じまいすることになりどうなることかと案じましたが初孫を授かるという僥倖に会いこれまで経験したことのない生きがいを得ることになったのは何という幸運でしょうか。

 年に1、2回会って酒を酌み交わし馬鹿話をする友人が何人かいます。年に数回の交歓は若いころそのままの話題が齢を忘れさせてくれて日の高いうちに呑み始めて夜の9時10時に及ぶこともあって楽しみな年中行事です。

 毎朝のトレーニングの最後は近所の公園でラジオ体操をしますが20年以上顔を合わすメンバーがいます。深いつき合いはありませんが二言三言交わす言葉で互いの健康を喜び合う毎日です。この公園のゴミ拾いと野球場の管理も20年近くつづいていますがこうした「つとめ」があるから少々の体の変調があっても朝トレを休まずつづけられているのです。

 精神的な健康を考えるとき毎朝お仏壇に向かって般若心経を誦唱する習慣は重要です。病弱だった私に祖母が仏さんのお世話と般若心経を唱えさせたのが今に至っているのですが、晩年になって先祖と向き合う五分ほどの時間は心を「空」にする貴重な時間になりました。瞑想に近い数秒の精神状態が身体にもたらす影響は私の健康に少なからず恵みを与えてくれていると思います。

 

 「百年時代」になって自身も「晩年前期」から「晩年後期」に至らんとする時期になってみて、健康年齢が維持できているこれまでを振り返って見ると、「測る」「書く」「話す」がうまく機能してきたことに気づき、これからは自覚的にこれを継続していけば「満願上がり」できるかも知れないと思った次第です。

 

2025年3月3日月曜日

AIとSDGs

  トランプ大統領の野蛮で暴力的な言動やイーロン・マスク氏の軽薄で浮かれポンチな振る舞いを見ていると超大国アメリカの断末魔の叫びを聞いているような思いに駆られます。第二次世界大戦が終わって世界が破壊と疲弊にあえいでいる中で唯一無傷のアメリカがそのアドバンテージを謙虚に受け止める恭謙さもなく圧倒的な経済力と軍事力を振りかざして世界を睥睨しました。あまつさえ「世界の警察」を気取り発展途上・復興途上の国家・民族の軋轢に容喙しながら結局中途半端な責任放棄の挙句混沌を世界に撒き散らして現在に至っているのです。世界標準と乖離した豊かさを浪費する「アメリカンスタンダード」は製造業のグローバル競争において完敗を招き「ラストベルト」という格差と分断をもたらしました。それを挽回すべく金融と情報という「新産業」を産みだしたのですが裾野の狭さは製造業ほどの雇用創出につながらず、そこに包摂されなかった層との間に「富の偏在」による「格差と分断」に拍車をかける結果に陥り、とうとう「トランプとマスク」という最悪の「政治状況」を現出してしまったのです。

 アメリカの混沌につけ込んだイスラエルはハマスの愚挙をこれ幸いと「確信犯的」なジェノサイドと復興不能な壊滅的な破壊を行いガザからパレスチナを強制的に退却させようとしました。世界的な批判にもかかわらずアメリカが野放図なイスラエル支援を継続したのは、自らが招いた混沌の中東にあって「唯一の橋頭堡」イスラエルを失えば中東をきっかけとしたグローバルサウス勃興が抑制不能におちいりその結果「世界の強国のひとつ」に成り下がってしまうかもしれない「恐怖」にかられたからです。それはプーチンのウクライナ侵略に対しても同じ構図で、ある意味でアメリカを見限ったヨーロッパをこれ以上「反アメリカ」に傾斜しないようにロシアを対抗勢力として配備することでヨーロッパに睨みを利かせる効果を図る意図が見え見えです。それは対中国戦略としても有効で、今やアメリカの10%にも満たないGDP世界11位の老大国ロシアを「核兵器大国」としてユーラシアに残しておくことで「米中ロによる世界均衡」を保持しようという危険な賭けにトランプ・アメリカは踏み出そうとしているのです。

 

 戦争・紛争・内乱はウクライナとガザだけでなくスーダン、シリア、イエメンでも長期化しておりハイチ、レバノン、コンゴ民主共和国の人道危機は深刻化しています。ミャンマーの軍事独裁政権によるアウンサンスー・チー氏の幽閉も4年になろうとしていますが解決の見通しはたっていません。こうした現状を鑑みると「平和」を享受している国は世界のほんの一部に限られていて、何らかの不安定要素を帯びた国々を含めて世界は未だに「戦争と飢餓」の人類の宿痾から解放されていないのです。経済・社会の発展段階に注目すれば農業・漁業を主産業とする段階に止まっている国から製造業を主とする産業資本主義の段階を超え金融・情報産業に進展した「ポスト産業資本主義」の国まで「多層」な国々が併存しているのが現在の世界状況です。にもかかわらず「AIを装備した新自由主義的資本主義」の「グロ-バル化」を「自由放任」にまかせて野放図に放置しておけば発展段階の遅れた弱小国はひとたまりもなくその暴力に飲み込まれてしまうにちがいありません。折りしもトランプ大統領はガザを富裕層のリゾート地化したSNSを自ら黄金像とともにアップしましたが現在のトランプ・アメリカを放置しておけばそれは決して絵空事ではないのです。

 

 そもそもSDGsはそうした現状に危機意識をもった世界の知性の警告であったはずです。従来のままの「生産」「消費」を繰り返していたらその影響は地球規模の環境の悪化や貧困の深刻化、生態系の破壊などの形で現れることになります。それでは人類の持続可能性が危ういので、「持続可能な開発目標」を共有して人類の調和ある発展を期そうと定められたのです。その17のゴールをここで発表する煩は避けますが「貧困」と「飢餓」からの脱却はそのゴールの最上位に位置づけられています。にもかかわらず2015年に定められたこのゴールは10年経ってむしろ遠ざかってしまっているのではないでしょうか。G20に象徴される先進大国はその経済力と軍事力を暴力的に行使して国家間の「格差」を拡大する方向に暴走しています。環境破壊はむしろ悪化していますし「難民」は「包摂」から「排除」に追いやられつつあります。

 

 トランプ大統領のアメリカの危うさはSNSのプラットフォームとAIを独占しているところにあります。先進国の人口減は製造業(農業を含めて)や政府機関(地方公共団体を含む)の業務のAI化ロボット化を必然化します。「効率化」は極大化され「生産性」はそれ以前と比較できないほど向上するにちがいありません。そうした先進国が「ニューフロンティア」を求めて発展途上の市場に土足で踏み込めば弱小国は「従属」せざるを得ないでしょう。しかしアメリカは「基軸通貨国」としての『責任』を完全に『忘却』して『放棄』して暴力的に「世界支配」しようとしているのです。少なくとも「トランプの4年」は既定の事実として暴走することでしょう。

 

 AIに対してヨーロッパは自制的に取り組んでいます。わが国はAIの発達を当然化してそのデータセンターに要する厖大な電力需要を満たすために3.11の教訓を投げ出して「原発回帰」を「国民の審判」を経ることもなく推進しようとしています。

 免許を返納して歩行と自転車が移動の手段となって気づいたことは、厖大な高速道路整備を含めて駐車場などの「自動車関連資産」へどれほどの税金を投入してきたことかということです。間接的な恩恵はあるとしても「自動車産業」という一産業の発展のために国家財政を限りなくその「育成と保護」に投入してきたのです。そして今度は「AI産業」です。しかもそのすそ野は自動車産業とは比較にならない狭い産業です。格差は今以上に広がることは明らかです。

 

 SDGsはこの10年間あらゆる分野で推進に努められたような印象を抱いていますが17のゴールのほとんどが未達成で、現状はますます遠のいていく方向に進んでいます。

 きれい事でなく「人類の知性」のマイルストーンとして世界が前向きに取り組むようわが国が働きかけることを願った止みません。

 

 

2025年2月24日月曜日

おもちゃがあぶない

  80才にして初孫を授かるという僥倖に恵まれて彼のまぶしいばかりの成長と急激な老いに見舞われる我が身との余りの落差に呆れるしかありません。80才というのはまぎれもなく人間の肉体の転換点であらゆる機能が衰えどんなに抵抗しても一段づつ、ハッキリと老いていくのをどうすることもできません。ところが彼はわずか十日も見ないと驚くべき成長を遂げていて、もどかしかったおしゃべりに論理が通るようになったり走るスピードがおばあちゃんが追いつけないほどにアップしていたりと圧倒される2才10ヶ月です。

 

 おもちゃと能動的に関わりだしたのはヨチヨチ歩きのころで、おじゃみと太鼓がお気に入りでした。おじゃみは最初3個で遊んでいましたがのちに6個になるほど遊びが広がったのは意外でした。それは太鼓も同様で、おもちゃ売り場では「3才~」のシールが貼ってありましたが与えると自分で遊びをつくりだして、特にバチは今でもいろんな用途に使っています。鬼のツノだったりロボットの足に見立てたりと。

 孫に大きな影響を与えたはじめてのおもちゃは「バイキンマン」のぬいぐるみでした。2才になる3ヶ月ほど前にやっとテレビが解禁になって「アンパンマン」にどはまりして、なぜかバイキンマンが大のお気に入りになりました。そして2才の誕生祝いに母親からもらったバイキンマンのぬいぐるみがそれまでの強度の「人見知り」を一挙に解消したのです。思うに、母親との「一体感」――母体との一体感がなかなか抜けなかった彼はおば(母親の姉)にどうしても懐かずそれどころか顔を見ると泣き出す始末です。想像するに遺伝的に母親と同じものを感じて母親が二人いるような思いに襲われて不安と恐怖を感じていたのではないでしょうか。そんな彼の自分と他者の分離感が、いつもテレビで見ているバイキンマンが自分の手の中にあるという経験がバーチャルとリアルの弁別を植えつけ、そのことで自分と他者との弁別――母親から切り離された自分という存在を無意識に認識できたのではないでしょうか。それで母親とは別におばちゃんという存在があることを受け入れ可能にし、他者というぼんやりとした不安な存在も受け入れられるようになって人見知りの解消に繋がったのではないかと思っています。

 

 知能の飛躍という意味では父親の与えた「バイキンマンUFO」と「バイキンマンロボット・だだんだん」です。機械音痴の私なら絶対に与えない(2才にはムリだろうと敬遠する)おもちゃ――「UFO」は最低でも3才、「だだんだん」は3才後半いや4才でもちょっと手こずるであろう難度の高いおもちゃです。とりわけ「だだんだん」は部品点数が30コを超える組み立て、電動式おもちゃです。その「UFO」をやすやすと操作すると、「だだんだん」の部品を根気よく黙々と組み立ててスイッチを操作して動かして、分解して、また組み立てるのです。半端でない根気と集中力で知能を活用、進化させて彼はこのおもちゃを征服しました。

 

 三つめは私が与えた「磁気式のお絵描きボード」です。親の与えたクレヨン(外国製の安全仕様)は使い勝手が悪く彩色がつきにくいので「描きたい意欲」が満たされず不満を感じているように見えたので2才になって間もなくのころプレゼントしました。実は「磁気式」でない紙に絵の具で描くものが欲しかったのですが売ってなくて仕方なく購入したのですがこれが良かったのです。力が要らないから筆運びが自在で、好きに描ける上にサッと消せる機構になっているのでジャンジャン書きまくれて大喜びです。ちょうどフォルム認識ができる時期と重なったのかお絵描きが格段に上達しました。絵が上手なお父さんと一緒にお絵描きを楽しむようになり保育園で先生に褒められてご満悦だったようです。

 

 バイキンマンの縫いぐるみ、UFOとダダンダン、お絵描きボード、どれも親(おとな)の想像を超えた能力を発揮させました。ところが今の「玩具」は「知育玩具」という位置づけでおもちゃに「おとなの用意したあそび」が指定されていて「適用年齢シール」が貼り付けてあります。親たちもシールを頼りにおもちゃ選びしています。しかしおもちゃは「あそび道具」です。子どもを見ていると何が面白くて?と思わされることが度々あります。遊びは子どもの創造力がもっとも発揮される領域でそれは大人の想像をはるかに超えるものであってほしいのです。その創造力を「知育」の名のもとに「限定」するような「おもちゃ」を選んで、あたら子どもの成長を「限定」しているのが今のおもちゃを取り巻く環境になっています。

 さらにおもちゃ屋さんが少なくなりました。「トイザらス旋風」が吹き荒れたのはもう30年以上前でしたが町のおもちゃ屋さんが一気に減って、百貨店のおもちゃコーナーも狭くなって、しかしその「トイザらス」も今や縮小傾向です。トイザらスは年令別にカテゴリー化した知育玩具と高額化で品目を増加させましたが子どもの創造性を生かせる「汎用性」のあるおもちゃ(だいたい安いものです)は少なく、つまるところ子どもにとって「おもしろい」おもちゃがすがたを消したのです。子ども部屋はおもちゃであふれかえっていますが年齢とともに「用済み」になったおもちゃの行く末は片隅(か地下室)のゴミ箱です。 

 

 おもちゃで遊ぶ創造力を限定され、幼稚園から塾と習い事で「与えられる」ことに慣れてしまった幼児期の子どもたちが、学校教育で創造性を発展させることは可能でしょうか。

 今、おもちゃがあぶない。初孫を授かって、老婆心ながらそんな歎きをつぶやきつつ成長を願っている今日この頃です。