2024年12月23日月曜日

今年はいい年でした

  今年もあと十日足らず。振り返って見るとまあまあ良い年ではなかったかと思います。

 まず第一は被団協(日本原水爆被害者団体協議会)のノーベル平和賞受賞です。ロシアのウクライナ侵攻、ガザ地区でのイスラエルとハマスの紛争のどちらでも「核兵器攻撃タブー」が無視されかねない情勢の中、被爆者の長年にわたる核兵器禁止の訴えが「人類の平和」に貢献したと評価されたこの平和賞の世界に与える影響は決して小さくありません。プーチン氏が使用をちらつかせている「戦術核兵器」というのはどれほどの破壊力があるのかというと広島長崎に投下された原爆と同じ程度と推定されています。それを彼らは「被害がそれほど破滅的でない実際の戦争で使用可能な原爆」といい、ウクライナで、ガザで使用するかも知れないと『脅し』をかけているのです。彼らは田中(被団協代表委員)さんのこの言葉をどう受け止めているのでしょうか。

 

 たとえ戦争といえども、こんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけない。私はその時、強く感じた。

 

 彼らは原爆の殺傷力の実際を知らないのです、知ろうとしないのです。通常兵器の『殺傷』の程度の激しいものと誤解しているのです。しかしそれは人類がこれまで経験してきた『殺傷』とは次元の異なるものです。ギロチンや股裂きの惨たらしさとは比較できない――人間が他者に与えてきたどんな『暴力』とも異なる『非人間的』な『殺傷』なのです。また今ドローンや無人機で、一部では「AI兵器」で殺傷が行われていますがこれも「非人間的殺傷」でこれまでとは次元の異なるものです、それは人間が他者を殺すことの心理的な傷から「逃避」できるという意味で「兵器の概念」を覆す「非人道的」兵器で早急に「使用禁止」を講じるべきです。今ここで人類が兵器に関して根本的な見直しを行わなければ、今後文明がどんなに「進歩」したとしても人間としては完全に『堕落』した次元に陥ってしまうのは間違いありません。

 

 平和賞受賞に関してもうひとつ嬉しいことは「高校生平和大使」の存在です。受賞発表の会見場に代表理事の隣に高校生の男女が並んでいて喜びを共にしている姿に驚きを隠せませんでした。これまでのどんな受賞会見でもこどもが同席することなど経験したことがありません、それが堂々と、普通に、理事の受賞コメントの次に彼らが同格で喜びの言葉を述べたのですから新鮮でした。そしてそれはオスロ(ノルウェー)でも見られました。現地の高校生と交歓して一緒に世界平和、核兵器禁止について堂々と発言する姿に次世代に希望を託することのできる安心と喜びを感じました。

 それにしても「唯一の被爆国」を常套句とする我が国政治家はなぜ「核兵器禁止条約」に参加しないのでしょうか。

 

 自民少数与党――これも新しい可能性の発現と感じました。長い自民党単独政権――とりわけ安倍一強の12年は「国会軽視」「言論軽視」の民主主義の危機の時代でした。

 三分の一に満たない「民意」をもって「少数の既得権者」の利益を野放図に拡大するアベノミクスは日本経済と社会に深刻な「格差」と「分断」をもたらしました。超金融緩和策に要した資金は20兆円、その後遺症である「円安」「物価高」対策に12兆円。これだけの資金を投入したアベノミクスのもたらしたものは4万円の「株高」と600兆円に上る大企業の「内部留保」の積み増しです。加えて43%の企業税率の23.2%に引き下げもありました。

 国民――家計の可処分所得の増大が国民を豊かにして消費の拡大につながる、これこそ経済政策の目的であるはずなのに莫大な資金を投入したアベノミクスはこの目的をまったく達成できなかったのです。今年の賃上げは大企業で5%超を達成しましたがそれでも定期昇給分を差し引けば物価高を克服していません。国民の過半を占める中小企業に勤める国民の「実質賃金」は物価高以下に止まっています。

 自民少数与党になってようやく「103万円の壁」問題を橋頭堡として国民を向いた経済政策が展開されそうな気配が見えてきました。178万円に可能な限り近い「非課税」を約束した自民党は早くも「123万円」という「ナメ切った」対応をしましたがいずれ――来年2月までには国民の納得を得る解決策に落ちつくことでしょう。

 政治資金の透明化と改正も「政策活動費の全廃」という半年前には想像もできなかった成果をもたらしました。「企業団体献金の禁止」に自民党は徹底抗戦するでしょうが今までのような「裏金」が堂々とまかり通るような企業献金は姿を消すことでしょう。一気に「清浄化」は無理でしょうが少しでも「正常化」につながる希望が持てる状況は嬉しい限りです。

 

 小泉改革からアベノミクスとつづいた自民党政治の最大の欠陥は、なんでも「自己責任」を押しつけたことだったと思います。原因が構造的なものであったり制度的なものであるにもかかわらず「自己責任」で追いつめるだけで根本的な解決を図らなかったために日本経済の成長が阻害された側面は否めません。非正規雇用の拡大による「労働力の流動化」は日本経済成長の要である生産性向上にはいい結果を生みませんでした。人手不足の強制力によってこの傾向は是正されるでしょうが過剰な「自己責任」を押しつけられたその他の分野でも救済策が講じられることを願っています。

 そのひとつの是正効果が「生活保護の保護基準額の引き下げ取り消し訴訟」で原告勝訴判決が相次いでいることです。13年に安倍政権が実施した減額措置が生存権を冒すとして全国都道府県で取り消しを求めた訴訟で、コロナ禍や21年からつづく物価高によって受給者の生命維持が脅かされており減額の継続は「裁量権の逸脱」として違憲と断じられ、原告勝訴と国家賠償が認められたのです。生活保護制度は国民の最後のセーフティネットと位置づけられているにもかかわらず「自己責任論」を押しつけ補足率(必要としている層に対する受給者数)を15~20%に低迷させ利用希望者に辛抱を強いているのです。組織的な門前払いもあり勝訴をきっかけにこの制度の円滑な運用が図られることを期待します。

 とはいえ長年の安倍一強で歪められていた司法や行政が少しでも「公正・公平」な方向に是正される兆しが見えたことに安らぎを覚えます。

 

 いろいろあった令和6年(2024年)も先行きに明るさを感じながらコラムを終えることができて嬉しい限りです。もちろん世界の情勢は決して楽観を許すものではありませんが来年は膠着状態から脱せられそうな予感がしています。

 ご愛読を感謝するとともに来年が善き年になりますよう願っています。

 

2024年12月16日月曜日

体で感じる

  先週まで夏日だったのに今朝の最低気温は10度を切る冷たさ、と思う間もなく秋は過ぎて冬に突入。そんな今年の季節感であっという間に冬も本格化、天気予報は寒い寒いを連発、今朝の最低気温は4度ですから冬支度をお忘れなくと脅されて朝トレを怯んでしまいます。風邪もあって1週間休んでしまったせいか太ももの筋肉が少し痩せてきたので思い切って夜明けを待って外へ飛び出してみました。寒さはそれほどでなく公園へインターバル速歩で向かうとうっすらと汗ばむ感じ。そうか風がないのです。陽が昇る前後から2時間ほどは風はほとんどなくむしろ10時ころに気温は10度近くなっても風が強いと寒さを厳しく感じます。

 夏もそうで気温が30度を超す真夏日でも湿気が少ないとサラッとして過ごしやすいことがあります。気温と体感温度は風と湿度の相関関係で相当開きがあって個人差があります、自分の体で感じて判断するのが賢明なのに過剰な天気予報の情報に圧倒されて自分で判断する前に暑いと予報があればエアコンをガンガン効かせる、寒いと脅されて朝トレを休んでしまう。そんな習慣に馴染んでしまっているのが昨今の私たちではないでしょうか。

 今朝の公園には仲間の年寄りは一人もみませんでした。天気予報の情報でなく自分の体感で判断する、つい最近までそれが当たり前だったように思うのですが……。

 

 NHKのドラマ10「宙(そら)わたる教室」が終わりました。「科学の前ではみな平等」という理想を信じる科学者が定時制高校で起こした科学部を全国大会の入賞校に育て上げる「胸熱」ドラマです。前途を嘱望された若い科学者(藤竹)が主任教授の学歴によって有為の人材を排除する方針に抵抗、恵まれた環境を拒絶して独力で研究は継続する一方、定時制高校の講師を勤めるなかで生徒の幾人かに可能性を見つけ科学部を創設します。十代の女の子と二十代の元ヤンキー、フィリピン系の50代女性と70代の老人というバラバラなメンバーの興味を火星の特殊なクレーター、ランパート・クレーターの再現という目標に集約、各人のこれまでの経歴に根ざした視点と技能を藤竹がそれとなく引き出して実験を繰り返し一応の研究成果を得ます。そこで高校生科学大会に応募するのですが定時制の出場は前例がないと門前払いされます。失望するメンバーを鼓舞して研究をさらにレベルアップ、学会発表の高校部門に挑戦するまでに成長した彼らの研究はめでたく入賞を遂げるというのがあらすじです。

 ドラマのテーマの一つは環境次第で子ども(ドラマではみな成人ですが)の可能性は学校・学歴という枠を飛び越して存在するし開花することができるというもの。もうひとつは組織・制度の硬直化と差別が才能を劣化させたり枯渇させている現状への警鐘です。所得格差が拡大する現状は高等教育の機会不均等をもたらしており、そのことがわが国のイノベーション力劣化の原因となり経済成長を阻害している側面はもはや放置できないくらい緊迫しています。にもかかわらず政治は教育無償化に及び腰です。このままではノーベル賞級の研究は今後出てこないかもしれません。危機的状況です。

 組織・制度の硬直化は国公立大学の独立行政法人化と運営交付金の減額を筆頭に「選択と集中」という美名のもとに一向に改まる気配がありません。公的支出の教育費割合は現在8%ですがこれはOECD加盟国の3番目の低さです。これでは国の成長力の飛躍は望むべくもありません。

 しかしいくらお金をかけても教育システムが現行の「均質の国定教科書による一斉学習」では才能の個性的成長には適していません。ドラマにあったような個人の感性を引き出すような――体で感じる学習方法を創出することが必要なのです。

 いずれにしろ学術会議の会員承認拒否に見るような政治権力の教育への介入は決していい結果を生まないことは明らかです。

 

 今の教育状況の一番の問題点は「教えすぎ」ではないでしょうか。孫はまだ二才半ですが今から塾とか習い事の心配をしている保護者も少なくないといいます。小学校受験の受験勉強はもとより英語、水泳、お絵描き、ピアノ、書道など二つくらいを習うのは当たり前で、学校へ行けば放課後児童館、学習塾、と習い事が普通になります。これでは「習う」ばかり「教えられる」ばかりで「自分で感じる」余裕などほとんどないのではないでしょうか。それで「本当の学び」ができるのでしょうか。

 最近出版された『ひっくり返す人類学(奥野克己著ちくまプリマー新書)』に教育というものを見直すこんな記述があります。

 カナダの狩猟採集民ヘヤー・インディアンには「師弟関係」がありません。したがって「教しえてあげる」「教えてもらう」「誰々から習う」「誰々から教わる」という考え方がないのです。英語を話す若者に「英語は誰にならったの?」と聞くと「自分で覚えた」という答が返ってきます。なんでもがそうで「どのようにしてそれを覚えたのですか?」「どのように〇〇ができるようになったのですか?」と聞くしかなくて答は「自分で覚えた」の一点張りです。そうしたヘヤー・インディアンの文化には「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」という前提が横たわっていて、親といえども子に対して指示したり命令したりすることはできないのです。できるのはただ「守護霊」だけなのです。

 いろんなことをやりながら、考え方を身につけたり、やり方を覚えたりしながら、自分のやり方を発見していくプロセスそのものが、『学ぶ』ということではないでしょうか。

 

 「教えられる」ばかりで「自分で感じる」「自分の体で感じる」力が劣化したら、この「情報過剰時代」にどう対処していくのでしょうか。本能的に(体で)情報を選別する能力を研ぎ澄まさないとAIに「使われる」奴隷に成り下がってしまわないか。そんな恐怖を感じる人がそろそろ出てくるのではないでしょうか。

2024年12月9日月曜日

お手本

  書をはじめて二年になります。本当を言えば「書」などと言える代物ではないのですがとにかく筆をもってひらがなと漢字を毎日書くようになったのですから「八十の手習い」にはちがいありません。「手習い」という言葉はよくできていて文字通りひたすら手を動かしてお手本を「なぞる」「習う」の繰り返しの中で「コツ」を身に着けるのです。私の場合は我流ですから先生はいませんのでがむしゃらにお手本をまねて二年間書きつづけてきて、最近になってタテの一の棒が一番難しいのが分かってきました。トメのタテ棒を半紙一杯に何本も書いて満足いくのがなくて、また紙を取り替えてタテ棒を書く。こんな修行のようなことをするとは思ってもいなかったのですが二年間経って学校やお習字教室の第一過程でやらされるタテ一のトメの練習をして、それが退屈でなく苦痛でもなく何とか上手く書きたいの一心で十分十五分と工夫するのですから「手習い」というものは奥深いと思います。

 これまで何度も挑戦して一度も「やってやろう」という気にならなかった「書」が今度うまくいったのは「お手本」が良かったからだと思います。『くずし字で「百人一首」を楽しむ(中野三敏著角川学芸出版)』と『三体千字文(飯田秋光書高橋書店)』をお手本にしているのですが百人一首をくずし字で読めるようになりたい、読み説けるようになる、くずし字を書きたいの三つを目標にかな文字の手習いをする。これが見事にはまったのです。解読の難しいくずし字を読めるようになりたいという念願が書くことで驚くほど身に着くようになって、百人一首そのものも何度も読み返すうちに和歌の勘所に道すじがついて古今和歌集や山家集などの興味へつながって古文を学ぶ入口になりました。

 『千字文』は中国六世紀梁の武帝が兵士に漢字を覚えさせるために部下の周興嗣に作らせた教則本で体裁は漢詩になっていて一字の重複もなく漢字千字を網羅した驚くべき書物なのです。それを「三体」――楷書、行書、草書の三つの漢字の形でお手本があるのが『三体千字文』です。私は漢字は楷書が一番難しいと思っていて行・草と一緒に楷書を練習すれば慣れるのではないかと考えてこのお手本を選んだのですが飯田秋光さんの字が好きな字ということもあって最初の30字も書かないうちに漢字の面白さに引き込まれました。行と草は勢いで書いていると何となくカッコウがつくので気持ちよく、その流れで楷書を書くと「字」の形がつかめるような感覚を得ました。そんな繰り返しをつづけるうちに楷書にも馴染めるようになってきました。このごろは大きな紙に漢字を力いっぱい書いてみたいという意欲が湧いています。

 

 翻って昨今の「SNS全盛時代」はお手本のない時代です。お手本に頼って生きてきた我々世代は底知れない『不安』を感じています。あの空間で流通している情報は「権威の裏づけのない」「無責任な(匿名性)」ものです。しかも流通量だけは厖大なのに閲覧できる情報は限りなく「狭く」「少ない」のです。そのうえ巨大営利企業が流通を管理しているのです。私たちはこれまで「新聞社(雑誌社)」という権威に選択された情報を相当広範囲に提供されてきました。媒体が紙でしたから貯蔵可能で繰り返し閲覧できました。そのうち電波媒体ができてラジオ・テレビが出現、速報性のある情報が無料で提供されるようになりましたが「テレビ(ラジオ)局」という権威が情報選択を行なっていました。電波情報はタレ流しでしたが紙媒体と補完関係にありましたから情報確認は保証されていました。

 SNS時代になって新聞購読者は激減し雑誌は廃刊が相次ぎました。1世紀近くつづいたラジオ・テレビの電波メディア主体の世論形成時代は令和になってSNSが主たる情報源という大衆が若者層を中心に拡大しつづけています。アメリカのトランプ大統領が象徴的な存在ですが「選挙の予測」を行なう「オールドメディア(旧来の新聞やテレビをそう呼びます)」の予測が事ごとに外れるようになって、オールドメディアは「エスタブリッシュメント(既得権を持った支配層)」に偏ったメディアで一般大衆の意見を反映していないという見方が一般的になりSNSの情報に最も影響を受けて投票を行なう人たちが主流になりつつあります。

 

 お手本のない不安は誰でも持っています。そうなると自分の好きな情報、自分と同じ考えをする人の情報で自分の選択を補強して自信をつけようとするようになります。それでも不安は残ります。そんなとき自分を代弁してくれる強烈な個性を持ったカリスマを無意識に求めるようになります。トランプさんは白人でありながら黒人やヒスパニックに職を奪われたラストベルトの人たちを代弁して「MAGA(メイクアメリカグレイトアゲイン)」と叫んだのです。そしてアメリカの主たる新聞やテレビ局の予想をくつがえして大統領に上りつめたのです。

 SNSの影響はアメリカに限らずフランスでもマクロンさんの政治権力を地に落としめましたし東京都知事選挙では石丸現象を、兵庫県知事選では斎藤さんの再選を演出しました。先の衆議院選挙では自民党を過半数割れに追い込むと同時に国民民主党を3倍の大躍進に導きました。民主主義国といわれる先進国のほとんどが少数与党の不安定政権に追い込まれています。お隣の韓国では尹大統領の「非常戒厳」という信じられない事態まで引き起こしたのです。

 

 「不確かな(権威の裏づけのない)」「無責任な(匿名性)」な情報を個人が信条やイデオロギーではなくその時々の「空気」で選択した結果ですからいつまた別の方向に向かうか制御不能な状況が「今」なのです。「今、ここ、私」はいつでも「漂流」するのです。

 宗教――特にキリスト教のプロテスタンティズムという精神的紐帯を失った資本主義国民主主義国は「金」と「選挙」だけが「お手本」に成り代わってしまっています。どちらも不確かなもので結ばれている「西側先進国」が遅れてきた国の「お手本」になることはありません。BRIKSをはじめ開発途上国の多くはアメリカの「ロシア封鎖」に協力しないのです。

 

 世界の「反アメリカ(西側先進国)」を示す指標の一つが各国の外貨準備高に占めるドルの割合が8割超から6割を切ったことです。トランプさんが大統領になればこの比率はますます低下するにちがいありません。SNS時代にふさわしい「新しい価値観」はいつどの国が提示するのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

2024年12月2日月曜日

想滴々(24.12)

  早いもので今年ももう12月です。今日が誕生日の私は83才で健康寿命(男2.7才)も平均寿命(男81.09才)も超えてしまいましたし父の享年が82才だったのでこれも凌(こ)えることができました。百年時代ですが今のところさし迫って健康に不安を感じていませんのでどこまで行けるのでしょうか。幸い妻が健康ですので有難い限りです。娘たちにはこれといった恵與(けいよ)もできませんでしたがこの齢になって両親そろって恙無く、まあまあ仲良く暮らしていることは彼女たちにとって望外のプレゼントになっているかもしれません。

 年々一年が早く過ぎ去っていくのは変化のない日日を暮らしているからで考えてみればこの一年、昨年と何一つ変わったことのない日常の繰り返しに呆れてしまいます。昨年どころかここ五年、初孫を授かった以外に変化なしと言ってもいい状況がつづいています。ただ健康面では昨年5月のゴールデンウィークに肺炎に罹りましたし今年は7月にとうとう前歯が1本欠けてしまってはじめて「義歯」を入れました。体力の衰えは顕著で毎朝のトレーニングのメニューをこなすのが難しくなっています。9月に膝を傷めて整形外科のお世話になり理学療法士さんから4種類のストレッチを課されていますのでストレッチは10コ以上になり毎朝大変ですがインターバル速歩とラジオ体操を加えた朝トレは健康維持の必須のメニューですから根気よく継続を心掛けています。

 

 何が健康の元になっているかを考えてみると「コラムの連載」が最大の要因のようです。2006年4月13日に始めて今回で986回目ですから18年間半よくぞ続けることができたものです。先輩の関係している業界紙に書いてみるかと誘われて軽い気持ちで引き受けたのがきっかけで、200回ほどつづけて関係は切れたのですが以後はBloggerにひきついで今日に至っています。もうひとつ近くの公園の野球場の管理――といっても朝夕の鍵の開閉だけですが今となっては若い人との交流の唯一のチャンネルになっています。辛いときも務めですからサボることもできずイヤイヤでも朝の決まった時間――今なら7時には解錠に公園へいかざるをえませんから朝トレも休まずできるわけでありがたく感謝しています。なじみの公園仲間もいて彼らおっさんと交わす何気ない会話も生活の潤滑油になっています。コラムも野球場の鍵の開け閉めも先様から頼まれて引き受けたものですがこうした縁に恵まれたことは幸せなことでありました。

 

 書くためには読まねばなりませんから毎年80~100冊近く読んでいます。朝一番は日本語の基礎養成のために漢文と古文を1、2時間、今なら千字文と古事記がテキストです。どちらもしっかりした注釈書を案内にして読んでいますが西郷信綱の「古事記注釈」は詳細で古事記を通して日本文化の古代からの精神的基層を学ぶことができます。あとの3~5時間は専門書と文学を読みますが最新のものは毎日新聞の書評から選びます。専門書は社会科学を中心にたまには科学ものも読んでいます。文学では今年のノーベル文学賞を受賞したハン・ガンの『別れを告げない』が書評にあったので受賞前に読んでいて『四・三事件(1948年に起こった李承晩政権による済州島農民の虐殺事件)』を扱った固いテーマにもかかわらず詩的な文体に透明性があって上質の文学性を感じていたので受賞も当然だと思いました。

 読んで書いて、来年の春ころには目標としていた1000回になりますがそのあとどうするかまだ決めていません。

 

 夏の終わりころ、1000回の目途も立ってあとのことを考えていて、目が弱ったらどうしようという不安を感じました。友人たちの多くは60台半ばころから字が読みづらくなって読書から遠ざかったと言います。そしてその後の暮らし方に悩んでいるようです。大体勉強が好きで、それ以外にこれといって取り柄のない連中ですから押っ取り刀で趣味を持とうとしてもどっぷりつかるほどの趣味も見つけられるず中途半端な、納得のいかない晩年を過ごしているようです。

 字を読む視力と根気・体力が衰えたらどうしよう。今の生活がつづけられなくなる、生活の芯棒となっている読んで書くができなくなる。そのときどうするか。はたと行き詰まりました。多分あと5年も経たないうちにそうなる可能性は高い。充実した晩年が過ごせなくなる。

 

 残された喜びのひとつは孫です。80才にしてようやく授かった孫はまだ2才半、小学校に上がるまではおじいちゃんに懐いてくれるだろうしそれからあとも彼の成長は喜びでありつづけます。もうひとつは「書」です。昨年の正月に思い立って「つづけ字で百人一首を書く」ことをはじめて、最初は筆ペンで書いていたのですが1年も経つとそれでは満足できなくなって今年からはほんものの「筆」で書くようになって、そうなると「漢字」も書きたくなって『三体千字文』をお手本に始めて見るとますますおもしろさ分かって来て今では朝一番のルーティンになっています。書は目が衰えてもつづけられます。やればやるほど深まっていくといいます、これは一生の楽しみです。クラシックとジャズが好きですから音楽も生涯の友です。体が動けるうちはコンサートにも行って生(なま)も楽しみたいものです。

 

 そんな思案をしていてフト西陣にいたころの近所の「ハラのおっさん」が思い浮かびました。隠居して毎日半日は散歩、近所のお宮さんやお寺をめぐって11時ころ路地にあるなじみのおばあさんの家に辿りつく、別に呼びもしないにに2階の窓が開いておばぁちゃん(足が不自由なので)が顔を出す。それから晝まで何を話しているのか確かめたこともありませんが上と下とで会話を楽しむのがおっさんの毎日でした。そんなおっさんは百才になる前日の朝、家人が起こしに行くと事切れていたそうです。大往生です。

 ハラのおっさんのことを考えていると「充実した晩年」などと考えていることがむなしくなってきました。健康に生きること、それ自体が唯一無二のことではないのか、そんな感懐に至りました。

 

 『千字文(小川環樹ほか注解・岩波文庫)』に「古を求めて論を尋ね、慮(りょ)を散じて逍遥す」という辞があります。隠居して要務もなければ昔の賢人の議論を探し求め気持ちもさっぱりとわだかまりもなくのびのびと満足した生活を楽しめ」というのです。

 それもまたいいではないか、そんな思いで思案を止めました。できれば妻もとなりにいてほしい、孫と一緒に。

 

 

 

2024年11月25日月曜日

税金払って一人前

  昨今の「103万年の壁」論議を聞いていていつも違和感を感じます。二つあって一つは「納税」に関して、もう一つは「103万円の壁」そのものについてです。そしてなにより何故いまなのか、どうして2020年令和2年の税制改正時に問題にしなかったのか、政治家もマスコミもという感を強く抱くのです。令和2年の税制改正で国はとんでもない「インチキ」をしたのです。

 小学校で「国民の三大義務」を習いました。教育(憲法第26条2項保護する子女に普通教育を受けさせる義務)、勤労(憲法第27条1項勤労の権利と義務)、納税(憲法第30条納税の義務)の3つです。今の論議はこの「国民の義務」という考え方に根本から異議を唱えているように感じるのです。

 

 「103万円の壁」は既にご存じの通り「基礎控除48万円」と「給与所得控除55万円」を足した合計控除額のことです。この金額が妥当かどうかを検討する前にもう一度復習すると「基礎控除」は最低限度の生活費という意味合いで「給与所得控除」は個人事業者の必要経費に相当するものです。言ってみれば基礎控除は生命維持に必要な最低限の食費とみてよくそれを国は月額4万円と算定しているのです。それに対してサラリーマン(ガール)の必要経費は年額55万円ですから月額5万円足らずです。通勤費は会社から出るとしても背広などの衣服や諸経費が月額5万円たらずで妥当かどうかは悩ましいところです。

 ここで問題にしたいのは2020年令和2年の税制改正で基礎控除が38万円から48万円に増額されたのに反して給与所得控除が65万円から55万円に減額されたことです。これはとんでもないインチキです。前回の税制改正は2,015年(平成27年)に行なわれてそれぞれ38万円と65万円に設定されていたのを2020年に今の金額に変更されたのです。基礎控除が増額されたのはこの5年間に物価の変動があったからそれを調整するためだったと推察するのですがそれならサラリーマンの必要経費(給与所得控除)が10万円減ると考える理由が理解できません。少なくとも5年間変動がないと見るのが妥当でしょう。それを基礎と所得で10万円を入れ替えて「103万円の壁」は変えずに税の減収を防いだと考えざるを得ません。どうしてこんな税調のインチキを議員さんたちは許したのでしょうか、玉木さんまで。

 

 わが国所得税制の一大特徴は「源泉徴収」という徴税方法にあります。世界の徴税方法は「申告納税制度」が主流で源泉徴収をしている国はドイツ、インド、韓国などごくわずかです。もしわが国が申告納税だったら国と地方でどれほどの費用が掛かるか資料がありませんから定かには言えませんが厖大な額になるであろうことは想像できます。国民が源泉徴収――給料支給時に概算の税金が「天引き」される――を受け入れているのは国が納得のいく妥当な「最低生活費と経費」を計算してくれるであろうと「信頼」しているからです。その国が――政府税調がこんなインチキをするのでは国民の信頼を大きく裏切る行為に他なりません。

 「103万円の壁」を国民が問題にするのは「所得税の計算の仕方」に疑問を持っているからです。103万円で税金が掛かる今の計算方法がおかしい、「最低生活費と経費」はもっと多いはずだ、そう思っているのです。そもそもの設定金額に対する疑問、税制改正の期間の物価変動の見積りが低すぎる、源泉徴収で国や地方自治体が受けているメリットを国民に還元するという姿勢が見られない、などを考慮すれば「控除額の総額」は103万円ではないはずだ、もっと多いはずだ、そう考えているのです。実際この10年でサラリーマンを取り巻く環境は大きく変化しました。情報化時代の進展、リスキリングの必要性などいずれも「自己投資」が求められます。そんな変化を国は考慮しているとは思えないのです。

 「源泉徴収」という徴税方法を当たり前と考えずに国民の理解と納得が「前提」であることを真摯に考えるなら、政府も地方自治体も「103万円の壁」の妥当性についてもっと真剣に考えるべきです。そして現在の税制の基本となっている「夫婦と子供2人、妻は専業主婦」というモデルを再検討すべきです。

 

 さて次は政府も地方自治体も声高に主張する「7~8兆円」ともいう「税の減収」という問題です。この問題は納税義務者が「平等」に税を「負担」しているかどうかという視点から考える必要があります。経済を国内経済に限れば個人と企業、政府(国と地方自治体)の3つの主体で構成されます。個人は労働、消費、納税を、企業は生産、投資、納税をします。これに対して政府は国と国民を守る(国防)、行政サービスの提供、税による所得の再分配を行ないます。

 現在の税収の8割を所得税、法人税、消費税が構成しています。2022年度でみると65.2兆円の31%が所得税、20%が法人税、消費税が32%を占めています。ぱっと見ておおかしいと思いませんか。そうなんです、企業の負担(法人税)が少な過ぎるのです。これは法人税がこの40年で約半減した結果です。昭和末頃の税率は43.3%でした。その頃の税収に占める法人税の割合は35%近くもありました。それが平成の30年間に7回にわたって減税され現在では税率は23.2%にまで引き下げられています。その結果が20%の割合まで低下したのです。「減税でグローバル競争に勝って企業が成長すればその利益がトリクルダウンされて国民も潤う」というアベノミクスで減税が加速されましたが、この間GDPは横ばいで成長できず給料も据え置かれて企業の内部留保(企業の純利益の残高)だけが600兆円まで積み上がっているのです。

 

 最初3%でスタートした消費税は現在10%にまで「増税」されました。現在の「103万円の壁」論議の底には消費税の国民への過負担感が影響しています。国は所得税に比べて消費税の安定性を主張して社会保障の財源として減税は不可能だ(望ましくない)として減税に応じる気配がありません。「103万円の壁」による税の減収を穴埋めするとしたら法人税の増税以外に国民の納得のいく方法はないのです。

 

 アベノミクスの結果「過剰な円安」を招いて異常な物価高騰を招き生産にも消費にも悪影響を与えています。その結果「手取り額」で買える消費の実質額が減少したので「手取りを増やす」という国民民主党の訴えが国民の支持を得たのです。しかしこの問題は単に「103万円の壁」を解消するだけで解決するものではなく、国の税制の在り方、所得税の仕組み、など全体としての「税体制変革」を考えなければならない問題なのです。

 

 「税金納めて一人前や」、若いころ大人たちに散々言われたものです。

 

2024年11月18日月曜日

基軸通貨国の責任

  トランプさんが次期大統領に決まった次の日の昼のニュースショウで大の大人が――それも政治評論家だとか知識人といわれる連中が「石破さんがトランプさんの気に入られるには……」と大真面目にあれやこれややり取りしているのを見てこの人たちは本気なのだろうかと、呆れ果ててしまいました。「気に入られる」という言葉は「下のものが上の人に……」というニュアンスがあります。グレイトアメリカの大統領は極東の島国・日本の総理より当然格上ということをこの人たちはなんのためらいもなく「前提」としているのです、それも多分無意識に。加えて彼らが持ち出す「モデル」は安倍前総理なのです。安倍さんはトランプさんと仲が良かった、丁重な扱いを受けていた、世界で最も頻繁に首脳会談を行ったなどと両者の蜜月ぶりを引き合いに出して石破さんがそうなるためにはどうすれば良いか、ゴルフをしなさいの何のかのとアドバイスする連中の姿は噴飯ものでした。

 安倍さんがトランプさんとそんなに仲が良かったのに、では日米関係がどれだけ改善されたのかと振り返って見れば、大量の兵器を売り付けられただけで他にこれといってわが国にとって有利な見返りは何一つなかったのではありませんか。安倍さんはプーチンさんとも27回も会談していますが日ソ関係は北方4島返還も頓挫したまままったく進展は見られませんでした。

 この局のこの番組だけかと思っていたのですがどの局もどの番組でも同工異曲の「気に入られ方教室」を臆面もなくくり広げるのですからわが国のマスコミ――テレビ放送はどうなっているのでしょうか。

 トランプさんがどうでて来るか予測不能であることを殊更に取り上げて、関税を引き上げて国内産業保護になるだとか、軍事同盟の費用負担の公平化を打ち出してくるから「思いやり予算」を大幅増額しなければならないとか、防衛予算のGDP比2%では低すぎるから3%4%に拡大を突きつけてくるに違いないとか、この機に乗じた「軍事大国化」を当然視する論調を展開する「専門家」さんたちの『卑屈』な「属国意識」が情けなく腹立たしくてなりませんでした。

 

 対等な関係の独立国同士の「日米関係のあり方」の「正論」を堂々と戦わせばいいのです。そもそも「正論」を持っていないから相手の出方に対処する策で応じるしかないのです。

 

 今のアメリカは、特にトランプさんは「基軸通貨国としての責任」を忘れているのではないかという危惧を抱きます。「自国第一主義」を掲げて高率の関税で自国産業を保護すると公言して憚りませんがそんなわがままを言うなら、ドルが今持っている基軸通貨という「特権的地位」を捨ててユーロや円や元と同じ通貨になってください。

 第二次世界大戦の前後までは英国のポンドが基軸通貨の役割を担っていましたが戦争を機に英国経済が衰退してドルが基軸通貨に選ばれたのです。そのための裏づけとしてアメリカは金1オンス=35ドルと定め金との兌換を保証し、各国通貨はドルとの交換比率を固定することで安定性を維持する「金ドル本位制度」を世界は採用したのです(ブレトンウッズ体制の確立)。この体制は1971年のニクソンショックによって「金・ドル交換停止」となり事実上崩壊するのですが、にもかかわらず今日までドルが基軸通貨として流通してきたのは各国のドルに対する信認と利便性が他の通貨より勝ってきたからです。

 ドルに対する信認は、戦後80年間アメリカがその軍事力、経済力、政治力を用いて世界経済の発展と平和に貢献してきたからです。いわばアメリカは「世界を主導する責任」があるのです。この「信認」はアメリカと各国の無形の「信頼関係」により成立しているのです。ですからアメリカの指導者は世界の信認に応える義務があります。

 

 アメリカが経済大国として繁栄してきたのは豊富な資源と有能な人材があったからです。しかしそれと同等に「基軸通貨国としてのメリット」もありました。アメリカの国債がドル建ての資産として海外各国から準備資産や運用資産として大量に購入されるというメリットです。それは俗な言い方をすれば「ドルを好きなだけ刷ることができる」ことです。トランプさんは多くの公約をしましたが「双子の赤字」を抱えたアメリカ経済のもとでは国債に頼らざるをえません。しかしトランプさんが進めようとしている「グレイトアメリカ」は世界の国々の「信頼」に応える姿ではありません。世界の国々が互いに信頼し合って「自由貿易」をすることが世界経済発展のベターな政策だと主導してきたアメリカだから信頼してきたのです。その自由貿易を支える基礎となるのが「法の支配」を受け入れ「自由」を尊重する「民主主義」だとアメリカが主導してきたのです。トランプさんのやってきたこと、これからやろうとしていることは、「自由貿易」と「民主主義」に反することばかりです。

 コロナ後アメリカは急激な「利上げ」を実施しました。自国のインフレを抑制するためです。この影響を受けて「円安」が一挙に進行してわが国経済は多大な損害を被りました。しかしもっと被害を受けたのはアメリカから多額の借金をしている発展途上国です。借入返済額が膨脹し負担が過大になって国の経済が破綻に瀕した国もあるのです。

 世界の外貨準備に占めるドル比率は最高時80%を超えていましたがこの20年間で70%から60%に低下しています。今もロシアと中国の間の貿易決済にドルは使用されていませんし北朝鮮も同様でしょう。中国の一帯一路政策の参加国は元を決済通貨にしています。EUはEU間貿易の決済は当然ユーロが使われます。BRICSは新通貨の創設を検討しています。21世紀になってから「経済制裁」は広汎に行なわれてきましたから強制的に「ドル圏からの追放」が行われたことになります。

 「ドル基軸通貨」体制は刻々と綻びを拡げているのです。

 

 60年を超えた「日米安保体制」は東アジアの平和と安定の要です。しかし両国の関係はこの60年間に微妙に変わってきました。冷戦下の「防共」の砦としてのスタート時の立場から中ロと対立するアメリカの最前線基地という役割に変わってきているのです。もちろん「核の傘」の恩恵(?)は認めますがアメリカへのわが国の「基地提供」がなくなればアメリカの世界戦略は根本的な変更を迫られるはずです。もしトランプさんが理不尽な、法外な要求をするようならわが国は「ケツをまくる」行為に出てもいいのではありませんか。威勢のいいことを言う割に「卑屈な属国意識」の強い人たちに、冷静な世界情勢の分析とケツをまくるくらいの「腹をククル」覚悟はあるのでしょうか。

 

 トランプさんに気に入られようと汲々とするのではなく、アメリカのよき友として「助言」できる関係になりたいと願っています。

 

 

 

2024年11月11日月曜日

あほかかしこか

  昔からそうだったのですが娘たちが50才近くなって妻といっしょに「お父さんはあほかかしこか分からんわ」と口にすることが多くなってきました。言い訳すると最初は子どもたちに学校の勉強を鵜呑みにする危うさを気づかせるためにわざと常識に反する意見やモノの見方を教えていたのですが、齢を取るにしたがって世間一般のモノの見方考え方と異なることが多くなってきて、最近は本心から異論をいう傾向が強くなっています。そこで最近の「あほかかしこか」分からん話を聞いていただこうと思いました。 

 

 免許を返納してもうすぐ5年になります。もともと運転は得意でなかったのが78才になる前頃から反射神経の衰えと視野の狭さが顕著になってきて特に雨天と薄暮の運転が危うくなってきたので決心しました。今になって良い選択だったと思います。心配した不便さもそれほどでなく慣れてしまえばバスと歩きもそれなりに面白いものです。3系統あるバスの時刻に偏りがあって結局1時間に3本ほどになるのですが贅沢はいえません、行きはそれに合わせれば3本でも十分で帰りも20分くらいの待ち時間は何の不都合もありません。幸い敬老パスもありますので便利にさせてもらっています。

 バスになって気づいたことがあります。駅前のロータリーでのバスと歩行者の関係です。横断歩道を歩行者が通る時、たとえ一人であっても歩行者優先でバスが止まるのです。これはおかしい、そう感じるのです。少なくともバスには10人以上、多いときには30人くらいは乗っています。電車が到着した後などは断続的に3人4人また2人と歩行者がつづいて1分近く停車することも少なくありません。結局こうした積み重ねが「バスは遅れるもの」になっているのです。歩行者優先の原則に異存はありません。しかしこの原則も時によりけりで朝の出勤時間ギリギリの時などのこの待ち時間はサラリーマンのイライラのもとになっているにちがいありません。

 1人2人と10人~30人なら「多数の利益」を尊重したほうが理に適っているのではないでしょうか。駅前のロータリーでは「バス優先」であってもいいのではないか。わたしのあほな考えの「1」です。

 

 京都に「嵐電」という電車があります。四条大宮から嵐山へ行く電車ですが電車道が一般道路を走るところがあって三条通りは西大路から太秦までほとんどが一般道路になっています。西大路三条の通過時には信号があって電車も信号待ちします。交差点のスグ手前に駅があるので電車が青になるのをまって進行するのか電車に合わせて信号が青になるのか知りませんがとにかく電車が信号待ちするのです。

 こんな嵐電を知っている私にとって「開かずの踏切」の「解決策」として「なぜ電車が待たないのか」不思議でならないのです。最悪の場合「54分」も開かず状態になるのですから待たされる側の不満は尋常ならざるものがあるでしょう。JRと何本もの私鉄が通過するのを人も車もジッと、イライラしながら待つのですから「殺生やなぁ」と関西人ならぼやくこと必至です。地下に潜るにしても上を通すにしても「費用」は「地方自治体」負担になっているので実現が見通せないまま今日に至っているのです。

 電車が「一時停止」すれば明日にでも解決するのではないか。2分か3分か、1時間に2回でいいから電車が止まれば開かずの時間(待ち時間)」は15分か20分に短縮できますから相当の改善になります。今どきAI時代ですから時刻表の改訂作業と調整にそう手間は取らないはずです。

 あほやなぁ!と呆れ果てられましたが私は真剣なのです。

 

 マイナ健康保険証がいよいよ12月から全面実用化になります。ところが利用率は7月現在11.13%に低迷したままです。そこで紙の保険証との併用を当分認める方向で調整が続いています。現状ではそうならざるを得ないでしょうし個人だけでなく病院側も対策未完のところも少なくありません。利用者側とすればなんといっても「紛失」の危険性が払拭できません。自動車運転免許証と一緒じゃないかという向きもありますがそうじゃないのです、免許証より数段マイナカードの重さが違うのです。免許証なら再発行してもらえばいい、それまでの間運転を我慢すればいいだけだけどマイナカードは「自分が無くなってしまう」ような感覚なのです。銀行との紐付けのしてある場合は「不正利用」されてしまわないか。いろいろの不安をお役所は説明してくれません。なにより役所の「情報管理」体制への不信感がぬぐえません。お役所のシステム不良で使用不可になることはないのかという「不信感」も根強くあります。役所の考えでは今後運転免許証もマイナカードに一本化したいようですからますます「マイナカード」の「重み」は増していきます。不安、不信は募る一方です。

 そこでわたしに「あほな」解決方法があります。「マイナンバー」を紙の保険証や運転免許証の「発行ナンバー」にするのです。いまはそれぞれに「健康保険証番号」「運転免許証番号」を付与発行しているのを「マイナンバー」を流用・統一すればいい、というのが私の考えです。

 そもそも国の考えは「国民の単一ナンバーによる管理」にあるのですからカードにこだわる必要性はないのではありませんか。もちろんそれなりのシステムは構築しなければなりませんがそれはカードの場合も同様です。この方式なら紛失しても「1つの機能」だけで済みますから不安も少なくて済みます。適用機能の追加も抵抗少なく行えるのではないでしょうか。

 

 あほなことを縷々(るる)つづりました。呆れられたでしょう。でも80才を超えたころから世間の常識があほらしいと思うことが多くなってきたのです。執着するもの――競馬も酒も性欲もあれもこれもどうでもよくなってきて、というより体力も気力も衰えてきて欲を継続する能力が減退したのです。

 身軽になって気楽になって……。齢を取るのも悪くないものです。

  

 

2024年11月4日月曜日

中道右派の時代

  今回の選挙の意味は何であったのか。それは裏金に象徴される振り切った「安倍なるもの」への平衡力としての「中道右派」への「揺りもどし」であったと思います。「失われた30年」からの脱却が国民の悲願となって「強力な指導者」が待望され、この気運に乗じた「安倍一強」の8年はわが国の政治状況を限りなく右傾化してしまいました。自民党の得票率(衆議院議員選挙の投票率平均60%弱、自民党の得票率35%とすると)を考えると国民のせいぜい3割に満たない支持しか得ていないにもかかわらず「反安倍的」なものをほとんど無視して「国のかたち」を変えてしまったのです。それが今回の選挙前の国の政治的情勢でした。したがって「安倍なるもの」への不満のマグマは頂点に達していました。そこへ「裏金問題」が浮上したのですからこれが「発火点」となって「安倍なるもの」に対する「平衡力(釣り合いをとろうとする力)」が起動する環境は完全に整っていたのです。かといって国民は安定志向ですから一挙に「リベラル」へ揺り戻すことは望んでいませんでした。「中道」――それもどちらかといえば「中道右派」で様子を見よう、そんな選挙ではなかったか、と思います。

 維新は「亜自民党」ですから選択肢には入りません。「国民民主党(以下国民)」がもっとも条件に合致していると考えられたのでしょう。次いでリベラル色の強い「枝野立憲民主党(以下立民)」ではなく穏健で中道的な「野田立憲民主党」が選ばれたのです。

 

 今回の選挙について雑感をニ三述べてみます。まず納得のいかなかったことは、高市氏の「非公認候補の応援」です。そもそも今回の選挙は裏金問題に対する「国民の審判」にありました。自民党は「自浄作用」として悪質と判断したわずかな党員を「非公認」にしました。にもかかわらず高市氏は彼らを堂々と「応援」したのです。これは明らかに「反党行為」です。ところが自民党執行部はこれを「黙認」しあまつさえ2000万円を支給したのですから国民が怒るのも当然です。党は政党支部への党勢拡大費と言い訳しましたがそんな理屈が通るはずもありません。透けて見える「見せかけ『非公認』」は国民感情を逆なでしました。それが自公で218議席という惨敗を招いたのです。

 公明の退潮も同一線上にあります。非公認候補の推薦、支持を行なったのですから国民がそっぽを向くのも当然です。自民の暴走を矯正するストッパー役であったはずの存在が、結局安保法制の改変にも賛成したのですから党のイメージが汚染された感は否めません。

 激減した旧安倍派議員が石破体制に意趣返しすると息巻いていますが筋違いも甚だしいのではないでしょうか。裏金問題の張本人で今回の惨敗の責任の本当の張本人なのですから陳謝して当然で「逆恨み」するなど彼らの倫理観はどうなっているのでしょうか(もともと倫理観など持ち合わせていない連中でしたか)。

 

 今回の選挙結果の論評を聞いていて完全に抜け落ちている視点があります。ノーベル平和賞が「被団協」に与えられたことです。受賞後の記者会見で被団協・代表委員田中熙巳さんが石破さんの核共有論に対して「論外!政治のトップが必要だと言っていること自体が怒り心頭!」と石破さんの論文を厳しく批判した報道は、党内野党を標榜し国民目線を装っていた石破さんが実は以前から持論として「核容認」であったことをあからさまにしました。石破さんの米シンクタンク「ハドソン研究所」に寄稿した論文の概要は次のようなものです。核のシェア、持ち込みを具体的に検討しなければならないと提言し、北朝鮮とロシアの軍事同盟の強化は北朝鮮の核・ミサイル能力増強につながりそこへ中国の核戦力が加われば米国の東アジアにおける抑止力が機能しなくなる。それを補うためには核戦略の見直しが必要であり、核共有・持ち込みを含めた日米安保条約の現在の片務的非対称のものから「普通の国同士の軍事同盟」に格上げしなければならい。被団協の田中さんが「論外!怒り心頭!」と怒りをぶつけたのも当然なのです。

 ノーベル平和賞は極めて政治的な側面を持っています。時々の世界情勢を考慮して平和が冒(おか)される危険性が高まっていると判断すればそれを是正する考え方や政治的方向性に賞を与えることで「警鐘」を鳴らしつづけてきました。今回もロシアがウクライナ戦争において核の使用をチラつかせて戦況を有利に導こうとしていることや北朝鮮のあからさまな核戦力開発への暴走に対して危機感を抱いて、被団協の「核タブー」化への世界的規範の醸成に努めてきた長年の運動に対して改めて意識を向けるべく受賞を決定したのです。

 「世界唯一の被爆国」を常套句とする我が国の政治家たち。安倍さんも菅さんも岸田さんも事あるごとに口にしてきました。しかしその言葉とは裏腹に核の傘を容認しさらに安保法制の改変も断行したのです。これは自民党長期政権を支えた「3割弱」の支持層以外の国民の考えを完全に無視した暴挙であったのですが、しかし3割の岩盤支持層の人たちの中にも「行き過ぎ」ではと懸念する人もあったかもしれません。そうした従来の自民党政権とは反対の立場を表明していた石破さんが安倍さんでさえ表だって認めていなかった「核持ち込み」も「アメリカとの核の共有」も具体的に検討を開始する人であることを知ったのですから「拒否反応」は半端なものではなかったのではないかと思うのです。

 

 裏金に対する国民の怒りは想像以上に強く深いものでした。しかし「核容認論――核共有、持ち込み許容」に対する「拒否反応」もそれと同じくらい「反自民」に作用したのではないでしょうか。マスコミが取り上げないから表面にはでていませんが。

 

 マスコミは「中道右派」という表現をまったくしていません。しかしわが国の政治趨勢はこれまでの「右傾化」一辺倒から「中道右派」へゆるやかに移行していくに違いありません。同様に石破さんの「核容認論」に対する「拒否反応」も表面化していくことでしょう。

 わが国は今重大な転換点に立っているのです。

 

 

 

2024年10月28日月曜日

トクリュウと年功序列

  テレビのワイドショーは連日「トクリュウの強盗事件」を特集しています。専門家がアレヤコレヤと分析して反社の組織の手先にされているとか捜査のあり方がどうとか「専門的見解」を開陳していますが肝心要の「根本的原因」や解決方法についてはなんとも頼りない限りです。しかし大人は――特に年寄りは原因をはっきり知っています、「今の若いもんはシンボウが足らんなぁ」と。

 

 誰が考えても一日5万円も10万円も稼げる仕事などあるわけがないのです。あればヤバイに決まっています。本人たちも分かっているのです。それでもフラフラと誘いに乗ってしまうのは他に選択肢がないからです。いや、やるしかない、と思うまで追い詰められているのです。地道にコツコツやったところで所詮知れている、学歴も技術もない19や20才の自分の将来にいい生活などあるはずがない、という無力感に陥っているのです。

 年寄りは言うでしょう、我々の時代だって若いうちは安月給で我慢したもんだと。しかしそれは、今は給料は安いけど辛抱すれば年とともに僅かづつでも給料は上がっていく、40才を超えればそこそこの生活はできるし50才にもなれば家の頭金ぐらいはできているからローンが受かれば持ち家も夢ではない。そんな未来が約束されていたではありませんか。「年功序列」という制度で。

 

 今や「年功序列制度」は成長を阻害する「元凶」の如く毛嫌いされていますが本当にそうでしょうか。

 

 1989年(平成元年)12月3万8915円のピークをつけた株価は急落、わずか9ヶ月余りで半値まで落ち込みました。地価も1992年初頭をピークに暴落します。バブルの崩壊です。「失われた30年」のはじまりです。以降デフレがつづいて未だに脱却できず今回の選挙でもそれが争点になっていました。

 2001年発足した小泉政権は、低成長の原因はこれまで自民党政権がとってきた経済政策が誤っていたからだと「自民党をぶっ壊す」の大号令のもと「民営化」と「企業の国際競争力向上」を強力に推進しました。デフレ脱却を需要サイドではなく供給サイドを重点的に強化することで解決する策をとったのです。そして生産性の低迷をデフレの根本原因に据えました。デフレ脱却には生産性の向上が肝で、、そのためには「投資」の拡大が必須であり更に不景気に耐える企業体質――景気変動に対する「機動的な対応力」を企業に与えることを政策の中心にしたのです。具体的には第一に投資のための「資金力の向上」を、機動力を高めるためには重しになっている「固定費の軽減」を、固定費の最大構成要素である「人件費の軽減」を第二の策としたのです。

 

 生産性の悪い「役所仕事(や公企業)」の「民営化」は郵政民営化を皮切りに聖域なく「断行」されました。成果は著しいものがありました、特に野放図に膨脹していた第三セクターによる民間企業と競合する分野の切り捨てや民間移行は全国規模で無駄を省く効果がありました。しかし今から見ると医療機関、大学、幼児教育などは「やり過ぎ」になった部分もありコロナ対応のまずさや研究成果の劣化、待機児童の増加を引き起こしました。

 

 「法人税率の軽減」で資金力の向上を図る、この政策は見事に成功しました。最高時43.3%あった法人税率は2023年23.2%まで低下しました。その結果2023年の内部留保の総額は600兆円を超えています。しかし本来の目的であった生産性向上のための投資には余剰資金は回らず、主に投資家への利益分配に使われるばかりで人材への投資である賃上げも放置され2000年以後ほとんど給料は横ばいでしたが、今年「人手不足」が深刻化したため大企業はようやく5.58%(中小企業は4.01%)の賃上げを行ないました。しかし本丸の投資を誘うイノベーションを起こすことはできず結果として余剰利益が積み上がりとうとう600兆円を超す内部留保を企業は抱えることになったのです。

 

 固定費の軽減のために人件費の「流動費化」が激烈にすすめられました。「年功序列制度」を「成果主義制度」に転換するとともに社員の「非正規雇用社員」への入れ替えを急速に行いました。2005年1634万であった非正規雇用者は2023年2124万人(就業者割合37%)になっています。急激な人手不足になっていますからこの傾向は今後沈静化していくと考えられますが経営者に「年功序列・終身雇用」へ回帰する度胸があるでしょうか。

 

 失われた30年――この間に何が変わったかを考えてみると、大きく変わったのは多分野で民営化がすすめられたことと年功序列・終身雇用を成果主義と有期雇用化(短期契約主流で長くて5年前後)を拡大したことに集約できるのではないでしょうか。

 ではこの30年でどんな悪いことが起ったでしょうか。経済面では「イノベーション」を起こすことができなかったことが一番でしょう。経済成長は先進国最悪の低成長(ゼロ近辺)がつづきました。勿論給料は横ばいでした。大学の世界ランキングで中国が急伸するなか大幅な地盤低下しました。少子化・晩婚化無婚化が進行しています。などなど。

 

 年功序列(終身雇用)制度はわが国独自のものです(韓国やドイツなどでも一部でありますが解雇権は企業側が保有しています)。だから年功序列制度とそうでない制度(成果主義など)のどちらが優れているかの検証は行われていないのです。丁度時期的に重なった「新自由主義」の風潮に便乗して――アメリカから押しつけられて年功序列制度を「悪いもの」として廃止したのです。しかし結果をみると――この30年の社会実験の結果は、少なくともわが国では新自由主義的制度は適していなかったと言えるのではないでしょうか。

 イノベーションについて考えてみましょう。インターネットやAIのような社会変革をもたらすような大発明、あるいはノーベル賞を受賞するような発明発見は「短期成果主義」の組織からは決して生れません。10年20年の基礎研究の積み重ねを経て創出される、こともあるものです。今のわが国の大学では有期雇用という不安定な環境に置かれた研究者が5割近いのです(無期雇用者割合が51.2%に過ぎません)。私企業では短期利益重視ですから長期の無駄飯を食う研究が継続できるはずがありません。

 耐久消費財や持ち家などの高価な買い物は今の給料と同時に将来収入を併せて考慮して決断されます。今の若者の自動車離れ、旅行をSNSやVRですますのも将来見通しが立たないからではないでしょうか。結婚もそうした一面があります。「ひとり口は食えなくても二人口は食える」と言えたのも年功序列だったからかもしれません。

 優秀な若い人をスカウトして上級管理職(研究者)に据えて業績アップした企業があるかもしれません。しかし彼がこの先10年も20年も優秀さを維持できるでしょうか。

 

 年功序列制度はわが国独自の制度です。成果主義や有期雇用契約制度との比較は実際に行われたことがありません。失われた30年はその貴重な社会実験であったと思います。

2024年10月21日月曜日

ことばの歳時記

  『ことばの歳時記(新潮文庫)』を読み終えました。国語学者の金田一春彦さんが1年365日を1日ごとにその日にふさわしい言葉や事がらを取り上げて文庫本1頁の短文にまとめ上げたこの本を毎日見開き2頁をベッドに入ったあとのピロ―ブックとして読んだので大体半年で読むことができました。大体というのは1頁も読まないうちに睡魔におそわれることがあったからです。「ピロ―ブック」というのは英語の「ピロートーク」を捩(もじ)った造語で催眠導入のために読む本と意味して作りました。今までで最も良かったピロ―ブックは大岡信さんの『百人百句(講談社)』で『寺田寅彦セレクション(随筆集/講談社学術文庫)』も効果抜群でした。要するに肩の凝らない短文の、それでいてこころよいリズムのある名文がいいのです。セレクトが良ければ1週間もつづけると1~2頁読んでいるうちに眠気が催してきて目をつぶると知らないうちに眠ってしまいます。さて次は何を選ぼうかな。

 

 国語学者だけにどの日の蘊蓄も面白いのですがもっとも驚いたのは「働」という字が『国字』だということでした(11.月23日)。「日本にあって中国にないもの、となると既成の漢字では間に合わない。そこで苦肉の策として国字が生まれ、ことに木ヘンや魚ヘンなどには変わった字がたくさんできた。(略)そういう国字の中で最もよく使われるものは、人ヘンに動く、つまり「働く」という字であるとは、日本人の勤勉さをよく表しているではないか」。いわれてみると人ヘンに動くなどという構成はいかにも国字らしいのですが、しかし人間生活の基本中の基本である「労働」を表す字が本場の漢字にないというのは驚きでした。「労(ろう)」は勿論漢字ですが「疲る、勤める、心を痛める、しごと、ねぎらう」などの意味があります。「勤(つとむ)」は「つとむ、はたらく、力を尽くす、心を労する、つとめ、ねんごろ」と漢和辞典にあります。働くに近い言葉として思いつく「労働」「勤務」以外では「仕事」がありますが「仕」は「つかう、官につく、つかへ、宮づかえ、まなぶ」などとなっていて、以上の3字からは「肉体を使って労働する」という意味にぴったりと当てはまる字ではないようです。思うに漢字は中国の官僚や軍人が使ったものですから農民のような下層民の労働は関係なかったから文字化しなかったのかもしれません。上の3字に共通するのは官僚として仕える、勤めるという意味ですからさすが「科挙」の国です。

 

 もうひとつ教えられたのは「ご賞味下さい(7月14日)」です。日本では人にお中元のようなおくり物をする時のあいさつに「どうぞご笑納下さい」というが、これは文字通り「笑ってお納め下さい」ということばで、これまた日本的な表現だ。近ごろこういう時に「ご賞味下さい」と書く人があるが、これでは「おいしいと思ってお上がりください」という日本的でない言い方になる。見坊豪紀氏の意見では、これは、「ご笑味下さい」と書くべきものを同じ発音であるところから、うっかりまちがって書いたのにはじまる言葉であろうという。 

 

 「毛皮(12月2日)」は日本が農業国であって牧畜がほとんど行なわれなかった事情を浮かび上がらせています。毛皮を英語ではfurといい、なめした皮はleather、なめす前のそのままのものはskinという。その他、木の皮はbark、くだものの皮はpeelというふうで、皮に関する限り英語の語彙はまことに豊富である。(略)中国では…カワと読む字として「皮」という字のほかに「革」という字がある…「韋(イ)」という字の方はなめしたカワだと教えられ、漢文の時間にその区別をおぼえるにに苦労したものだった。

 「お中元(7月3日)」はお中元の歴史を知ることができます。「中元」はもともと盂蘭盆の行事で、正月十五日を上元、十月十五日を下元として祝うのに対し、七月十五日を中元の佳節として半年生存の無事を祝ったのがおこりであるが、今は上元・下元の方は影がうすれ、中元だけが夏の贈り物の代名詞として、サラリーマンの頭を悩ますものの名となった。/日本では贈り物の呼び名が多く、正月はお年玉、年末はお歳暮、病人にはお見舞い、別れる人にはお餞別、帰ってくるときはおみやげなど、かぞえあげたらキリがない。以前は、人にあげるものはおくりもの、もらったものは到来物といって区別した。

 「七五三(11月15日)」。数え年で三歳と五歳の男の子、三歳と七歳の女の子のお祝いをする日である。この祝い、もともとは幼児が無事に成長して一つの段階を経過したことを喜び、このことを公表して縁者とともに祝う儀式だった。/男女とも三歳になるとはじめて髪をのばし、その祝いを「髪置(かみおき)」といった。五歳になる男児は、はじめて袴をつけて正装した。「袴着(はかまぎ)」である。七歳の女児は紐つきの着物をやめて帯を締める式をして「帯解(おびとき)」の式といった。

 

 以上面白そうなものを選りすぐって取り上げましたがその他にも興味をひかれるものは枚挙にいとまがありません。たとえば漱石が造語の名人であったことは意外と知られていないのではないでしょうか(「漱石忌」12月9日)。――「牛耳をとる」を、「牛耳る」とつめ、「野次をとばす」ことを「野次る」と言ったりするのは、漱石がはじまりらしい。――牛耳をとる、という元の表現を知らなかったのは汗顔の至りです。「タンポポ(4月4日)」は花のかたちが鼓に似ていることから鼓の音を昔の人はタン、ポン、タン、ポンと聞きなしたところから、子どもたちがタンポポと呼んだのが語源であるとか、電話を「モシモシ」とかけるのは「申します、申します」といったのが略されたものだそうで(「電話のはじめ」12月11日)、金持ちにもランクがあり(「金持ちのランク」2月6日)分限、長者、さらにその上に「よい衆」があって「代々家職もなく、名物の道具を伝へて、雪に茶の湯、花に歌学、朝夕世の業(なりわい)を知らぬ」という、まことに羨ましい身分を言ったそうです。東京で「金持ち」というのは長者・分限者の下でこれは成り金のことで大分見劣りがすると金田一さんは嘆いています。

 

 SNS全盛でテンプレートの定型文で事足りる現今ですがこのままでは日本語の多様性が失われるのも時間の問題でしょう。ことばの豊かさが人と人のつながりを潤滑にしてきたわが国の歴史を鑑みるとき、このまま放置することはあまりに悲しいと思うのは私だけでしょうか。

 

 

2024年10月14日月曜日

身近なグローバル化

  先日NHK・Eテレで「中満泉さん」のインタビュー番組を見ました。日本女性初の国連事務次長を務める今年61才のチャーミングな方ですが、若いころの写真にみるキュートでたおやかな女性が紛争当事国の現場でむくつけき男性兵士の中に立ち交じってにこやかに調停に携わっているシーンはまるで映画を見ているような現実離れした可憐さを漂わせています。緒方貞子さんに憧れて早稲田を卒業後ジョージタウン大学修士課程を経て国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を皮切りに国連の要職を歴任、現在軍縮担当上級代表にあります。スウェーデン外交官マグヌス・レナートソン氏と結婚、二女の母でもあります。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとハマスのガザ紛争など国連の機能不全が喧伝される中で黙々と任務を遂行している彼女の口から「核兵器禁止条約を発効にこぎつけたのは確かな一歩です」という言葉を聞くと「世界平和」実現のために40年にわたって現場で努力してきた人だけがもつ「不屈の意志」を感じずにはいられません。世界で唯一の被爆国であるという「常套句」を口にしながらアメリカの核の傘の下に惰眠を貪るわが国の政治家に対して彼女がどれほど口惜しさを抱いているかは想像に難くありませんが番組中一度もそんな素振りを見せなかった彼女の凛々しさに尊敬の念を抱かずにいられませんでした。(今年のノーベル平和賞が日本原水爆被害者団体協議会に決まったことは彼女らの黙々とした地道な信念の継続に一つの光明が差したようで喜ばずにはいられません。)

 彼女以外にもテレビでよく見る中林美恵子さんも米国ワシントン州立大学修士課程を経て日本人として初めてアメリカの連邦議会・上院予算委員会補佐官(公務員)として採用され約10年にわたって米国家予算編成に携わった経歴の持ち主です。ほかにもタレントのREINA(レイナ)さんは日系アメリカ人のもとに生れブラウン大学卒業後ビル・クリントン事務所にインターンとして勤めたのちCIA(中央情報局)の内定をもらったが辞退したという変わり種です。

 

 ここまで書いてきて妻の姪が外交官をしているのを思い出しました。オーストラリア、スイスなど外地勤務が多かったのですが今年父が無くなって母が独り住まいになったのを機会に帰国して内地勤務になりました。私の甥もJICA(海外協力隊)勤務でコロンビア駐在中に現地美人と結婚して二児をもうけ、彼の娘はGoogle日本支社勤務です。友人の娘さんは自動車部品製造会社勤務の彼と結婚、アメリカ法人勤務となってもう10年以上あちらに居住しています。近所の喫茶店の女主人の娘さんは結婚して夫婦で渡豪、現地のオーストラリアで日本料理店を経営しています。もう一軒の喫茶店のママは店を息子に譲ってカナダに移住、ときたま帰ってきて海外生活をエンジョイしている元気な姿をみせてくれています。今改めてみて身近にこんなに海外交流があることは驚きです。

 

 海外交流のひとつの指標として国連にどれほどの日本人が勤務しているかを調べてみました。2021年末で国連に関連する国際機関で勤務する職員は956人となり過去最高を記録したとNHKが伝えています。2023年には国連本部、WHO(世界保健機関)、WTO(世界貿易機関)などに勤務する女性が604人に増加し61%を占めるに至っています。国は2025年には1000人に増員したいとしています。

 朝日新聞が伝える所では日本人の海外流出が静かに進んでいるとしています(2023.1.23)。外務省の海外在留邦人数調査統計によると、2022年10月1日現在で永住者は過去最高の55万7千人になった。前年比約2万人増で、よりよい生活や仕事を海外に求める傾向が強まっているのではと分析しています。

 

 スイスの「世界経済フォーラム」の発表する「ジェンダー・ギャップ指数(GGI)2024」によるとわが国は世界120ヶ国中118位(0.663)という悲惨な結果になっています。教育と健康は世界トップクラスですが政治参画は(0.118)、経済参画は(0.568)となっており韓国(94位)中国(106位)より下位にあるという事実は、わが国低迷の根本的な要因がこのあたりにあることを示唆していないでしょうか。それを裏づける研究が明らかになっています。女性の社会進出が進んでいる国ほど合計特殊出生率が高い傾向にあるというのです。

 実質賃金の国際比較をみてみますと(1991年100)、わが国は103.1(2020年)とこの30年ほとんど伸びていません。一方アメリカは146.7、イギリス144.4、フランス129.6、ドイツ133.7となっておりこの30年に最低でも3割は増加しているなかでわが国の低調さは際立っています。

 

 政治の世界の男性優位は明らかでそれも高齢者が威張っています。先日の自民党総裁選挙でも小泉さんは43才、小林鷹之さんは49才で「経験不足の若手」ということで落選しました。フランスのマクロンは45才、カナダのトルドーは51才であるのに反して。経済面のジェンダー・ギャップを管理職の女性比率で見ると大企業では7.6%、中小企業11.5%になっています。

 先に見たように教育(識字率や高学歴率など)では世界最高レベルにあるにもかかわらず社会進出がこれほど「男性優位」に偏っているのでは女性がわが国に失望するのは当然です。若くて有能な女性ならなおさらでしょう。自国の女性に見捨てられた日本がアジアの、そして世界の人びとを惹き付ける魅力ある国として存在することは極めて難しいのではないでしょうか。国の将来推計人口では40年超後には日本の10人に1人が外国人になると予測しています。そのことで最低生産人口を確保するという目論見なのでしょうが果たして可能でしょうか。

 

 気がつけば身近なところでグローバル化が進んでいます。魅力ある国づくりを真剣に考えないと気がつけば意欲ある女性がほとんど周りにいなくなっているという事態になっていないとも限りません。

 威張っているじいさんおっさんたち、本気で女性と若手を評価しないと日本は世界から取り残された弱小国に成り下がってしまいますよ。

 

 

 

 

2024年10月7日月曜日

自民党のしたたかさ

  実に絶妙な総裁選挙でした。1回目は過半数に達する候補者はなく決選投票となって首位であった高市さんを逆転して石破さんが自民党総裁に決定しました。安倍さんの後継を標榜し、より「右傾化」をよそおって盤石基盤の自民支持層の右半分を全部かっさらえば勝てると踏んだ高市さんは案に相違したのです。「選挙至上主義」の今どきの代議士は「皮膚感覚」で「あやうさ」をキャッチし極右の高市さんでは選挙に勝てないと判断して石破さんに寝返った、わずか21票という微妙な差で。絶妙です。ここに自民党の「したたかさ」を見ました。

 

 高市さんは「勘違い」したのです、支援は「自分」に対するものと思い込んでいたのでしょうがそうではないのです、「擬似安倍」としての高市さんに投票されたのです。崩れ逝く「安倍なるもの」への郷愁が劣勢を伝えられた(告示当初は3位予想でした)高市さんを1位に押し上げたのですがそれが現実になりそうになって、ハタと気づいたのです。選挙に勝つためには「安倍なるもの」が前面に浮かび上がったのでは今回は勝てない。少なくとも「刷新感」を国民に感じさせる体をよそおわなければ国民は赦さない、と。

 高市さんは傲慢でした。安倍さんでさえ「靖国参拝」は慎重に対処していたのに、総理大臣として記名して参拝するなどというのはたとえ「ポーズ」としても思い上がりです、普通の外交センスがあれば総裁選だけのポーズとしても控えるべきでした。「擬似」が「本もの」を超えようとするのは愚かです。加えて決選投票を争った自分は安倍さんと「同格」の幹事長に「当然」遇されるべきだ、などというのは思い上がりもはなはだしい限りです。

 

 「安倍なるもの」は今回の衆議院選挙では『削除』しなければなりません。裏金問題は「清算」の体をよそおわねばなりませんしアベノミクスも「賞味期限切れ」です。いくら高市さんが強がっても裏金議員の三分の一、ひょっとしたら二分の一は落選するでしょう。裏金2千万円以上の9人は危ないし1千万以上の15人も相当危ういでしょう、86人中25人以外にも地方の実情もあって落選半数は決して無理筋の予想ではないとすれば旧安倍派99人のうち約半数が減る可能性があるのですから石破体制になれば高市さんの勢いはここまで(総裁選まで)なのです。それに気づかないで「無役」の虚勢を張れば高市さんは一挙に落ちぶれることでしょう。ここは耐え忍んで政調会長でも総務会長でも受けて臥薪嘗胆を期すのが賢明だったのですが。惜しい哉!

 付け加えるなら総裁選に早々と名乗りを上げて「清新さ」を訴えた小林鷹之さんは前評判とは裏腹に最も「古い自民党的」体質の人でした、残念です。金子恵美さんや宮崎謙介氏の評判が至って良かったので若手(?)のホープと目していたのですが旧派閥の縛りから一歩も抜け出ることのできない振る舞いは失望の極みでした。

 

 自民党の「したたかさ」はこればかりではありません。今回の「裏金議員選挙」では「党内野党」を貫いた石破さんを矢面に押し立てて選挙戦を戦うのですが勝算はやってみなければ分からないのが本当でしょう。石破体制で「刷新感」が演出できて過半数割れをしのげれば万々歳ですが、たとえ目算が狂ったとしても「石破体制」は「使い捨て内閣」で済ませばいいのです。「自民党本体」にとってはいくらでも代わりはあるのですから。と、高をくくっているにちがいありません。たとえ過半数を割ってもマイナス10くらいで収まれば一旦政権を譲ったところでどうせ反自民連立内閣は早晩閣内不一致で崩壊するだろうから再奪還は可能だと「自民党本体(?)」は思っているにちがいありません。(そううまく行くかどうかは保証の限りではありませんが)

 

 いずれにしろ次の衆議院選挙は国民の「本性」の問われる選挙です。裏金議員をなんとなく許してしまうような結果になれば、投票率が相変わらずの60%を下まわって55%やそこらで終わるようならわが国の民主主義は危機的状況に陥ってしまうことでしょう。わたしの一つの指標は「萩生田光一」さんが推薦されるかどうか、ましてや当選するようなことがあれば自民党は終わりです。そう考えています。

 

 雅操を堅持すれば好爵自ずから縻す(がそうをけんじすればこうしゃくおのずからびす)という言葉があります(『千字文』より)。人が正しい節操を堅持すれば自然と高い官位や俸給はついてくるという意味です。今の政治家にこんな志があるでしょうか。

2024年9月30日月曜日

読書離れ

  元旦に大地震に見舞われた能登半島にまた記録的な豪雨が襲い被災者が暮らす仮設住宅が床上浸水の被害にあいました。しかもこの仮設住宅は洪水リスクの高い想定区域に建設されていたのです。当初から指摘されていた立地のリスクが現実になったことになり行政の責任は明らかです。史上まれにみる惨状を経験した被災者が追い打ちをかけるようにまた被災する――高齢者も多い被災者の今後が気遣われます。それにしても石川県馳知事の県政運営はあまりに杜撰かつ無計画すぎます。少なからぬ部分は人災ですから責任を明確にして謝罪すべきです。

 

 本を月に1冊も読まない人の割合が6割を超えたという発表がありました。文化庁の「2023年度国語に関する世論調査」によるもので2008年以降の調査で最も多く5割を超えたのもはじめてです。

 一方で出版社の業績悪化も著しく2023年度には36.2%が赤字となり過去20年間で最悪の状況に直面しているという報道もあります。全国で書店が減少しつづけている現状もあり読書を取り巻く環境は極めて厳しいものがあります。

 

 80才を超えてそれでも健康に過ごしているご同輩も結構多く彼らがどんな晩年を送っているか興味があるのですがどうも「老後を持て余している」感が強いのです。私の周りは大卒が多く知識産業(職種)に勤務していた割合も多かったのですが――60才前後から70才頃(嘱託も退いて仕事から離れる時期)にかけてリタイア後の話をすると多くが「晴耕雨読」を口にしていましたが最近は「目が衰えた」「根気が続かん」とほとんど読書から遠ざかっているようです。先の調査で0冊の割合を年代別に見ると20代71.1%、30代73.5%、40代80.2%50代85.1%60代91.5%になっていますから統計的にも高齢者の読書が低調なのが分かります。

 

 読書離れの理由はインターネット・スマホに時間がとられるやSNSがあげられますが――直接的な原因としてはそれが正しいのでしょうが、意外と忘れられているのが大学の「教養学部の廃止」ではないでしょうか。1991年に大学設置基準の大綱化あって卒業に必要な一般教育の単位数の規定がなくなるとともに多くの大学で教養学部が廃止され2023年4月現在国公立大学では東京医科歯科大学に唯一教養部が残っています。大綱化の詳細は省きますが学習と卒業の安易化――入るのは苦労するが卒業は誰でもできるというこれまでの弊害が一層強まっているように感じます。

 高校までの受験勉強一色から解放されて好きな勉強ができる――目新しい学問分野や全国から参集したレベルの高い同期と先輩の読書量の多さに圧倒されて少々恐れをなしながらもそれ以上に学習意欲に駆られて猛烈に読書に打ち込んだ「教養学部時代」がその後の人生の修養・修練の期間であったように覚えています。そこでの先輩同期後輩たち、そして教授との交わりは今でも人生の貴重な糧となって今日に至っています。この時期に読んだ本はその後の人生の基礎図書になっていることが多く、私もE・H・フロム『自由からの逃走』、ジョン・K・ガルブレイス『豊かな社会』は終生の愛読書になりました。社会や国民のニーズに即応した大学の弾力化・柔軟化の美名のもとに行われた「改革」ですが当時の経済界の要求として改革そのものの要因であった「即戦力化」は未だに実現できていません。経済界の求める人材像も時代とともに変化し今では「課題設定・解決能力」「論理的思考力」「創造力」になっていますがこうした能力は、幅広い読書と深い専門性、そして熱い友人関係を通じて醸成される能力で、「教養学部」で練磨されていたように覚えていますし「リベラルアーツ」は欧米の大学の重要な修得学問になっています(ハーバードをはじめとした名門校はリベラルアーツを起源としている大学です)。

 平易化された大学で1年から専門分野ばかりの狭い領域を学習する今の制度では幅広い読書を修練する機会は限られています。

 

 出版社の業績悪化も読書の衰退に影響を与えています。出版科学研究所のデータによると返品率(金額ベース・2019年)は書籍が35.7%、雑誌42.9%になっていますがこれにはベストセラー、ロングセラーも含めた数字ですからこれを除外した書籍の返品率は5割を超えているのが実状です。出版した半分が売れないようでは製造業としては破綻しているといっても過言ではありません。極言すれば「粗製乱造」で毎日毎月氾濫する新刊書をどう選べばいいのか、結局平積みの人気書を選ぶしかなく系統立てた深い読書にはほど遠い環境に置かれた現状は、読書はSNSやテーマパークなど多様なエンターテーメントと競合する立場に追いやられていて、その割に要求される知識技能は多く、面倒くさい選択肢になりますから自然、遠ざけられてしまうのではないでしょうか。

 

 読書はなぜ必要なのでしょう。これまでも多くの人たちが読書をしてきましたし、今活躍している政治家や官僚、企業経営者の多くは人並み以上の読書量と勉強ができた人たちですが、政治は停滞していますし官僚は文書改竄を平気で行ったり忖度を憚ることもなく、企業経営者は多額の報酬を得ながらイノベーションを起こせずに世界で唯一、ゼロ成長を甘受しています。第二次世界大戦という貴重な代償を払って手に入れた「平和」でありながら80年経った今、ウクライナでもガザでも戦争がつづき北朝鮮は原爆の製造を止めようとしません。プーチンもゼレンスキーも金正恩も賢くて豊富な読書をしてきたはずなのに。

 

 ショーペンハウアーが『読書について(光文社古典新訳文庫)』こんなことを書いています。「読書することは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。(略)思想体系がないと、何事に関しても公正な関心を寄せることができず、そのために本を読んでも、なにも身につかない。なにひとつ記憶にとどめておけないのだ。」

 本を読んで多くの知識を手に入れても、「何かのために」役立つものだけをバラバラな知識として「暗記」していたのでは、「公正な関心」にもとづく「思想体系」はできません。最高学府を出た政治家や官僚が「不正」な判断をする原因はここにあるのでしょう。

 

 PC・スマホが普及してAIが進化すれば、過剰な情報が「AI検索」によって一方的に「自分の考え」であるかのように提示されることも容易に現実化するにちがいありません。その結果「望まない方向」に無意識に導かれることになる可能性は大いにあります。そうならないように「情報」を「批判的」に収集するために「正しい」読書は有効なのです。

 「愚鈍と不作法はたちどころに広まる」。ショーペンハウアーのことばです。

 

 

 

 

 

2024年9月23日月曜日

死語

  バスの車窓から見える街路樹のイチョウは9月半ばを過ぎても36、37度という異常高温のつづくなかにもかかわらずもう3分ほど黄葉づいています。イチョウはスゴイなぁと思います。現生する樹木の中でもっとも古い、約1億5千万年の歴史をもっていますから――ほかの植物がみな化石になったなか唯一生き残った強烈な生命力をもつ樹ですからこんな異常高温などものともしないのでしょう。バスを降りて昼下がりの住宅街を歩くとほんの十日前まで日陰がまったくなかったのに家の影が伸びて太陽を遮ってくれてわずかな風のそよぎにも涼しさが感じられます。太陽が真上から少し斜めに下りてきているのでしょう。自然は少々の異変などに関係なく悠久のいとなみをくり返しているのです。

 それにくらべて人間はたった50年で節操もなく変わり果てています、清貧、孤高、卑怯者などの言葉が死語になったように。もっとも聞かなくなったのは「清貧」でしょう、たまたま今週終章を迎えるNHK朝ドラ『虎に翼』の終戦直後のシーンで餓死した裁判官が話題にのぼりその死にざまを「清貧」と呼んでいたので思いだした人もあるかもしれません。清貧という生き方は完全に姿を消しています。こんな世相ですから生活に困窮している人は少なくとも2千万人(相対的貧困率15.7%)は下りませんが彼らは好んでそんな状況にいるわけではありません。「労働力の流動化」の美名のもとに「非正規雇用」という「働き方」を《圧しつけられた》人たちです(真ただ中の自民党総裁選で「解雇規制の緩和」を行なって労働力の流動化を促進しようと提案している候補者がいます)。一方「清貧の人」は自分の生き方を貫くために「貧しさ」を選んだのですから根本的に異なります。「孤高」はもっぱら新聞の「訃報」の中で逆境にもかかわらず自説を貫き通した人を尊称する場合に用いられていることが多いように感じます。それに比べて「卑怯者」は今でも使われる機会が残っている方ですがマスコミで「彼は卑怯者だ!」と断罪した人がいました、梅沢冨美男さんです。話題の斎藤元彦知事を「卑怯者!」と称したのです。あまたの識者・コメンターターが歯切れの悪いコメントを繰り返す中で久々にスカッとしたのですが「卑怯者」は彼ではなく片山前副知事に当てはまる表現ではないでしょうか。斎藤知事はもっと悪辣な、人間的に厳しく非難されるべき表現を当てるべきだと思うのです。森友学園問題の佐川財務局長――彼も齋藤さんと同じくその所業によって人を殺していますから――にも当てはまるような言葉を探したのですが『卑劣』以外に思い当たりませんでした。

 

 「卑怯者」には臆病というニュアンスがありますから、まさかここまで自分の悪事が明らさまになるとは思っていなかった片山さんは考えられる限りの権力をかさにきた威圧的でネチネチ、どぎつい詮索・捜査を行なって知事――上役への忠誠心を示し忖度したのです。ですから形勢我に利あらずとみるや尻に帆かけて逃げ出したのですがもっとも似合わない「泣き」まで演じたのですからみっともなさも極まりました。もともとが小心翼々の小役人で保身に関しては臆病ですからまさに「卑怯者」は片山さんに献ずべきなのです。

 前任の井戸知事は5期20年の長期政権でしたから県庁の隅々までその威光は行き渡っていました。長期政権の悪弊は権力構造に歪みをもたらします。そんな中で人事畑を振り出しに企画県民部管理局長、西播磨県民局長、産業労働部長、公益企業管理者などを歴任した片山さんは井戸体制の中をもっとも上手に泳ぎ亘った「役人」の典型です。当然知事の庇護のもと隠然たる権力を保持したでしょうしそれを快く思わない職員も多かったにちがいありませ。事務方トップに上り詰める直前で定年退職せざるを得なかった彼は心残りであったことでしょう。しかし井戸さんと同時に片山さんも県庁から去ったことで井戸体制に批判的であった人や処遇に恵まれなかった職員はヤレヤレと思ったにちがいありません。

 ところが信用保証協会の理事長に収まっていた彼が斎藤体制になるや副知事に返り咲いたのです。改革を期待した職員が失望したのは想像に難くありません。独断専行のキャリア官僚上がりの知事と県庁に張りめぐらされた旧体制の権力構造を熟知した「副知事願望」の極めて強い「役人根性」丸出しの「寝業師」がタッグを組んだのですから最悪の権力体制です。心ある職員は絶望感におそわれたにちがいありません。当然の結果として組織に忠実な「イエスマン」が要職を占めることになります。元県民局長と同時に「捜査」を受けた職員にスマホの「スピーカー」を強要した人事課員はそれが「盗聴」に値する「違法」な行為であることは熟知していたはずです。それにもかかわらず違法行為を断行したのは県庁職員としての倫理観を放棄して「忖度職員」に堕落してしまっていたのです。

 

 長々と兵庫県知事問題を述べましたが、これが今の「“勝ち組”至上主義」を象徴していると思うからです。能力を評価されて組織に生き残る、そして上り詰める。そのためには自分を放棄するのも仕方がない、そんな「価値基準」を信じる人が世間を牛耳っているように感じてなりません。しかしその評価・承認はそのときの「組織にとって」「上役にとって」都合のいい基準に過ぎません。井戸さんに認められる基準と斎藤さんのそれは異なっていることもあるでしょうし10年20年のスパンで見れば組織の評価基準も変化して当然で社会という広い範疇で考えれば30年も経てば価値基準は大きく転換してしまいます。上述の「清貧、孤高、卑怯者」は私たちの子どもの頃までは重要な「倫理」だったのです。それが今や『死語』に成り果てているのです。

 

 トランプ現象に見られるように虐げられた層、恵まれない層の人たちは自分を放棄しても「庇護」してくれる「カリスマ」に『支配』されることを受け入れて『隷従』してしまい勝ちです。それは自分の内なる「価値基準」を持っていないからです。「自立」していないからです。井戸体制の、齋藤体制の「評価基準」よりも「内部通報者保護制度」という「社会の法――制度」の方が上位の価値基準であり尊重すべきであることは通常の神経であれば、公務員になるほどの知識・識見のある人なら分かっているはずです。それが通用しなかったところに「“勝ち組”至上主義」が跋扈している「精神状況」を見るのです。小泉政権から安倍政権とつづいた「新自由主義」の潮流です。

 

 立憲民主党と自由民主党の代表・総裁の選挙が行なわれています。両党の新しいトップのもとで「脱新自由主義」が実現できるのでしょうか。

 

 

  

 

 

2024年9月16日月曜日

キミが主人公だ

  この頃おじいちゃんおじいちゃんやね、ぽつりと妻が言いました。おばあちゃん一辺倒だった孫に変化が表れたのは「シール剥がし」以来です。二才になった頃からテレビが解禁されてアンパンマンにハマった孫はシール貼りに熱中しました。そのうち貼って終わりではなく「貼って剥がして貼る」という面白さを求めるようになりました。しかし紙に貼ったシールを剥がすのは至難の業です。お父さんもお母さんもできなかったのでおじいちゃんおばあちゃんに頼ったのですがおばあちゃんは早々にお手上げです。おじいちゃんはがんばりました。爪を立てて引っ搔いてひっかいて、なんとか一枚剥がれました。半分薄紙がくっついていますが「やったぁー!」と喜んで貼って「もっと」とせがみます。おじいちゃんが特別な存在になった一瞬でした。

 私の健康法の中心は「快適な排便」です、そのためにウチでは放屁を許してもらっています。さすがに婿さんの前や娘の家では慎んでいたのですが習慣ですからつい孫の前でプーしてしまったのです。怪訝な顔で私を見つめます、「おじいちゃん」妻の叱責に「ゴメンナサイ」。何度かそんなことがあって、今プーしたのだれ?という妻の声に「おじいちゃん!」間髪を入れず答えるようになりました。大人でプーするのはおじいちゃんだけ。仲間意識が彼の中で生れたかもしれません。

 

 孫は可愛いといいます、想像以上でした。溺愛という言葉が実感できました。しかし80才にして初めて授かった孫は可愛いだけでなく、驚きであり健気であり畏敬の念さえ覚えます。ヒトというものはこんなに生きようとするものなのか、生命(いのち)はここまで必死に成長するものなのかを教えてくれます。

 娘夫婦の子育ては慎重ですが賢明だと思います。なかでも1歳児保育を選択したのは大正解でした。もちろん娘の職場復帰という必要に迫られた事情はあったのですがめったに主張しない婿さんの強い意向で園にあずけることにしました。既成概念として、3歳までは親が育てた方がよい、育てるべきだという刷り込みがありますし、心情的にも頑是ない幼子を親から引き離して他人にあずけることに不憫さを感じるのですが、こうした考えが幼児の成長にとってまったく根拠のない誤ったものであることをこの1年半の通圓生活が証明してくれています。

 月齢がクラスでもっとも高い(早い?)こともあって成長速度が一番でリーダー的な存在となって、自立心が強く自分で考えて行動する傾向があり個性的でありながら小さい子が好きで面倒見がよい一面をもつようになりました(詳細な連絡帳があり園での行動がよく分かります。先生の努力は並みなみならないものがあります)。考えてみれば当然のことで保育士さんは幼児教育の専門家で素人の普通の親(ましてジジ、ババ)より知識と経験が豊富なのですから子どもの成長に良い結果をもたらしてくれて何の不思議もありません。どうして誤った既成概念がはびこったのでしょうか、そしてその誤った考えで国の幼児教育の施策が決まっているのでしょうか。さし迫った問題として娘の「時短勤務」が来年の3歳の誕生日で打ち切りになってしまうのです。3歳の後先で養育事情になんの変化もありません。少し先には「小1の壁」も控えています。このままでは娘は来年今の職場から時短勤務可能な近所の地元の企業(お店)に転職しなければなりません。キャリアロスと待遇悪化を強いられます。子育て支援、子どもまんなか子ども家庭庁とか掛け声は口当たりのいいことを打ち出していますが実状はこの体たらくです。

 

 どこの親もジジ、ババも幼児の成長を目の当たりにしていると「この子は賢い、天才かも?」と思うものですがそれがどうして成長に従って「十で神童十五で才子、二十過ぎれば只の人」になるのでしょうか(以下の引用は『承認をひらく(暉峻淑子著)』からです)。

 生れたときから評価され、標準到達度をテストされ、他者と比べられる社会/“勝ち組”至上主義という承認基準を持つ社会は、別の意味で生きにくい社会なのではないかと思います。一方では激しい競争社会で査定されつづけ、他方では自由の名のもとに個人はバラバラにされ、依るべきものを持っていません(引用

 ちょっと前まで「いい学校に入っていい会社に就職して」というのが親の願いでした。まだその影響は少なくありませんがこうした価値観は「よその子との比較」であり「世間一般の(他人から与えられた)価値基準」であることに変りありません。

 子どもは大人から見守られ、信頼され、ありのままを承認されていると感じると、自己肯定感を持ち、将来への希望を持つようになります。どの子も自分の能力を発揮して、認められたい、という潜在的な承認欲求を持っているのです(引用)。

 親や大人から管理されるだけでなく、仲間との自由な遊びの時間と空間を合わせ持つことによって、子どもは自分の人生の主人であることの楽しさと喜びを経験します。それが大人になったときの自立の喜びの原体験になっているのです(引用)。

 子ども時代の仲間との自由な遊びを通して、子どもは自発的な能力を育てる。管理から解放された自由な遊びは創造性を育て、個性を育てる。家の中だけでは子どもの精神は育たない……精神が育つためには自由を与えなければならない。自分が自分の主人になったことのないものの精神は自立することがありません(引用)。

 両親や祖父母などの庇護のもと経済的にも豊かに育てられることは一見子どもにとって恵まれているように感じますがそうではないのです。「私は自分の人生の主人公である」という実感を持ったことのある人と優秀なキャリアがありながら不祥事を起こしてしまう人の分かれ目はこんなところにあるのかも知れません。

 

 ああしろこうしろと命令され、褒められたり叱られたりすることを判断の基準にしてしまうと、大人になっても自分で判断する力が育っていませんから、真の意味で自立した人間にはなれません。外側の基準に合わせるだけの人間になります(引用)。

 褒めるということと、人格を持った一人の個性を承認するということは次元が違うことを覚りました。私の経験の中でも、なんとなく感じていた「褒めること」への違和感がはっきりしたのです(引用)。

 「褒めて育てる」が普通になっていますが実は非常に難しいことに気づいている親は多いはずです。やみくもに褒めても自由放任では自己中心のわがまま勝手なイヤな子に育ってしまいます。肝要なところは「人格を持った一人の個性を承認する」ことです。これが難しい、親自身が経験していないこともありますから。

 

 価値観を自分自身で持つこと、そのために「それぞれの子どもが自分の価値に目覚めること(引用)」を目標とする教育がわが国で行われる日が一日も早くくることを願って止みません。